チキサニ ―巨きなものの夢― Chapter.12

12

「ぼくは、ここで別れることにしますよ」
 翌朝、出発の準備をしているときに、ぼくは話しをきりだした。

 そろそろ一人旅に戻る潮時だと思った。

 これ以上彼と同道していては、自分がこの旅に出た目的が希薄になってしまう。

「三輪さんも、実家に帰ると決められたわけだし……」

 ぼくが言うと、彼はさびしそうな目をしてこちらを見た。そして、遠く地平線の彼方に目をやりながら言った。

「きみをずいぶん引っ張りまわしちまったもんな。気がつかなくてすまなかった。一人できままに旅がしたかっただろうに、ずっと俺の後ろを走らせちまって」

「いや、そんな、三輪さんが謝ることじゃないんです。三輪さんと一緒に旅ができて、とても楽しかったんです。ただ、そろそろ夏も終わりに近づいているし、一人に戻ったほうがいいかなと……」

 彼は向き直って、ぼくを見た。その顔には、何か切実な思いがこもっていた。

「……せめて、旭川まで一緒に行ってくれないか。せっかくここまで道連れで来たんだし、俺の実家で一泊くらいしてってくれよ」

 ぼくは、一人に戻ったら北の端まで行ってみようと、漠然と思っていた。旭川ならほんの少し迂回する形になるが、北の方角だ。ここまでつき合ってきたのだ。あと一日くらいは、彼につき合ってもかまわないだろう。

 ぼくは、彼に向かって無言でうなずいた。

 彼は、初めて会ったときに見せた、あの無邪気な笑顔をして喜んだ。

 ぼくたちは海岸線から離れて、内陸へとハンドルを向けた。

 秋風の道東から、内陸に入り込むにしたがって夏が戻ってきた。

 碁盤目状の区画に、戦前から建ちつづけてきたような煤けた建物が並んだ旭川の街は、暑さが沈殿し、人通りもまばらで、ゴーストタウンのようだった。

 三輪さんは、街を南北に貫く大通りを、わき目も振らずアクセルをあおって走り抜けた。

 彼の故郷は、旭川の郊外だと聞いていたが、ここまで来ると、はやる気持ちに急き立てられるのだろう。いつもは、後ろを行くぼくをバックミラーで確認しながらスピードを加減する彼が、こちらを気にする気配もなく、まっすぐ前だけを見て走っていた。

 街の外れで、彼は信号を黄色で通り抜けた。続くぼくは赤信号に引っかかった。いつもは、交差点の先で待ち受けている彼の姿がどこにもなかった。道はまっすぐだから、ひたすら飛ばして、ようやく追いつくことができたが、彼は、ぼくが信号で引っかかっていたことにもまるで気づいていないようだった。もはや、ぼくが同行していることも、彼は忘れてしまったのではないかとも思えた。

 市街地を抜けてしばらくすると、空気が変わった。よどんだ旭川の暑さに代わって、森を通り抜けてくるしっとりした空気が心地良い。

 原生林の宇宙の中に浮かぶ銀河のように牧場が点在し、うねるような起伏が延々と続く大地を、道はかたくななほど真っ直ぐに伸びている。起伏に沿って大きく上下する道を、ぼくたちはジェットコースターのように突き進んでいく。

 そのまま三十分ほど走り続けると、古びた牧柵に沿って伸びる細い農道に入った。しばらく行くと舗装が途切れた。後ろを行くぼくは、たちまち三輪さんの後輪が巻き上げる砂埃に包まれた。

 少し間を置いて後を追う。

 横に続く牧柵の向こう側では、羊がのんびりと草を食んでいる。北海道に来て初めて羊が放牧されているのを見た。羊たちは、広い野にバラバラにいるのではなく、いくつかの群れを作って、群れごとに点在していた。遠ざかって見ると、それは、草原に落ちた綿雲のようだった。

 赤いサイロの横を通りすぎてしばらくすると、牧柵がとぎれた。その先は、カラマツとシラカバが混生する明るい林になった。道は、あいかわらず大地のうねりを真っ直ぐに切り取ったように一直線に続いている。

 三輪さんはずっとハイペースで飛ばしていた。ダートだが、往来はかなり多いらしく、砂利がよく踏み固められている。

 林の中に入ると、しっとりとしたその空気のせいか、砂埃はほとんどたたなくなった。

 林を突き抜けてくる日差しが、路面にモザイク模様を描いている。

 アクセルを一定に保ち、ハンドルに軽く手を添えて直進していると、木漏れ陽の瞬きに幻惑されて、自分ではなく風景のほうが動いているような気がしてくる。気が遠くなるほど快適なツーリングだ。

 道を分けてから、さらに小一時間走った。

 緩やかな傾斜の長い上り坂を登りきると、とつぜん景色が開けた。峠に先に着いた三輪さんは、エンジンをとめ、眼下に広がる風景を呆けたように眺めていた。

 そこには、火山の外輪山のような小高い丘に囲まれた谷が広がっていた。

 三浦さんの横にオートバイを止め、エンジンを切ると、谷から青く潤いのある風が吹き上げてきた。

 あらためて眼下の景色を眺めて、ぼくは息を飲んだ。

 谷全体を短い草が覆っている。そして、その真ん中をちょうど午後の日差しに金糸のように輝く小川が貫流している。その岸辺に、小さな家が点在している。そして、谷の中心にある緑のピラミッドかと見まごうばかりの巨樹。

 そこにあるのは、無意識の奥に我知らずしまってあった原風景がいきなり現出したような風景だった。

 景色を形作るすべてのものが、心をわしづかみにするような郷愁を帯びている。山の起伏も、緑の濃さも、せせらぎや風の音も、生活の気配も、そして、青々としたいあの巨樹も、すべてが、見ているだけで懐かしさが涙とともにこみあげてくるような、そんな風景だった。

(デジャヴュ……)
 いや、違う。そんなものじゃない。

 ……ぼくは、突然確信した。自分はこの土地に繋がっているのだと。

 ぼくたちは、長い間、言葉もなくその場に立ち尽くしていた。

 突然、巨樹の葉がいっせいに煌めいた。そして、少しの間を置いて、一陣の風が吹き上がってきた。

 それを合図とするかのように、三輪さんが呟いた。
「カムイのチキサニ」

「チキサニ?」

「アイヌの言葉で、ハルニレをそう呼ぶんだ」
 彼は、巨樹を見つめたまま答えた。

「チキサニ……、ハルニレ……」

 ぼくも、その木をしっかりと見つめた。風景に対する、いっそう懐かしい感覚が心の中に湧き上がってきた。

 断続的に風が吹き上がってくる。それは、谷の向こう側の丘を越えてくる風だった。草原を靡かせ、金糸の沢の水面を揺らし、そして、ハルニレの梢を揺すり、その葉が煌めく。

 ハルニレが、ぼくたちを歓迎していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?