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記事一覧
1995 タイ -1-
「その男の子はあなたに「お前はエイズか?」って言ったんですよ。」
今でも忘れない、この時のショックは。
時は1995年、就職氷河期と言われ、私は大学を卒業後すぐに職に就くことを選択しなかった。つまり就職活動をしなかった。
「就職したら負け」という、後にニートという言葉と共に取り沙汰された流行り言葉は当時は無かったが、就職活動を必死にしていた大学の同級生を横目に、私はどうして皆そんな定職に就き
1995 タイ -2-
私が一目惚れをしたのは、当時仮住まいをさせて頂いていたバンコクの街外れにあった住宅の隣の食堂で働いていた少女。透き通るような白い肌、黒い髪。正直、それしか覚えていない。
仮住まいをさせていただいた約1週間、結局、彼女と会話をすることは出来なかった。その食堂に食事に行く度、遠目に彼女を憧れていた。ある日、その少女の弟が「お前はエイズか?」と私に質問をしたのだった。何故、その子は私にそう言ったのか。
1995 タイ -3-
私はその食堂の彼女にどうしても告白がしたかった。「あなたのことが誰よりもスキ。あなたは本当に美しい」と。
でも、それが出来なかったのは、日本人=セックスアニマルという時代の中で、彼女が働く食堂で、突然現れた日本人の私が彼女に急接近することは、間違いなく彼女にとって迷惑極まりないことだと、そう思った。
愚直に、私の気持ちを、たとえ言葉が通じなくても、誠意を持って伝える努力をしてさえいれば、彼女や
1995 タイ -4-
サムイ島を目指してバンコクから夜行バスに乗り込む。飛行機ではなくフェリーで島に渡ることにした。日本語が通じない場所と言うこと以外、サムイ島を選んだ理由はない。一日も早くタイ語を身につける、それだけが私の願いだった。一日も早く彼女にタイ語で告白するのだ。
夜行バスが途中、トイレ休憩でドライブインのような場所に立ち寄った。イギリス人と一緒にトイレを済ませた。彼は吐き捨てるようにprimitive!、
1995 タイ -5-
当時のサムイ島は今とは違い、高級リゾートと言うよりは、実に素朴で自然に溢れ、人と言えばヨーロピアンが多かった。とりわけドイツ人が多かった印象だ。
会った日本人は期待通り少なく、たった1組の兄妹だった。彼は英語が達者で、立て板に水の如く英語を話す。明らかにタイ人には通じていないのに、大変満足気にしていた。 何で一言もタイ語を話そうとしないのか、とても不思議だった。
彼らとはそれっきり、二度と会う
1995 タイ -6-
流石に、好きな女性に告白がしたいからタイ語を教えて欲しいとは、誰にも言えないが、私がタイ語を教えて欲しがっているということは即座に伝わり、バンガローのスタッフは子供用のタイ語テキストを買ってきてくれた。
それ以外に私の手元にあったのは、いわゆる旅行ガイド。その巻末に、オマケ程度についていた会話集は、ハッキリ言えば使い物にならない。そもそも、タイ語を日本語で表記することは不可能なのだ。と言うことす
1995 タイ -7-
そもそも、私はなぜタイに行ったのか。実はバンコクはともかく、サムイ島は私が行く予定地では勿論無かった。好きなタイ人が出来てしまったから、タイ語修行でサムイ島へ向かった。しかし、本当は長くても一週間ほどのバンコクステイで、とっととネパールへ向かう。これが、当初の予定である。
当時、海外旅行のセオリーはこうだ。まず、バンコクに行く。そして、旅行代理店で目的地のチケットを買う。所謂格安チケットだ。勿論
1995 タイ -8-
11月なら席があるよ。
ま、ま、ま、まジで。。。。3ヶ月後ってことだよね。。
これは正に想定外だった。3ヶ月間もタイで足止めを食らうとは。どうやら、ネパール行きのチケットは、エベレストの登山が本格的な冬になる前のハイシーズンだったらしく、飛行機はとても混み合っていたようなのだ。そんなに長い期間の旅を計画していなかったし、そもそも目的地はネパールだ。私はさて一体何をしてネパール行きの飛行機を待てば
1995 タイ -9-
実は昨年、およそ25年ぶりにサムイ島に行く機会があった。もう、何もかもが、当たり前だが変わり過ぎていて、自分がサムイ島に来たことがある事すら自信がなくなる程の変わりよう。道路は舗装されているし、コンビニもある。
当時はデコボコした未舗装の道を、バイクで走って転んだっけ。後ろに乗っていたタイ人の女性には、転倒したときにはエラく怒られた。バイクをマトモに運転できない男なんて、考えられないのだろう。
1995 タイ -10-
バンガローのスタッフの女性とバイクに乗っていて転倒をしたのだが、その場でシコたま怒られるだけでは許されていなかったことが後になって分かることになる。
私の大好きなタイ料理の一つに、ナマズの炙り焼きがある。ナマズと聞くと、でっぷりとした太い魚体を想像するかも知れないが、タイのナマズは随分とスリムで細長い。
当時はサムイ島の屋台で買ったら10-15バーツほどだった記憶だ。これに辛めのタレをつけて食
1995 タイ -11-
それはもはや営業妨害だったのかも知れない。
私は可能な限りバンガローのスタッフをつかまえては、タイ語で会話することを日課にしていた。もちろん、欧米人観光客がバンガローに宿泊しに来るので、そういった人とも英語で話すこともあったが、日本語がない環境にわざわざ滞在を決めたのに英語を使うこと、それすら時間が勿体ないと思っていた。
なので、あるアメリカ人が暇を持て余して私にやたらと話しかけてくるのがイヤ
1995 タイ -12-
分かりきっていた事だが、遂にその時が来た。まさかの長期滞在を余儀なくされた事で、持金が底を尽きることが目前となった。
私も計画を練り直すべきだったと反省はするものの、節約の仕方が間違っていたことで、バンガローのタイ人スタッフを巻き込むことになってしまった。
あのー、お金がないから今日から一日一食ということにしまーす、と。食事は宿泊費に含まれていないし、別に大した波紋が起きるとも思っていなかった
1995 タイ -13-
噛まれていたら死あるのみ。それはそうだ、私はサムイ島にいるし、まともな医療行為をうけることは出来なかった。
25年前のバンコクで衝撃を受けた光景。それは、ひたすら野良犬をこれでもかと蹴飛ばし散らすタイ人の数々。取り分け、屋台をうろつく野良犬に対しては、そこまでやらなくても。。。と引きまくったのは一度や二度ではない。
狂犬病は今のタイでも決して油断していい類のものでは無いし、ワクチンの投与が遅れ
1995 タイ -14-
食べられるものなら食べてみたい、と我が身体から排泄された糞を目下にしみじみ思ったのは、後にも先にもない。本当に、大便がこんにちは!をして来た後に深呼吸をためらいも無くしたのだった。なんていい匂いなんだ、我がウンチ君は。
臭いと言って嫌われる代名詞のドリアンだが、とれたて新鮮なものは、格別の味わいがあるのをその時初めて知った。こんなに美味しいフルーツがあったのかと夢中になって食べた。
酒が好きな