チキサニ ―巨きなものの夢― Chapter.8

 いつのまにか、夏が本番を迎えていた。

 雑居ビルに挟まれた中野のぼくのアパートは、エアコンの室外機と、通りをうめる車からはき出される熱で、るつぼのようにうだっていた。

 仕事から戻り、冷房をフルパワーにしても、芯まで熱くなったコンクリートからは、濃い液体のような暑熱がいつまでも染みだし続ける。

 その暑さのせいか、よく夢を見るようになった。

 四畳半二間に小さな流しがついただけの古びた木造アパート。子供用の勉強机が隅に置かれ、資料の山に埋もれた手前の一間がぼくの仕事部屋だ。

 奥では、臨月を迎えて体調のすぐれない妻が、大きな腹をかばうように、擦り切れた畳の上で横臥している。

 暑い……、マンションに囲まれてろくに陽も当たらないのに、暑さだけは掃き溜められたようによどんでいる。その濃い液体のような暑熱の中で、妻は、泥の中でのたうつようにときどき体をくねらせ、苦しそうなため息をつく。

「こんな暑さじゃ、クーラーがなかったら死んじゃうわ」

「そのために、俺は、こんなくだらない原稿書いているんだろうが」

 ぼくは子供机に向かったまま、原稿用紙の上に落ちて広がる汗の染みをぼんやり眺めながら、吐き捨てるように言う。

 視界の端で、妻が重い体を揺すりながら起き上がったのが見えた。そして、激高した。
「三ヶ月分もたまった家賃だって払わなければならないし、私の出産費用だってなんとかしなくちゃならないのよ!」

「なんとかなるさ」
 ぼくが返した言葉には、自分でもはっきりとわかるほど、力がなかった。

 あちこち頭を下げて、ようやくとってきた仕事は、風俗系月刊誌の読者投稿のリライトやら、本人の話などまったく使えない業界紙のインタビュー記事を勝手にでっち上げる記事やら、協賛金の多寡で内容の盛り方を変えるグルメ雑誌の食べたこともない料理の紹介記事やら、書けば書くだけ虚しさが募っていくような、まるで雪かきのような記事ばかりだった。

 書くことのモチベーションも最低だから、締め切りが間近に迫っていてもやる気が出ない上に、耐え難い暑さが加わり、筆は一歩も進まず、ぼくの苛立ちもピークに達していた。

「なんともならないわよ。今までだってずっとそうじゃない、なんとかなるさって。そのうちいい仕事が来るさ、本を出せば少しは余裕ができるさ、今度の編集長は俺に期待をかけてくれているみたいなんだ。いいテーマを見つけたよ、これはモノになる……もう聞きあきたわよ、そんな皮算用は。あんたはね、モノを書く才能なんて最初からないのよ! 普通の仕事をしてくれれば、こんな思いしなくて済むのに……、これなら生活保護でも受けたほうがましじゃない」

 妻は、鳴咽しながら畳を叩いていたが、そのうちに獣のような唸り声をあげて、汗の滴り落ちた畳表をかきむしり始めた。

 その勘に触る音を聞くうちに、様々な不満と怒りが沸騰して膨満の限界に達していたぼくの頭の中で、何かが弾けた。

 ぼくは、握っていた鉛筆をへし折り、叩きつけた。

「好きにしろ! 俺についてくるのが嫌なら今すぐ別れてやる。そうすりゃ、おまえの親もおまえを許して、その腹の中の子供ごと養ってくれるさ。そのほうが俺もすっきりする。このクソ暑くて狭苦しい部屋の中で、ギャーギャーわめかれたら、考えなんてまとまらないんだ。俺の仕事がうまくいかないのは、結局おまえのせいだってことがわからないのか」

 …………

 ぼくは、立ち上がり、渾身の力をこめて安っぽい事務用の椅子を蹴飛ばした。背当てがスポンと間の抜けた音を立てて抜けて、そのまま飛んでいって、鈍い音とともに、襖に突き刺さった。

