チキサニ ―巨きなものの夢― Chapter.11

11

 フェリーの中ですっかり意気投合した三輪さんとぼくは、北海道に上陸すると、長万部のキャンプ場に並べてテントを張った。

 駅前で三輪さんが茹でたての毛ガニを買い、それをつまみにして酒を酌み交わす。

 ぼくが毛ガニの殻をむくのに手こずっていると、
「内地の人は、こういうの下手なんだよな」
 と、笑って言って、器用に殻を剥がすと、きれいに身を取り出して、たちまち大きなコッヘルに山盛りにした。

 空には、今まで見たこともない満天の星が輝いていた。

 それから、三輪さんとぼくは、自然に同行する形になった。

 ぼくたちは、キャンプしながら道南から道東と巡った。

 毎晩、ビールと地酒を三輪さんが調達し、ぼくが材料を調達して、ジンギスカンやらカニやら、三輪さん流のちゃんちゃん焼きやらをつまみに、夜がふけるまで飲んだ。

 夏も終わりに近づきつつあり、北海道の季節は、一足先に秋へと踏み入れていた。キャンプ地はどこも閑散していて、ほとんど人影がなかった。ときどき居合わせるキャンパーは、ほとんど、ぼくたちと同じ一人旅だった。そんなキャンパーに出会うと、三輪さんは気さくに声をかけ、宴会にひきこんだ。

 ソロツーリストは、他人と協調するのがわずらわしい人嫌いの人間のようだが、じつはみんな、人が恋しくてたまらないのだ。そんなことが、三輪さんとの旅のうちにわかってきた。みな、三輪さんに半ば強引に誘われ、しぶしぶ宴会の輪に加わってくるが、酒がまわり、話しが進むうち、すっかり意気投合してしまう。

 宴会の輪は、いつしか、気のおけない仲間どうしが、そこで会うことをあらかじめ約束していたかのように、自然な雰囲気に包まれ、盛り上がっていた。

 みんながすっかり打ち解けると、誰かから、なぜ三輪さんは三十も半ばを過ぎてから仕事を辞めて旅に出たのかという質問が出る。そして、宴の締めくくりの三輪さんの身の上話になった。

 ぼくは、何度もその話しを聞いているうちに、細部まですっかり覚えてしまった。

 ふつうなら、身の上話しを何度も聞かされては、うんざりしてしまうところだが、三輪さんの話しは、聞く度に、ぼくの心にじんわりと染みこんで、その度に新たな思いが沸き上がった。

 彼の話しは、いつも同じ一言で始まる。
「孝行がしたいときには親はなしというけど、ほんとだね」

 この言葉をつぶやいたあと、目にうっすらと涙を浮かべ、コップに残っていた酒をゆっくり噛みしめるように飲み干す。

「俺の本当の両親は、国後にいたらしいんだ。たぶん、もう生きてないだろうけど……」

 三輪さんは、終戦前夜、国後島にあった泊という町で生まれた。

 ソ連軍が北方四島に電撃侵攻したとき、日本人のほとんどは、取るものもとりあえず内地へ逃げた。だが、生粋の千島アイヌだった彼の両親は、遠い先祖の代から暮らし続けてきた土地を捨てることはできないと、そこに踏みとどまった。そのとき、まだ生まれたばかりの彼だけは、自分たちとともに殺されては不憫と、内地へ渡る隣人に託されたのだ。

 彼を預かった家族は、なんとか北海道には渡ったものの、すべてを捨てて逃げてきた上に、そこには頼る親戚も仕事もなく、彼が足手まといになってしまった。そして、彼の出生について書いた手紙を添えて、彼を通りかかった札幌の駅に置き去りにした。

 彼の育ての親となった女性は、旭川郊外の村の人だったが、そのとき札幌へジャガイモを売りに来ていた。彼を駅で見つけ、手紙を読むと、ジャガイモを背負ってきたカゴに、今度は彼を入れて、旭川に帰った。

