チキサニ ―巨きなものの夢― Chapter.9

 岬をまわりこんだとたん、風の方向が定まらなくなった。

 正面から吹きつける風に抵抗して体を前にあずけていると、今度は背中をどやしつけられて前のめりになる。体を右に傾けて右にまわった風に抵抗すれば、左から叩かれる。

 嵐の海で翻弄される難破船のように激しく風雨にもてあそばれていた。

 こうなると、真っ直ぐ走るのが至難の技で、センターラインを大きくまたいで蛇行を繰り返す。この北の果ての道は、幸い対向車が少ないが、それでも、危うく正面衝突しかけたことが幾度もあった。

 車でさえ、この嵐に翻弄されてまっすぐ進めないのだ。オートバイで走るのは、ほとんど自殺行為に等しいだろう。

(……オートバイ?)

 そう、ぼくはオートバイに乗っていた!?

(今までオートバイに乗ったことなんてあったか?)

 油断の許されない嵐との闘いの中で、突然、間の抜けた疑問が浮かぶ。だが、それは重大な疑問のような気がした。

 一瞬、風雨を忘れて、自分の経験を振り返える。だが、オートバイの運転を習ったり、ツーリングした経験は思い浮かばない。

(だけど、ぼくは、現にこうしてオートバイを運転しているし、この嵐の中を本州最北端の街、大間に向かっていることは確かだ)

(だが、なんのために大間へ向かっているんだ?)

 そう思った瞬間、目の前で白い光が弾けた。そのまばゆい光の向こうに、この旅に出た経緯と、ここまでの旅の想い出が一気にフラッシュバックした。そして、疑問の連鎖も吹き飛んだ。

(どうした? 雨に体温を奪われて、朦朧としたか?)
 そんな言葉が浮かぶ。その瞬間、けたたましいクラクションとパッシングが、ぼくを現実に引き戻した。

 大型トラックが、雨のしぶきの中、眼前に迫っていた。

(ダメだ! ぶつかる!)
 心でそう叫びながら、体が咄嗟に反応していた。

 右車線の真ん中に入り込んだ車体を咄嗟に左に傾け、一瞬、リアブレーキを当てて車体を左にスライドさせる。方向が変わった瞬間、車体を真っ直ぐに立て直し、ブレーキを外すと同時にアクセルを捻る。

 雨でハイドロ気味に浮いたタイヤは激しくホイルスピンしたが、なんとか路面をつかみ直して、オートバイを前進させた。

 すんでのところで、左車線に復帰し、トラックは激しく警笛を鳴らしながら掠めて通り過ぎていった。トラックの跳ね上げる大波のようなしぶきが、頭から降り注いだ。

 まさに瀬戸際だった。一気にアドレナリンが沸騰して、全身に震えが走る。オートバイに乗るようになってから何年も経ち、何度か危険な目にも遭ったし、事故で怪我もしたが、死ぬと覚悟したのははじめてだった。それにしても、よく回避できたものだ。

「ぼうっとしてないで、しっかり前を向いて走れよ!!」
 そう自分に毒づくように言って、ヘルメットを思い切り叩くと、震えは止まった。

 そして、再び嵐との闘いに没頭した。

 大間のフェリー埠頭にたどりついたときは、オートバイから降りるのももどかしいほどに消耗していた。

 フェリー埠頭といっても、大きな漁港の片隅に遠慮がちに設けられた小さな桟橋で、横づけされているフェリーも、大型トラックが3台も入ればいっぱいになってしまうような小さな船だった。

 埠頭のつけ根にあるプレハブの待合室に入ると、夏の盛りだというのに、ダルマストーブに火が入れられていた。

 ぼくは、すぶ濡れの雨具から水を滴らせながら、発券窓口に向かう。

「すいません、船は出ますか?」

「ああ、出るよ」
 大きなアルマイトの弁当箱をかかえこんでいた中年の発券係は、口に飯を入れたまま、あっさり答えた。

「お客さんオートバイね。そんなら乗船券と合わせて千九百円ね」
 くたびれた船員帽をかぶった発券係は、ほっぺたについていた飯粒をつまんで口に入れると、片手に弁当箱を持ったままで、切符を差し出した。

