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『教科書にない日本の歴史〜日本は有色人のヒーローだった〜』

こんにちは^^

皆さんは学生時代、歴史は好きでしたか?と言っても勉強は好きでも嫌いでもやってきたと思います。その中でも歴史というのは皆さんにとってどのようなイメージでしたか?私は年代とか人の名前とか出来事の名称とかを暗記する科目のイメージです。

そのため歴史は嫌いでしたが、今一度歴史の勉強をしてみるとおもしろすぎることがわかりました。なぜなら、ただただ暗記していた時とは違い、何故その出来事が起きたのか?その歴史がどうつながるのか?を勉強したからです。

できるだけ短くまとめますので、読んでいただけたら幸いです。

※基礎的な部分などは端折ってあります。

|金欠から始まった明治政府

前回の記事を読んでいただけたら分かると思うのですが、江戸時代の後期にアメリカに金が大量にとられたため、明治政府は金欠の状態から始まりました。

そこで初めに取った政策が兌換紙幣の発行です。兌換紙幣とは、金と交換できる紙切れのことです。これが今の紙幣の始まりです。(アメリカより早く紙幣が確立した)

ここから先はお金は、今と同じく硬貨や紙幣となりました。

では何故、江戸時代は給料をお米で支払っていたのでしょうか?

|江戸時代、武士の給料がお米だったわけとは?

よく勘違いされているのが、江戸時代は政府に信用がなかったから通貨が流通していなかったといわれています。しかしこれは間違いで、通貨は流通していました。では何故給料はお米だったのでしょうか?

それは日本は天然災害が多い国だからです。

災害が起きたとき何より必要なのは食料です。そのため、新米は食べることなく年貢として納めていました。これを新米と古米を御蔵米として備蓄し、古々米を給料として配っていました。

このように当時、納税するということはいざという時に自分や家族のためになることを知っていたので、納税の支払いに遅れる人はいなかったそうです。

現代、納税に送れる人や納税額をごまかす人がいます。それは税金の使い道があいまいだったり、税金で働いている人が問題を起こしたりすることがあるため、納税することが自分のためになると感じていないからかもしれませんね。

当時のお偉いさん方はいくら多くのお金を稼いでも、それらをお米で貰っていました。そ子には、そのお金で自分が担当する地域の面倒を見なさいという意味がこねられています。そのため、当時税金で働いていた人たちはそのお米を勝手に使うことはできなかったそうです。(現代もそうだと思うんだが、何故か昔と違うんだよな)

|お米な管理方法

お米は高床式の建物で管理されていました。具体的には神社です。

神社は、階段で上がった場所にあったり建物が高床式になっていたりしますよね。そのため、当時の神社はみんなのもので、公民館のような場所だったそうです。

|お米を経済の中心として使い続けたもう一つの理由

お米には腐るため蓄えに限界があります。一方小判などのお金は、永久に保存が可能です。では何故お米を経済の中心として使い続けたのか。

それは、一部の人が独占しないためです。永久に蓄えることができれば、一部の人が稼いでは蓄え、稼いでは蓄えを繰り返し、格差社会が生まれてしまいます。そうならないよう、皆で働いて皆でお米を蓄え、皆のために使ったそうです。(先人の知恵ですね。歴史から学ぶものがありそうです)


しかし、海外との交流が深まったため現代のように通貨が使われるようになりました。

➡国民はお米とお金を両替所で換金し、換金したお金を国に納めるようになりました。この場合両替所に大きな利益が生まれます。そこに付け込み、外国資本が両替所に多く入ったため、現在国と中央銀行は別物になっているのです。

|1年が12か月になった

日本はもともと閏年は13か月ありました。この時、国が貧乏すぎて13か月分の給料が支払えず、西洋式太陽暦を採用しました。それから毎年1年は12か月になったのです。

|海外に取られた金を取り返そう

その後、日本は経済を立て直していくために努力しました。

主に産物に注力し、富岡製紙工場を建てたり、造船業に力を入れました。ちなみに、造船業の技術は世界トップクラスだったそうです。

しかし、問題が発生してしまいます。

|日本は外国にナメられていた

経済を立て直し頑張っていこうとしていた日本でしたが、当時結んでいた条約のほとんどが不平等条約だったため、安心して商取引ができませんでした。

そんな矢先、ノルマントン号事件が起きます。ノルマントン号事件とは、船が沈没し、イギリス人やドイツ人の乗組員26名は脱出できたが、日本人25名が脱出できず死亡した事件です。