 自分のこの抑えきれない怒りの原因が自己憐憫であることははっきりわかっていた。しかし、それがわかったからといって、怒りが収まるものではない。自己憐憫に支配され、当たり散らす自分の姿とこんなことになった自分の運命が哀れで、しかも、そんな人生に妻を巻き込んでしまったことが悔やまれる気持ちがないまぜになり、ただ、得体のしれない怒りに身を任せるしかなかった。

 そして、よれよれになったショルダーバッグから擦り切れた財布を掴みだすと、それを握りしめて、すすり泣きをはじめた妻を跨いで、出ていこうとした。

「どこ行くの! 今にも、赤ちゃんが産まれるかもしれないのよ!」
 妻はすすり泣きを止め、射抜くような視線でこちらを睨みつける。ほつれ毛が汗で顔にはりつき、やつれ顔に鬼気迫っていた。

「うるさい!」

「ちょっと待って、置いてかないで!」

 まとわりついてきた妻を、ぼくは反射的に足で振り払おうとした。そのとき、妻の大きく膨らんだ腹に足がめりこんだ。嫌な感触が這い登ってきた。

 だが、かまわず、腹を抱えてうずくまった妻を残して、扉を叩きつけて表に飛び出した。

 当てもなく街へ向かって歩いていく。

 いつからこんな貧乏物語の典型のような人生に足を踏み込んでしまったのか、いつから人生にかける夢を失ってしまったのか、いつから妻を愛さなくなったのか。

  明日をどうやってやり過ごすか、今はそれだけに追われている。昔は理想の仕事のイメージをしっかり握っていたはずなのに、今はそれも霞んでしまった。

 どうすりゃいいんだ……考えれば考えるほど、暗い思いが重なり、それが渦となり、どす黒いその中心へと、思いは引き込まれていく。

 妻の身と子供に致命的な仕打ちをしてしまったことに、そのときは気がつかなかった。いや、はっきりとわかっていた。ぼくは、自分がしたことをはっきり理解していながら、それを無視していた。

 ぼくは、幽鬼のように、夜の街をさまよった。

 気がつくと、薄暗く、すえた臭いのたちこめる路地裏をうろついていた。
切れかけたネオン看板の下に、東南アジア系の売春婦がたむろしている。その中のいちばんすれっからしに見える売春婦を選んで、薄汚いラブホテルへ連れ込む。

