チキサニ ―巨きなものの夢― Chapter.13

13

 眼前にあった光景が、一瞬にして消えた。

 汗ばんだ肌を撫でる涼しい風や、緑の香りも、葉擦れの音も、鳥の囀りも……何もかも消え失せていた。

 三輪さんの姿も無くなっていた。

 すべてに代わって、まるでいきなり真空の中に放り込まれたように、虚しい闇が広がっていた。

 ぼくは、最初、自分が脳溢血の発作にでも襲われたのかと思った。

 だが、意識ははっきりしていたし、苦しさや痛みも感じられなかった。

 深呼吸して、気持ちを落ち着けてから、周囲を見渡す。

 だが、何も見えない。自分自身の姿も見えない。あわてて、自分の顔を手探りした。

 手が何かに触れた。硬い冷たいもの。撫でると、輪郭がつかめる。
(頭と顔を何かが包みこんでいる)

 それが、ヘルメットらしいとわかり、頭から剥ぎ取った。

 目に飛び込んできたのは、見慣れぬ部屋の中の光景だった。

「ここは……どこだ?」
 思わず呟く。

 ぼくは、狭い部屋の片隅で、リクライニングチェアに体をあずけていた。そして、手に頭から外したヘルメットを抱えていた。

 まるで、他人の脳と自分の脳をそっくり入れ替えたような気分だった。混乱して、何も考えることができない。

(とにかく、落ち着かなくては……)

 ゆっくり目を閉じ、しばらく何も考えないようにする。それでも、様々な光景や会話が、滅茶苦茶にコラージュしたようによみがえってくる。それが頭の中で渦巻いて、目眩と吐き気に襲われる。しかし、それをなんとか我慢しているうちに、記憶の渦巻が収まってきた。

(世界が……失われてしまった。直前まであったあの世界が、パチンとスイッチを捻ったように消えてしまうなんてことがあるのか? ……ぼくは、死んだのか? ……死んだのに、こんな狭い部屋の中にいるのはどうしてだ? ……あれは、みんな夢だったのか……) 

 落ち着いてくると、今度は、自分の指向がそんな考えのループをはじめた。

 恐る恐る目を開け、あたりを見回す。

 8畳くらいの狭いワンルーム。窓際にシングルベッド、小さなライティングデスクとその上のノートPC、作り付けの本棚はびっしりと本で埋まっている。IH調理器と小さなシンクだけのキッチンスペースは、使われた形跡がない。いかにも独身の男の殺風景な部屋だ。

 その部屋の真ん中で、折りたたみのリクライニングチェアに座って、ヘルメットを抱えている自分。

 幾度か部屋を見回し、深呼吸をするうちに、ここが『現実』の自分の部屋であることが、ようやく理解できた。

(シンのやつ、とんでもないものを……)

 その体験は、心にも、体にも強烈な衝撃を与えた。

 あのオートバイの旅は『現実』以外の何ものでもありえなかった。そして、今いるこの部屋もまぎれもなく『現実』だ。ぼくは、二つの現実の狭間で固まってしまった。

 熱いシャワーを浴び、冷えたビールを飲んでひと息ついても、あの旅の経験がフラッシュバックして、もう一つの現実へ引き戻されるような感覚にとらわれる。

 今、自分のアパートにいてビールを飲んでいる自分と、旅をしている自分のどちらが本当の自分なのか、考えれば考えるほど、確信が揺らいでくる。

 三輪さんと酒を傾けながら当たるたき火の暖かみをふいに感じたり、濃厚な森や磯の香りが、突然、鼻をつく。

 重い疲れを感じた。

 ビールの酔いが急速にまわる。今にもベッドに倒れこみたいくらいなのだが、一方で、眠りに落ちるのが恐かった。

(このまま眠ってしまったら、『自分』がなくなってしまうのではないか。朝、起きたら、自分が誰か忘れてしまっているのではないか。あるいは、あの旅の『自分』と、この『自分』が入り乱れて、発狂しているのではないか)

 そんな、恐怖に囚われた。

 だが、睡魔は容赦なく、ぼくを押し流した。

 ベッドに倒れこむとき、掛け時計が目に入った。時刻は、午前三時だった。

「いったい、今日は何日の午前三時なんだ?」
 薄れゆく意識の中で、ぼくは、旅の期間を思い出そうとした。

(長い間、会社を休んでしまった……)
 そんなことを思いながら、ベッドに倒れこんでいった。

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 それからのぼくは、会社のルーティンワークに没頭した。シンが残したあのシステムのことは忘れようとした。

 あの旅から『帰還』した後、自分がたしかに実在するという確証が持てなくなっていた。それを仕事に没頭することでなんとか忘れようとした。

 だが、あの体験はぼくの頭に染みついて離れなかった。仕事に立ち向かおうとすればするほど、あの旅の記憶が鮮明に蘇えり、再び旅に戻りたいという衝動が沸き上がってくる。

 シンが作り出したあのシステムに比べれば、ぼくが、いま手がけているストーリーゲームなどあまりに稚拙で、それに神経を集中しようとすればするほど、心は遠く離れ、あの谷の風景に引き寄せられていく。

(あれだけの長期に渡る濃密な体験を、いったいどうすれば、たった五時間のプレイ時間におさめられるんだ?)