裁判でははじめ無罪となりましたが、これに日本は納得できず再判のうえ、甘い刑罰で賠償金はなしという判決となりました。

この事件をきっかけに、日本は経済力と軍事力をつけなければならないと、立ち上がり、富国強兵を宣言しました

|まずは不平等条約の解消

不平等条約を解消するために日本は様々な努力をしました。

ひとつは宮中晩餐会で出す料理をフランス料理にしました。普通は自国の料理を提供するのですが、文明開化した国だとアピールするためにフランス料理を提供しました。これは今でも続いています。

また、礼服も元々白だったのですが、海外に合わせて黒にしました。これも今でも続いていますよね。

|清ともめごと

こうして立ち上がろうとしていた時日本は清ともめごとが起きました。

清国が軍艦を自慢し、長崎で悪行を働きました。そこに、元武士3名が止めに入りました。しかし抵抗が激しく清国人1人を斬り殺してしまいました。

これが国際問題となりました。この事件では日本人が3名、清国人が1名殺されました。しかし、清国は「5人殺された」と言い張り続けました。

これは、日本を格下に見ていたためと思われます。

|朝鮮の取り合い

そんな時、日本と清国とロシアで、朝鮮を取り合っていました。これまで何もかも海外の国に取られ格下に見られ続けた日本は、「朝鮮だけは渡さない」と、取り合いに抵抗し、ロシアと清国との関係が悪化していきました。

|軍事力をもっとつけようとしたが、

第3代内閣総理大臣である山縣有明が「国家予算の8割を軍事費に充てろ」と言いましたが、結果は大幅に削られてしまいます。

|日清戦争開戦

ここで起きたのが関係が悪化していた清国との戦争、日清戦争です。軍事力が思うようにつけられなかった日本でしたが、日本は勝利しました。

この戦争の死者は17,069人ですが、このうちの12,000人は病死です。

※現代日本の自殺者数は年間30,000人

|有色人種に勇気を与えた戦争、日露戦争開戦

その後、関係が悪化していたもう一つの国ロシアとの戦争、日露戦争が始まります。

この戦争でも日本は勝利しますが、この戦争での日本の勝利は世界に影響を与えます。

これまでの世界の戦争はすべて白人が勝利していて、有色人種は白人には勝てないと言われていました。しかし、日露戦争で初めて有色人種が白人に勝利し、日本は世界中の有色人種に勇気と希望を与えました

|戦争は止めよう

日露戦争の後、第一次世界大戦でも日本側が勝利しました。しかしこの戦争は、一般人にも大きな被害が出ました。

これがきっかけで、世界が闘いではなく話し合いで解決しようという話になり、国際連盟が作られました。

|パリ講和会議で日本は世界の敵国となった

国際連盟によるパリ講和会議で日本からは代表で牧野伸顕が足を運びました。

(牧野はパリへ行く前に、アメリカを経由したのですが、アメリカの黒人にヒーロー扱いをされたそうだ)

このパリ講和会議で牧野は、人種の平等を訴えました。しかし、これは否決されたのと同時に、日本は世界を敵に回すこととなりました。

なぜなら、世界で権力を持っているのは白人です。その白人は500年も黒人奴隷により収入を得ています。つまり、白人にとって人種の平等とは、収入減がなくなることを意味しています

そのため、世界にとって日本は何としてでも抑え込まなければならない国という認識になります。

それが日本が世界の敵国となったきっかけです。

|つづく…

お読みいただきありがとうございます。

いかがだったでしょうか?皆さんそれぞれで感じるものがあると思いますが、少しでも皆さんのためになっていれば光栄です。

次回は、世界を敵に回してしまった日本のその後を記事にしようと思います。

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