「エイズでもなんでもいい、もっと不幸になれる、どうせなら奈落の底の底までおとしてくれるような病気をもらってやる。そうすりゃ、なにもかもざまあみろダ!」

 そう念じながら、やり場のない怒りを女に突きたてる、何度も、何度も。

「死ね、死ね、みんな死んじまえ……」

 別の夢では、アパートを飛び出すところまでは同じだが、ぼくは渋谷の路地裏にいて、以前三流週刊誌の仕事で取材したことのある麻薬の売人と話をしている。

「何か、きついのはないか。なにもかも忘れてすっきりできるようなやつ」

「スピードは生憎持ってねえんだ。ハッパじゃ今のあんたにゃ物足りなさそうだしな……。そうだ、クラックがあるよ、それからアシッドも少しならある」

「両方くれ」

 ぼくはポケットからくしゃくしゃになった無け無しの札をつかみ出すと、それを童顔のその男に渡し、小さな包みを引っ掴む。

「いっしょにやったらヤバイぜ、クラックは2錠、アシッドはペーパー半分が一回分だ」

 ぼくは、公園の水飲み場で、白い錠剤を5つばかり、それに笑い顔の魔人がプリントされた切手大のペーパーを二枚、一気に飲み下す。

 気がつくと、ぼくは、小さな子供と二人で、狭く薄暗いエレベーターに乗っていた。

 ぼくの腰くらいの背のその子を見おろすと、その子はこちらを見上げる。
それは、幼い頃のぼく自身だ。

 だが、どこかが違う。

 形はたしかにぼくだが、“それ”は、得体の知れない雰囲気を漂わせている。

〝それ〟は、縦長の爬虫類の瞳でぼくをにらみ、冷たい笑みを浮かべる。
と、突然、エレベーターが恐ろしい勢いで落下しはじめる。

 どこまで落ちるのか見当もつかないほどの果てしない落下。落ちるにしたがって、加速度が増していき、ぼくの足は床から離れて宙に浮きあがってしまう。だが、爬虫類のぼくは、平然と床に立ったまま、こちらを見上げて、あいかわらず冷たく笑っている。

 そして、その笑いが止んだとたん、エレベーターは地上に激突する。ぼくは、それまでの加速のつけを一度に払わされ、激しく床に叩きつけられる。一瞬の核爆発のような閃光と衝撃に襲われる。

……

 二日酔いのように、頭が重い。

 寝汗でびっしょりの肌に、クーラーから吹き出す冷気が直接当たっている。

 あわてて起き上がり、タオルで汗を拭う。

 窓の外が明るくなりはじめている。

 ひどく喉が乾いていた。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、少しずつ飲み下すうちに、外の明るさが増してきた。ゆっくりと眠りたいのだが、鮮明な夢の記憶がフラッシュバックのようによみがえり、目が冴えてしまう。

 幼い頃、ぼくはたしかに幸福だった。

 北関東の地方小都市の郊外、共稼ぎの公務員の両親と祖母、そして、四歳違いの双子の妹たちとの明るい家庭。

 父は写真と盆栽が趣味の公務員の中間管理職、母は高校時代に国体まで進んだテニスプレーヤーで、仕事よりも地元のテニス教育のほうに熱心な人だった。

 明治生まれの祖母は、若い頃は東京で看護婦をしていて、結婚後、この街に移り住んだが、戦争で夫を亡くし、苦労して一人息子つまりぼくの父親を育て上げた。

 それは、どこにでもある、ささやかな幸福を暮らす家庭だった。

 あれは、ぼくが10歳の春の彼岸だった。

 ぼくは、祖母とふたりで墓参りに行った。

 芽吹きはじめた楠の大木の梢の間からうららかな日差しが注ぎ、野鳥が楽しそうにさえずっていた。背はすでに小柄な祖母を追い越し、もうすぐ小学校入学をひかえた妹たちにいっぱしの兄貴ぶりを発揮していたぼくは、おとな気取りで、鎌や花や線香や水桶を抱えて、天気や花のことを話題にしながら、祖母と並んで歩いていた。

 霊園に隣接する高校の野球グランドからは、硬球が弾ける快音が響いている。

「こんなに幸せでいいんだろうかねえ……」

 ふいに、祖母がしみじみとつぶやいた。傍らの祖母を見ると、柔らかい日差しを投げかける太陽のほうをまぶしそうに見上げて、ほんとうに幸せで満足そうな笑顔を浮かべていた。

 長い苦難を耐えて生き抜いてきた明治女の典型のような祖母は、いつも神経を張り詰めて生きていた。祖母は、どんな場面でも気丈で、感情を露にすることはなかった。ぼくは、心の底から幸せを噛みしめている祖母の姿を見て、感動にも似た気持ちを抱いた。

 しかし、ぼくと祖母がうららかな春の日差しを浴びながら霊園を歩いていたちょうどそのとき、ささやかな家庭は、じつは、不幸に喰らわれていた。

 その日、両親と妹たちは、小学校入学の支度を揃えに車で1時間ほどの町まで出かけた。

 買い物を済ませた四人が車で帰路についたとき、ふいに路肩から自転車に乗った子供が飛び出してきた。ハンドルを握っていた父は、咄嗟に反対車線まで避けた。そのとき、対向してきたダンプカーと正面衝突した。