 ベッドに倒れこんだのが午前三時、ぼくがヘルメットを被ってディスクを動かし始めたのは、午後十時だった。あの旅に出てから現実に戻るまで、五時間しか経過していなかったのだ。

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 シンの庭のハルニレは、葉の緑がいっそう濃くなり、夏の日差しを遮って芝生に涼しい影を落としていた。ときおり吹き渡る風が梢を揺らし、葉擦れの音が響く。

(チキサニ……、ハルニレ……)

 ぼくと真澄は、庭にせり出したテラスに並んで腰掛けていた。傍らでは、シンの娘が気持ちよさそうに寝息を立てている。何もかも、いつものように穏やかな日常だ。

 『家庭』という言葉が、脳裏に浮かぶ。ぼくが一度失い、二度と手に入れることができなかったもの。それがここにある。

 こんな幸せな家庭を持ちながら、シンは、いったいどこへ行ってしまったのだ。

 ぼくは、あのゲームのことを真澄に話した。

 嵐の中のツーリング、三輪さんとの出会い、フェリー、そして、北海道の旅。あの谷の景色……。かいつまんで話すだけでも、だいぶ時間がかかった。

「シンは、やっぱり、自分の世界を取り戻したのね」

 ぼくの話が終わると、彼女は、宙を見つめてつぶやいた。

「シンが、自分の世界を取り戻した? それは、いったいどういうことだ?」
 ぼくは、真澄に問いかける。

 真澄は、ぼくの言葉に、怪訝そうな顔をした。

 ぼくは、もう一度問いかけた。
「シンが、自分の世界を取り戻したって、どういう意味だ?」

「私、そんなこと言った?」

 ぼくはうなずく。

 彼女は、少し思案し、自分のつぶやきを思い出して、うなずいた。

「シンがね、よく言っていたの。自分には、どこかで置き忘れてしまった世界があるって」

「置き忘れてしまった世界?」
 彼女は、深くうなずく。

「あなたのその旅の話を聞いていて、そんなことを思い出したのよ」

「俺が体験した世界はシンが置き忘れた世界で、それをシンは取り戻したって言うのか?」

 彼女は、少し考えてから、首を振る。
「わからない」

 彼女は、目の前で眠る娘の頭をやさしく撫でる。そして、言葉を続ける。
「あの人が、若い頃にほうぼう一人旅していたことは知ってるでしょ。一度ね、どうして一人旅ばかりしていたのって聞いたことがあったの。そしたら、彼ね、大学生の頃に失ってしまった時間をずっと探していたんだって答えたわ。大学生の夏に、どこかの山で遭難して、その何日間かの記憶がなくなってたんだって。その失われた記憶が、どこかにきっとあるはずだ。あのとき、自分はとても大事な何かを得たような気がする。なのにそれがどうしても思い出せず、それを探し求めていたんだって」

「シンがそんな経験をしたなんて知らなかった」

「そうでしょうね。あの人、私がそんなことを聞くまで、自分でも忘れていたみたいだったもの。自分がどうして一人旅を続けていたのか、私がそんなことを聞いて、初めて気づいたみたいだった……。あなたの話しを聞いて、急に、そのことを思い出したのよ」

「それが、俺が体験したあのゲームと、どうつながるというんだ……」
 ぼくは思わずつぶやく。

 彼女は、それを受けて、言葉を続ける。
「その、なんていうか……。一人旅もそうだけど、あの人がゲーム作りにあれほど熱中していたのも、じつは、自分が亡くした世界を取り戻すためだったんじゃないかって気がするの。彼には、自分でも気づかない漠然とした目的地というか、求めるものがあって、それをなんとか具体的な形にしたくて、ゲームを作っていたのよ。いっしょに暮らしているうちに、私はそう思うようになったの」

「そして、シンは、あのゲームで、ついにそこまで達したと?」
 真澄は、ゆっくりとうなずく。

「それじゃ、シンの失踪は、いったいどういうことなんだ? シンは、ようやく目標を達成し、自分が失った世界を取り戻して、大団円のはずじゃないのか?」

「その答えは、あなたが、あのゲームを最後までやらないとわからないと思うわ。シンが、そうしたようにね」

 真澄は、真剣な目で、ぼくを見据えた。

「私ね、あなたも、あの人と同じで、昔に、何かすごく大切なものを置き忘れてきてしまって、それを探し続けている人なんじゃないかと思うの」

「俺が……大切なものを置き忘れた?」

「ええ、それもやっぱり、あのゲームの中にあるんじゃないかしら」

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