「こんな天気でも大丈夫なんですか?」

「オガはひでえけんと、外海さ出ちまえば、さほどでもねえんだわ。あと1時間で出航すっから」
 こともなげに答える。

 外からは、雨音にまじって、桟橋に係留されたフェリーの舷側にぶら下げられた古タイヤのクッションが岸壁に押しつけられる悲鳴が聞こえている。

 体の芯まで冷えきっていた。

 ダルマストーブの前に陣取り、抱え込むようにしても、なかなか暖かさを感じられない。

 待合室には、ぼくの他に、三人の男がいた。

 地元の漁師らしい中年の二人は、壁の上の棚に置かれたテレビを食い入るように見つめている。もう一人、トラックの運転手らしいグレーの作業服の若い男は、気だるそうにベンチに寝転んでスポーツ新聞を広げている。

 三人とも、ぼくのほうに注意を払う気配はない。

 雨具の中は下着までびしょ濡れだった。パンツ以外全部脱ぎ捨て、乾いた衣類に着替えると、ようやく一心地ついた。

 ホッとすると急に空腹を覚えた。

 2階は食堂になっているようで、階段のほうから漂ってくるうどんのだしの香りに、気が遠くなる。考えてみれば、今朝、豪雨の中であわててテントを撤収してから半日以上も、何も口に入れていないのだ。

 だが、ベンチをダルマストーブに引き寄せて、その温かみの中に沈殿していると、氷雨に打たれてこわばった体が柔らかく解れていくのと同時に、溜まっていた疲労がにじみ出しきて、腰をあげる気力を奪ってしまう。

 餓えと疲労の間でうつらうつらしていると、突然、待合室に歓声が響き渡った。

 弾かれるように目を覚まして、あたりを見回す。

 そこには、相変わらずの顔ぶれしかいない。

 と、もう一度、歓声が沸きあがる。それは、棚の上のテレビから発していた。

 テレビを観ていた男のどちらかがチャンネルを変えたのだろう。さっきまでののんびりした地元のノド自慢に代わって、白熱した甲子園の高校野球大会が映し出されていた。

 張りつめた空気が球場を圧している。たった今、三塁を落とし入れたらしい走者が、土埃にまみれ、肩で息をしながらホームベースを凝視している。投球に入るふんぎりがつかずロウジンバックをもてあそぶ投手。緊張で今にも心臓が飛び出しそうな顔をしている打者。総立ちで拳をにぎりしめるベンチ。スタンドは総立ちで、何万という人の声援が巨大なうねりとなって、テレビのこちら側の空気までも揺るがせている。骨まで透けそうな強烈な陽射しの中での戦い……。ストーブの温もりをありがたく思いながら観るそんな光景は、どこか、遠い中央アジアあたりで行なわれている幻の野球を見ているような気がする。

「日本も広いもんだ……」
 ふいに、自分が遠くにいる実感がわきあがlり、そんな独り言を呟いた。

 と同時に、肩を叩かれた。
「オートバイで北海道かい?」
 ふりむくと、紺色のアノラックを着た中年の男が、右手にヘルメットをぶら下げ、人なつこい笑顔を浮かべていた。

 真ん丸い輪郭にまばらな無精髭が生えた顔は、ゴマをふったアンパンを思わせる。

「ええ。いちおう……そのつもりなんですが」
 と答えたものの、今しがたまで虚ろだったため、自分がいったいどこへ向かうつもりなのか、確信が持てなかった。

 そして、さっき嵐の中で浮かびかけたような疑問を思い出す。
(俺は、いったい何をしているんだ? 旅に出たのか? いったいいつ……)
 そんなことを思うと、いきなり頭が痛んだ。脳の深いところまで錐を刺し込まれるような、鋭い痛みだ。

(何だ、この痛みは!)
 パニックに襲われそうになり、脂汗がこめかみを流れ落ちる。

(落ち着け。今、視床から大脳皮質へのフィードバックが高まっているんだ。異常は何もない)
 何かが、頭の中でつぶやく。

 さらに続けて、声がした。
(疑問を持つな。素直に物語に心を委ねるんだ。そうすれば、すべてスムーズに進み出す。……これは人生そのものなんだよ)
 それは、ぼく自身の声のようだった。

