コペンハーゲンの思い出

私たちは、18世紀感の漂うパブに入った。
色合いは全体的に黒く、木造で、店内の照明はランプだった。
レジのそばのショーケースには塩漬けのニシンや細切れの野菜などの載ったオープンサンドイッチ。
関係ない話だったが、ニシンを表す英単語がすんなり出てこなかった。
「ヘリングだ……」そう呟いたのは、喫煙室に入ってこれまたアンティークな椅子に腰を下ろして足を組み、タバコの先に火をつけたときのこと。
「どうした?」ダルマツィオはタバコを巻きながら言った。奴はデンマークのマクバレンを気に入っている。
「いや、あの魚がなんだかはわかってたんだけども、ヘリングっていう単語が出てこなかった」
「そうか。日本語じゃなんていう?」
「ニシン」
「イタリア語じゃアリンガだ」ダルマツィオは巻き髪のノリを舐めた。
「可愛い名前だな」
奴は、巻紙にフィルターを載せ、タバコをくるくる巻きながら頷いた。「小学生の頃、アリンガっていうクラスメイトがいた。あいつは親の期待通りに育とうと必死で、いつもアリンガの酢漬けを瓶に入れて持ち歩いてたんだ」
私は小さく笑った。
「本当だぜ。理科の時間なんかアルコールランプでその酢漬けを炙りやがるもんだから部屋中が炭臭くてたまんなかった。思わず一杯やりたくなっちまったぜ」
私は笑った。「あれ、ダルマツィオ。お前初めて日本来たのはいつだった?」
「小1の頃だな。冬の間だけ」
「そうか。その時に炭火の焼き料理の喜びを知ったってわけか」
「焼き鳥は大好きだ」
「俺もいつかイタリア行きたい」
「これから行くか?」
「いや、とりあえず帰国を考えてる。2週間後だな。スウェドバンクでカードを再発行してもらってる。2週間かかるんだと」
「2週間もここにいる気か?」
「それも悪くない」
「悪くないだろうが金がかかるぜ。俺そんな持ってねーよ」
「いくらある?」
「3000」
「ユーロ?」
「もち」
「そうか。口座には12000入ってる。だから、ちょこっと貸してくれないか?」
ダルマツィオは少し考えて首を傾げた。「いやぁ……」
「なんだ? 大丈夫だって」
「酔ってるときのお前をお前は見たことないからな」
「自分で自分は見れないさ」
「芸術家って連中はどうしていつの時代も情緒不安定で酒が好きなのかね」
「芸術家に必要な素養だな」
ビールが運ばれてきた。
ツヴォルグという物らしい。
色は金色。
良い香りがする。
「ありがとう」私はウェイターに礼を言ってから、グラスを持ち上げた。「スコール」
「チンチン」
「下ネタ」
「なんでだよ」
私はニヤニヤしながらビールを飲んだ。ごくごくごくごくごくごくごく……。ビールは一息で半分以上減った。「っぷはぁ〜、これがたまらんのですよ」美味い。麦だかホップだかの香ばしい香りが芳醇で、口の中にふわりと広がる。細かい用語は知らんのですよ。美味けりゃ良いのですよ。「グラァッツィエ、ダルマツィオ」
「どういたしまして」ダルマツィオは頷きながらビールを飲んでいたが、彼のペースは随分とゆっくりだった。
「どうした? この味好きじゃねーの?」
「いや、美味いよ。おにいさんがしっかりしてねーとお前すぐに全裸になってテーブルの上で踊り出して、電池切れたみてえにぐでーんって伸びちまうだろ」
「は? 私がいつそんなことした?」言った後で思い出した。会社の設立記念パーティーでのことだ。私、ダリア、ダルマツィオ、ディートリントの4人だけで開いた小さなパーティー。リトアニアのビールとワインがあまりにもフルーティでスウィーティだったがために起きた悲劇。私はその思い出を引き出しの奥にそっとしまっておいたのを、不意に思い出した。「あぁ……」
ダルマツィオは笑った。「良い体してたぜ」
恥ずかしさに加えて全身に嫌悪の鳥肌がたった。「やめろっ」
「あいあい。お前もディートもそうだけど、普段紳士淑女っぽい立ち振る舞いしてる奴ほど、その皮の中にとんでもねーバケモンを飼ってるってことだわな」
「よせよ。人を化物呼ばわりか?」
「溜め込まない方がいいぜ」
「私はノーマルだ」私はビールを飲んだ。グラスが空になったので、オープンサンドを持ってきたウェイターに声をかける。「ビールおかわり」
「かしこまりました。マダム」
「私は男だよ」
ウェイターは目をまん丸にし、私の胸元に目を向け、再び私の目を見た。「そういうことでございましたか。失礼致しました」
私は小さな笑顔を作り、頷いた。「慣れてる。あなたはいい人だ」
ウェイターの彼はこちらに会釈をして、喫煙室を出て行った。
私はタバコの煙を吐いた。

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