 彼はそんな経緯を高校に上がるまでまったく知らなかった。

 事情を知ったのは、彼を札幌駅で拾った女性、つまり母親の通夜の晩のことだった。

 彼には年の離れた妹がいる。その子を生んだときに母親は亡くなったのだった。

―あの人は気丈な人だったのう。旦那がまだ復員もしておらんで、ばあちゃんと食うや食わずのとき、あの子がどうにも不憫だって引き取って立派に育てたんだから。どこの誰だかわからん子供を育てて、ようやく自分のほんとうの子どもができたと思ったら……。あたしゃ、どうにも不憫でならないよ―

「叔母さんは、俺が隣の部屋にいるのも知らずに、そんな話しをしたんだ。ショックだったよ。自分が拾い子だなんて、想像もしてみなかった。俺は叔母さんを問いつめてすべて聞きだしたんだ……」

 連れ合いを亡くしてから、父親は、彼に辛くあたるようになった。

「俺がアイヌの血を引いていたから、おふくろは、見捨てておけなかったんだろうね。三輪の家もおふくろのほうも純粋なアイヌだからね。……おふくろは、なんだか神秘的にきれいな人だったよ。腰まである髪は油を引いたようにつらつらとして、肌なんか伝説の西王母みたいに白く透き通っていた。いつもなにか甘い花のような香りがしていた。静かで、優しくて、でも芯はしっかりしてて。……親父の悔しさが身にしみるほどわかったよ。俺を精一杯可愛がってくれてさ、ようやくほんとの子供ができたと思ったら、その子の命と引き換えに逝っちまったんだからね。俺なんかいなければ……」

 彼は自分の辛さのはけ口がみつからず、自暴自棄になった。

 そして、母親が亡くなってから2年後、高校のなかばで家を飛び出した。

 場がしんみりしてしまうと、彼は話題を移した。
「ばあさんはね、カムイユカラの語り手だったんだ」

「カムイ……?」

「カムイユカラ、アイヌの昔話さ。アイヌは字を持ってなかったんだ。歴史や神話は口伝えで子孫に伝えられるんだけど、それを専門にする人が村には必ず一人か二人いたんだ。ばあさんは、その語り手の一人だったんだ」

「三輪さんもよく聞かされましたか?」

「ああ、シロカニペ ランラン プシカン、コンカニペ ランラン プシカン……て、たったそれだけしか覚えていないけどね。それは、ふくろうの神様の話しだったな、たしか、銀の滴が降って、金の滴が降って……なんて意味の出だしだったな。ばあさんは、俺をカムイユカラの語り手に仕込みたかったらしいんだ。今にすればよく覚えておけばよかったと思うよ。覚えていることといえば、ばあさんが怒ったときの顔が鬼みたいだったってことだけ。口なんか耳まで裂けちゃうんだからね、ほんとに」

「……………」

「口のまわりと眉に濃い入れ墨をしていたんだよ。それが、怒って顔になると、口は耳まで裂けて、眉は仁王様のように見えるんだ」

「入れ墨ですか?」

「そう、昔のアイヌの女は、みんなしていたんだ。魔除けだったって言われているけど、ほんとは、シャモ……和人の男がむりやりてごめにしたり、人の奥さんを横取りしたり、アイヌの女に対してあんまり横暴をはたらくものだから、シャモの男が見向きもしないような醜い顔にしたんだってことだ」

 三輪さんは、家を飛び出すと、各地を転々とした後、東京で落ち着き、菓子職人の見習いになった。

「俺さ、飲兵衛だけど、甘いものにも目がないからね。理想的な職場だったよ」

 彼は、その下町の老舗で十二年働いた。そして一人前の職人として認められ、独立して店を持つという段になって、父親が病に倒れた。

 彼は、自分が店を開業するために用意していた資金で、父親の手術費をまかない、その後必要な高額な治療費と、父親が養っていた祖母の生活費や妹の学費を仕送りするために店を出すことをあきらめ、実入りのいい長距離トラックの運転手に身を転じた。