 事故が起こったのは、国道のバイパスに面した、妹たちが入学する予定になっていた小学校のその面前だった。

 それからずっと、祖母は、霊園でつぶやいた自分の言葉をずっと気にしていた。あのとき、言霊がついてしまったのだと言い続けた。

「わたしが、こんなに幸せでいいんだろうかね、なんて不吉なことを言ったから、こんなことに……。私が身代わりになってやれれば……」

 気丈だった祖母は人が変わり、あの事故を自分のせいだと思い続け、ずっと悲嘆の底に暮らした。

 それから8年間、北関東の地方都市の古い住宅地の一角で、父が丹精を込めていた盆栽が枯れていくのをみやりながら、「私が身代わりになってやれれば……」という言葉が口癖となってしまった祖母と二人きりで暮らした。

 祖母が亡くなると、ぼくは東京の大学へ入った。学費や生活費は、両親と祖母が残してくれたものでなんとか賄うことができた。

 二十歳になったばかりのとき、同級生だった彼女と同棲を始めた。もちろん彼女が好きだったこともあるが、それ以上に、失われてしまった家庭的な温もりが恋しかったのだと思う。

 大学の卒業と同時に、ぼくたちは籍を入れた。彼女は名家というほどでもないが、裕福な地方資産家の娘で、彼女の両親は、若すぎる二人の結婚に反対した。それを振り切ってぼくたちは一緒になった。

 その頃、ぼくは、もの書きとして身をたてていきたいと漠然と思っていた。といって、具体的なビジョンを持たずに大学の四年間を過ごしたぼくが、いきなりもの書きとして生計を立てていく術はなかった。

 ぼくは、先輩のつてを頼り、小さな出版社の三流週刊誌にアルバイトとして潜り込んだ。そこで雑用などをこなしながら、次第に記事を書かせてもらうようになっていった。

 駆け出しのしかも三流週刊誌のライターでは、もちろん配偶者を食べさせていけるほど収入があるはずはない。といって、妻を働かせる気にはなれなかった。

 ようやくつつましやかながらも家庭を持ち、幸福の兆しが見えはじめたところで、妻が社会に出てぼくの元から去っていくようなことが起こるのが怖かったからだ。

 学生という温室から出てみると、自分がいかに凡庸な世間知らずか、そして世の中には平気で人を食い物にする狡猾な人間がたくさんいるか思い知らされた。そんな中にぼくよりずっと世間知らずな妻が出て行けばたちまち食い物にされてしまう。そんな恐れにすくんでいたのだ。

 また、ちまちまと書きつづけている小説がそのうち売れて、メジャーになれば、悠悠自適の生活ができるという、若さゆえの根拠のない自信もあった。幸い……というか、そのせいで踏ん切りがつかずにモラトリアムを過ごしてしまったともいえるが……社会へ出てからも、贅沢をしなければ数年間暮らしていけるだけのものが残されていた。

 結局、その雑誌で5年あまり仕事をした。

 くだらない芸能ネタか猟奇的な事件を物見遊山で追いかけるような仕事は神経をささくれさせる。いつまでたっても、そんな記事ばかり書かされ続けることに嫌気がさしていたとき、ある取材を巡って編集長と意見が対立し、ぼくは編集部を飛び出した。

 そして、フリーでやっていくことにした。

 だが、世間の風は冷たかった。

 三流週刊誌での5年間が、まともな仕事に結びつくキャリアになるはずもなく、気がついてみれば、神経をささくれさせる仕事の土俵に舞い戻っていた。しかも、今度は何の後ろ盾もなく、なんとかありつけた仕事は、商店街のちらしのコピー書きや旅行パンフレットのちょうちん記事、情報誌のデータリライト、それに前の仕事よりさらに落ちぶれたブラックジャーナリズムの雪かきくらいしかなかった。

