羽生善治さんに学ぶ 「物差し理論」

昨今、行動の重要性というものが高まっているように思える。「動きながら考える」や、「まずやってみる」、「とにかく動く」などといったビジネス書、自己啓発本が書店には立ち並ぶ。

論調などの違いはあるものの、「行動の重要性」ということが各々の論調の主眼というか、抽象的なテーマとなっていることは間違いないだろう。

私自身も、この時代の潮流のまま「行動の重要性」を感じ、意識して少なくとも日々において行動することに主眼を置いている。この「行動の重要性」の理由は様々なものがある。僕の持つ「行動の重要性」の理由は、考えることは余計な不安や失敗への恐怖に襲われて、結局のところ考えることののみに収束してしまうという考えることの害からそれへの対処として行動をするというものであった。

しかしながら上の理由では考えることへのアンチテーゼの要素が強く、行動することの理由になってないのではないかという疑念が生まれてくる。さらに、考えること=悪、行動=善、という二項対立をつくり、何が何でも行動(善)としてしまってはいないかということも考えるのである。時には、考えることによって、やらなくては良い行動を見つけることも必要であろう。

私はいつしか「行動」についての自分の中心軸の脆さを知り、後ろ向きになりかけていたのである。また巷にある本も「行動・行動・うるさいな」などと思うようになったのであった。

そのような時に棋士の羽生善治さんが講演で述べられた「物差し理論」(私が名前をつけた)に、私の行動に対する前向きな姿勢を取り戻させた。

羽生さんは講演でこのようなことを述べられていた。

『何か新しいことに挑戦するときには、どこかで過去に自分がやった、あるいは他の人がやっていたことを物差しにして、判断しているのではないでしょうか。』

『その物差しには長い物から短いものまであって・・・・・・ 日々のなかでたくさんの物差しを持つことが、今後、何かを挑戦していくとき、必要以上に不安にならない、考えすぎないために大事な要素になります。』

(「僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」 文春新書(2017)pp64-65)

上は、挑戦について羽生さんが述べられたことである。ここでは挑戦も広義の意味で行動であると捉え、上の言論を行動についても当てはめてみることにする。私が注目したのは「物差し」というわかりやすい喩えと、たくさんの物差しを持つことが・・・・の部分である。ここからは、羽生さんは考えることを否定はしていない、考えることのメリット、デメリット、それと行動との組み合わせのなかで、行動の重要性を指摘しているとわかるのである。

つまり、私たちは様々なことを考えて、行動することによって経験という名の「物差し」を得ることができる。その「物差し」の手持ちが多ければ、次に行動するときにその手持ちの物差しをつかってある程度行動の予測がつくようになるので、必要以上に考えることや、不安になることを防ぐことができるのだ。この必要以上にというのが重要で、行動する前にある段階までは考えることも必要だという観念も持ち合わせているのである。考えることは行動のためにあり、行動は考えることのためにあるのだ。

羽生善治さんは、私が疑念を抱いていた「行動」と「考える」ことの対立関係を、物差し理論によって両者は依存関係であるという解をもって、その疑念を払拭したのである。

行動をするには、考えることも必要である。しかし、考えることは限度を超えると不安に襲われたり、行動できなくなったりといった弊害をもたらすため行動をしてみることも重要である。行動を多く行うことによって、正しく考えることができる。つまり、考える、行動するということはどちらも必要であり、それらは相互依存的に絡み合っているためどちらが優で劣かはつけられない。そのどちらかに重きを置けば良いというわけでもないのである。

「行動の重要性」が大きく叫ばれる昨今において、「考える」ことが対立概念として批判されるのを見受けることができる。しかし、真に重要なのは「考える」ことと「行動」をうまく結びつけることではないだろうか。

羽生さんの「物差し理論」は、それを示唆している。

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