「病気になってから、さすがに気が弱くなったんだろうねえ。親父は電話で、俺に辛くあたったことを何度もわびたよ。受話器の向こうから弱々しい親父の声が聞こえてくると、なんだか無性に田舎に帰りたくなった。だけど、その金も惜しんで働き詰めに働いたよ。ばあさんが看病疲れで亡くなったときも、自分の旅費がなくて帰れなかった」

 彼を取り囲んで話しを聞いているみんなはぼくも含めて二十代前半の若者ばかりだ。三輪さんが背負ってきた運命の重みや苦悩は誰も想像もできなかった。だが、その話しの重み、人生というものの重みだけは、なんとなく実感できた。

「その親父もね、病院のベットで8年も過ごして、今年死んじまったんだ。……親父のやつ、俺が拾い子だなんて、一言も言わずに、自分の胸にしまったまま棺桶の中に持っていっちまったよ。こっちは全部知ってたのにね……」

 三輪さんにとって、今回の旅は、二十年前に飛び出して以来、はじめて故郷を訪れ、父親と祖母の墓前に参る追憶の旅だった。

 だが、彼はなかなか故郷へ向かおうとしなかった。ぼくたちは、三輪さんの故郷である旭川を遠巻きにするように、北海道の南から東を巡った。

 港町は、祭りでにぎわっていた。

 小さな街の大通りは、練り歩く山車行列と三々五々集まった客で埋め尽くされている。祭り囃子と勇壮な掛け声が響き渡る街の上空には、深海のような青空が広がっている。街を包む熱気とは裏腹に、吹く風には深まった秋のような冷たさが紛れ込んでいた。

 沿道には大釜が並べられ、獲れたての花咲ガニが惜しげもなく茹でられている。

 ぼくたちは立ち上る湯気の温かさとカニの匂いに誘われて、どんぶりをふるまう列に並んだ。

「いつのまにか、お盆か……」
 三輪さんは、大きなどんぶりからはみ出したカニの足を箸で持ち上げながらつぶやいた。

 ふいに、夏が黄昏れつつあることを実感した。そして、胸騒ぎ゛のようなものを感じた。

(このままでいいのか? このまま三輪さんに引きずられるようにして旅を続けていていいのか?)

 三輪さんとの旅は楽しいものだった。ぼくは、彼から多くのことを学んだ。この先も、彼と一緒に旅を続ければ、学べることは多いだろう。

 だが、このまま主体性なく彼の背中を追いかけるように旅を続けていると、何か肝心なものを忘れてしまうような気がした。

 そもそも、ぼくは、この旅に何かを賭けていたはずだ。この夏が終われば、大学に戻るなり、他の道に転身するなり、はっきりと、自分の進むべき道を決めなければならない。

 ぬるま湯のような大学生活をなんとかしたい、その結論を見つけるために、旅に出たのではなかったか。

 このまま三輪さんとの旅の心地よさに身を預けていると、結局、何も結論を得られないまま夏が終わってしまう。

(北海道の隅をウロウロしているうちに、貴重な時間が無意味に流れ去ってしまう。このまま、何も得るものがなく、東京に戻ったら……)

 先のことを考えると、急に胸苦しくなった。

 ぼくは、旅に出る前のことを思い出そうとした。東京での大学生活……。

(東京? 東京でどんな生活をしていたんだ?)
 ぼくは、具体的な光景を思い出そうとした。

 学生でにぎわうキャンパスの中に、ぽつねんと佇む自分がいる。だが、そこで、ぼくは何をしているのか? 友人は……幾人か、自分をとりまく影のような人間が見える。だが、具体的な人間は、まったく思いつかない。

 目を瞑り、思いを巡らしていると、漠然とした影は浮かんでくる。それは……身近な、肉親のような。だが、いずれも靄のように漠然と浮かぶだけで、具体的な顔や名が思い出せない。

 ぼくは焦った。

(どうして、何もはっきり思い出せないんだ!)

(記憶喪失……)
 心臓が高鳴る。

 さらに記憶を探る。

 しかし、手応えがない。ブラックホールに通じる巨大な渦巻きに吸い込まれていくような、底知れぬ恐ろしさを感じた。

(どうしたんだ! どうして何も思い出せないんだ!)