 想い出の最後の残滓であった故郷の土地は、二束三文で地元のブローカーに巻き上げられた。そして、気がつくと、親が残してくれたものも底をついていた。

 苦境に追い討ちをかけるように、妻がはじめての子供を身ごもった。

 落ちぶれるときは早い。凍った坂道を滑り落ちて、あがいているうちにさらにずり落ちていくように、あがけばあがくほど、底のない坂を滑り落ちていく。

 ぼくが飛び出した夜、妻は子供を流産した。

 畳に、生々しい爪痕が残されていた。

 この世には、もうぼくの居場所はないと思った。

 彼女は病院からそのまま実家へ帰った。あの夜以来、彼女の顔も見ず声も聞かなかった。

 しばらくして、送られてきた離婚届けに判を押し、送り返した。守るものがなくなったと思ったとたんに、心が落ち着いた。そして、自分は、もう落ちるところまで落ちたんだと自覚した。

 ぼくは、ドヤ街で暮らすようになった。

 それから何年かして、シンに再会したのだ。

 シンとはじめて出会ったのは、三流週刊誌ではじめて取材記事をまかされた時のことだ。もう15年も前のことだ。

 シンは体感シミュレーションというまったく新しい手法のゲームを開発し、ぼくは、その取材に行ったのだ。

 当時はまだ、ゲーム業界といっても、所詮アンダーグラウンドな遊びの世界としてしか扱われておらず、メジャーなメディアは歯牙にもかけなかった。ゲーム業界の社会的ステータスといえば、ちょうど、ぼくが身を置いていた三流ジャーナリズムが格好の埋め草にする程度のものだった。

 ぼくとシンは年が近い上に、同じような上昇志向を持ちながら、マイナーな世界に甘んじている境遇が一致して、はじめから妙に気が合った。

 その日のうちに意気投合し、その後、幾年か、酒場で待ち合わせては、仕事の愚痴を言ったり、将来の夢を語り合うような交流が続いた。

 しかし、時代は、急速に変わっていった。

 コンピュータを中心にしたデジタル情報革命という大波の中、ゲーム業界は、いつのまにかその先頭を突っ走っていた。大波の頂点で見事なサーフィンを見せて(ゲーム業界で頭角を表わしはじめたシンの実際の趣味もウインドサーフィンだった)、次々と斬新なゲームを作り上げていったシンは、まさに時代の寵児となっていった。

 シンが成功への階段を一足飛びで駆け上っているとき、ぼくは、底辺で踏み外していた。そして、いつのまにか、ぼくたちの付き合いは、ぷっつり途たえてしまった。

 新しい工事現場に、年上の仲間たちと到着したとき、掲げられた工事案内板に、ぼくは懐かしい名前をみつけた。その現場の施主が、他ならぬシンのいるゲームメーカーだったのだ。その名を見た時、ぼくの脳裏には、まっさきに彼の顔が浮かんだ。

 ぼくは、汗と埃にまみれて、シンの会社の基礎にコンクリートを流し、セメント袋を積み上げた重い一輪車を押しながら、次第に偉容を現わしていくビルを見上げていた。

 都心の一等地に、周囲の一流企業のオフィスビルを見下げるように蕭然と立ち上がっていくビル。この現代のバベルの塔のような建物の上階に、あのシンのオフィスが入るのだ。いったい、そこに入るシンは、どのような人間になっているのだろう。ぼくは、まぶしく見上げるだけで、変わったであろう旧友の姿を想像することができなかった。

 家電業界を追い越し、自動車業界も凌駕しようというコンピュータゲーム業界のトップ企業で開発担当副社長まで上りつめたシン。彼が、この工事現場に訪れたとき、ぼくには、それがなつかしい友人であることがわからなかった。

 だが、今のぼくの境遇について知る由もないはずのシンは、ぼくの顔を見るなり、それが音信の途絶えた旧友のなれの果てであると、すぐに認めたのだ。

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