「恥ずかしセンサー」使ってる?
こんにちはDashです(@DashEnglish1)
人助けってできます?
知ってる間柄だと当たり前に手伝ったりできるんですけど、知らない人への親切ってけっこうハードル高くないですか?頭の中では困ってる人を助けるのがいいことだと理解はしてるし、なんの疑問も持ちません。
でもその感覚が揺らぐ瞬間があります。
同じブロガーのコミュニティに所属してるらいさわさんの記事を読んでいて親切ってなんだろなーと思ったのでこの記事を書くことにしました。
らいさわさんの記事はこちら。
簡単にまとめると下のようになります。
その状況にいてないから、言い切るのは乱暴かもしれませんが最悪です。こういう場面を想像するといろんな感情が沸いて出てきます。
らいさわ事件と情けなさ
まずモヤっとした1つ目の感情は「情けなさ」です。
困ってる人を前にして助けない大人がいるということ。小さい頃から困った人は助ける。困ったときはお互い様。なんて言葉嫌ほど聴いてます。
やっぱり育った環境とか違うと難しいのかな。でも問題はここで終わらない。
つらい状況にある人を見つけて、
間違って逆行してるのを冷静に眺めて、
全部判断した後に冷徹に批判したわけです
まじかよ。いい歳して困ってる人見て、手は貸さん、でも口だけは出すんかいな。これはけっこう情けなさを感じましたね。
らいさわ事件と恥ずかしさと憤り
あの光景を想像すると「恥ずかしさ」がフワッと心に浮かぶのも感じました。
人助けって、ちょっとこそば痒い感覚になるんです。いいことをしてるのに耳が赤くなって体温が2℃ぐらい上がるような。
人って一般的に良いと言われてることをスッとできるほど単純ではないと思うから。「あなたがその場にいたら助けられるのかしら」と淑女に問われると戸惑うかもしれない。
自分がこの状況になったときに助けないかもしれない危うさに気づいたから、同族嫌悪でココロがざわついたんです。
人助けが偽善?
助けることが恥ずかしいと思ってしまう。
もちろん人助けはいいこと。でもなんか照れくさいというか「あいついいことしてるやん」みたいな雰囲気がある。
これって人助けは偽善という考え方が世の中にあるからだと思います。誰が言い始めたんか知らんけど、めちゃくちゃ迷惑。
震災後に芸能人が多額の寄付をしたのに偽善と言われてたのを知ったとき「人助けは偽善」というイメージが植わったのかも。
「あんな額の寄付をして文句言われるの?」と思った。お金も、気持ちもすべてが踏みにじられた瞬間だったんじゃないかな。自分なら泣きたくなるわ。
ピッタリの名言
自分の中で「人助け偽善問題」に終止符を打つ良い名言を思い出したので紹介します。
鋼の錬金術師という漫画が好きで読んでまして、ウィンリィ・ロックベルというヒロインがいます。
第15巻で、ウィンリィの父のユーリ・ロックベルという医者が戦地で負傷した患者を治療するシーンでいった言葉が良かったです。
いいです。カッコいい。自分のやってることに誇りを持ってる人のいうことは違うわ。要は自分のココロの持ちようなのかなと思いました。
目の前に困った人がいる。自分は解決するためにチカラを貸せる。後は手を出すだけ。
らいさわさん場面に話を戻すと、誰が見ても困ってるのは明らか。後は手を出すだけ。
戦地で敵の治療をするような大そうなことはできないけど、駅で赤ちゃん抱えて困ってる人には手を差し伸べられる人にはなりたいです。
「恥ずかしセンサー」を使って親切
らいさわ事件を知っても日本にたら何も感じなかったかもしれませんね。人の親切に気づいたのってオーストラリアに来てからかも。
若いにいちゃんでも、高齢の人でも関係なく電車で席を譲ったり、バスを降りる時に手を貸す光景を見ていると日本とは違うなと感じます。
困ってる人に手をさっと貸してあげる。カッコいい。人として素晴らしいやん。
でも、いざ自分がやるとなると「恥ずかしセンサー」が鳴ってできませんでしたよ。留学当初はね。
でも最近は恥ずかしセンサーを使って積極的に助けるようになりました。
恥ずかしセンサーが頭で鳴ったらストップ、じゃなくてゴーサインなんです。心では何をしたらいいかわわってる。後はそれに従って話しかけるだけ。ちょっと戸惑うけど勢いで行く。
いらんて言われたら恥ずかしいやん。
ではなくて、必要なかったらそれでいいやん。その人は困ってないんだから良い状況でしょ。
こちらから手を出して、必要か必要出ないかの判断は相手に任せる。これが親切なんじゃないか?
少なくとも、ここでは人助けを偽善と言う人はいない
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