 目を開けて、足元を見る。

 そこは真っ黒な虚空……。

 恐怖に虚脱する。

 虚空に吸い込まれて落ちていきそうだ。

 そのとき、どこからか、声が聞こえた。

(考えてはだめだ。余計なことを考えてはいけない)

 そして、何かが、奈落に落ちそうになったぼくを引き戻した。

 再び、あたりを見回す。

 そこは、元の港町だった。

 間近に、心配そうにぼくを見る三輪さんの顔があった。
「大丈夫かい?」

 足元を見る。そこには、たしかな大地があった。

(今、何を思い出そうとしていたんだ……)

「大丈夫か? 気分でも悪いのかい?」

 三輪さんは、湯気を上げているどんぶりを地面に置いて、ぼくの肩に手をかけた。

「ええ、大丈夫です。少し目眩がしただけで……」

「でも、顔色が真っ青だし、ひどい汗だ。医者に診てもらったほうがよくないか?」

 あぶら汗の浮いた肌を秋風が冷やした。今、自分が、何のせいでパニックに陥りそうになっていたのか思い出せなかった。

「いや、大丈夫です」
 ぼくは首を振った。

 紺青のオホーツク海に向かって、細い半島が突き出している。

 貝殻が砕けた白砂で形作られたその半島は、先端のほうで鋭く湾曲して、釣り針のような形をしていた。そのまぶしいほどの白さは、古代人が動物の骨を加工して作った釣り針のようだ。半島の真中を踏み固められた道が貫通している。

 港町を後にしたぼくたちは、半島の先端にあるトドワラと呼ばれる朽ちた木の林立する湿原を見物し、この白砂の道を走っていた。

 夕暮れが迫りつつあった。空は茜に染まり、凪いだオホーツクの海にその影が映じて、空と海が渾然一体となっていた。その中に突き出した白い釣り針の上を行くと、まるで宇宙に浮いた細い梁の上を進んでいるように思えた。

 半島の湾曲部を回り込むと、暮色の中に大きな影が横たわっているのが見えた。

 先に走っていた三輪さんが、突然オートバイを止めた。ぼくも、その横に並んで止める。

 彼がエンジンを切ったので、それにならう。

 エンジン音が消えると、夜の帳が降りてきて海を圧する音が聞こえるような気がした。

「国後だ」
 三輪さんが、眼前の島影を見すえてつぶやいた。

 そう、あの島こそ、三輪さんが生まれた島であり、もしかしたら、今も本当の両親が住む場所なのだ。それは、手を伸ばせば触れられそうなすぐそこにありながら、見えない国境と歴史に閉ざされている。

 三輪さんは、国後の島影が夜の闇に溶け込むまで無言で見つめ続けていた。

 その夜、ぼくたちは原生花園のまっただなかにキャンプ地を定めた。

 そこは、360度遮るもののない平原だった。

 目を凝らして見なければ、びっしりと星が埋め尽くした天蓋と大地の境が判別できない。まるで、宇宙の中に浮かんでキャンプしているようだ。

 ぼくは関東平野が海に面した広大な土地で育った。だから、風景の広大さには慣れているつもりだった。だが、この広野の真ん中に立っていると、自分の知る広さというものがちっぽけなものにすぎなかったと思い知らされる。広野を渡る風は、まるでぼくたちの存在など意に介さないように、ゆったりと吹き抜け、天蓋の星は、独自のリズムで息づいていた。それは、果たして、自分がここにほんとうに存在しているのかどうかわからなくなるような広大さだった。

「人間なんて、ちっぽけなものだな」
 ぼくの気分を代弁するように、三輪さんがつぶやいた。

 ぼくは無言でうなずく。

「星がきれいだ」
 続けて彼が言う。

「明日もいい天気になりますよ」

 すこし間をおいて、自分に向かって呟くように三輪さんが言った。
「明日、旭川に向かうことにするよ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?