 頭の中から疑問を追い出す。そして、目を瞑り、頭を上に向けて、深く呼吸した。

(北海道……そう、俺は何もかも嫌になって、北海道にでも行ってみるかと思ったんだ)
 状況を思い出すと同時に、頭痛はうそのように消えた。

 両手で顔を洗うように脂汗を拭い、目を開けると、アンパン顔の男が、心配そうに覗きこんでいた。

「たいへんだったなぁ」

 彼は、ぼくが嵐の中を走ってきて消耗しきったと思ったようだ。心配顔をほころばせると、彼は、ベンチの背に引っかけて湯気をあげるぼくの衣類を見やり、向かいに腰を下ろした。

「俺が出発するときは、まだ降りだしてなかったんだけどな。やっぱり、あれだな、早起きは三文の得ってやつだ」
 彼はそういうと、背後の窓のほうを指差し、獅子頭のような大きく四角い健康的な歯を見せて笑った。彼の指差した窓の外には、ぼくと同じ赤いオフロードバイクが止めてあった。

 昨日、恐山の麓の薬研温泉に隣接したキャンプ場にたどり着いたのは、もうだいぶ夜も更けた時間だった。季節外れの平日のキャンプ場には、同じバイクツーリストの先客がいた。太いカラマツの木の横に、ぼくと同じバイクと小さなドームテントがあった。

 迷惑にならないようにバイクのエンジンを切って押していくと、にぎやかな秋の虫の合唱をかき消すような、大きな鼾がテントの中から聞こえてきた。

「あのお隣さんですか」

 ぼくが言うと、彼は笑ったままうなずいた。

「予報では午前中から荒れ模様になるって言ってたから、朝出かけるときに誘おうかと思ったんだけどな。でも、気持ちよさそうに鼾かいて寝ていたんで、そのまま先に一人で出発しちまったんだ。こんな嵐になるのがわかってたら、無理にでも起こしたんだけどなあ」
 そう言うと、彼は、申し訳なさそうに頭をかいた。

 彼は、三輪と名乗った。

「君は学生?」

「ええ、まあ。三輪さんは?」

「プータロー、職なしだよ。……北海道までツーリングするためにさ、仕事辞めたんだ」

 なんだか、わけありの感じだった。この夏の終わりに、わざわざ仕事を辞めてツーリングに出るというのは、あまり普通のことではないだろう。

 ぼくの場合は、単調な学生生活にうんざりしてドロップアウトしただけだから、よくある話しだ。だが、三輪さんはどう見ても三十代半ばだ。一回りも上の大人が、仕事をなげうって一人旅に出たくなる事情なんて青二才のぼくには想像できないが……。

 三輪さんは、ここまで辿ってきたルートやキャンプの様子、それに旅のエピソードなどを話した。

「キャンプしながら旅するのは初めてなんだ。だけど、思っていたより快適でさ、この生活がすっかり気にいっちまったよ」

「でも、ひとりきりで寂しくないですか」

「いや、人に気がねしなくていいから気楽だよ。ときどき変なやつが訪ねてきたりするしな。おまわりはうるさくて困るけど、福島の駐車場で寝てたときなんか、暴走族の兄ちゃんたちがやってきてさ、テントから顔出して、一緒に酒飲まないかって誘ったら、いいんですか、なんて明け方まで話こんじまったよ。帰りがけに、あんまり親に心配かけんなよって言ったら、ハイわかりましただって。根は素直でいい連中なんだよな」

 彼の話しからは、心から旅を楽しんでいることがよくわかった。彼の旅の体験談をぼくも楽しみながら聞いているうちに、あっというまに時間が経った。気がつくと、発券係りが乗船開始を告げていた。

 船に乗り込んだのは、ぼくたちを含めた待合室にいた5人と、出航まぎわに船倉に入った2台のトラックの運転手だけだった。

 雨足はいぜんとして強かったが、港を出ると、うそのように風が止んだ。

 船が津軽海峡に出ると、あの嵐がうそのように、海面に落ちる雨の滴の音が聞き分けられそうなほど静まりかえっていた。

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