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1984年2月, 初めて訪れた広島平和記念公園

1983年4月26日に横浜を発ってフェリーで当時のソ連のナホトカに向かい, その後, ソ連・欧州・中東(西アジア)・アジア諸国を旅し, 最後の訪問国であった韓国の釜山からフェリーで下関に着いて帰国したのが, 1984年2月1日。下関からひとまず静岡県の自分の田舎の家に戻る途中, 後輩が広島大学にいたこともあって, 広島に立ち寄った。初めて訪れた広島には3泊し, 滞在中, 2月2日と3日の2回にわたり広島平和記念公園に行った。タイトル上の写真は 2月3日に撮影。3日前の1984年1月31日に核実験を行なったアメリカ合州国に「座り込み抗議」活動をする被爆者の様子を撮ったものである。

広島に向かう前 〜 1983年4月26日に日本を発って, ソ連・欧州・中東(西アジア)・アジア諸国を巡る旅

見出しの通りで, 本 note 前説にも書いたように, 前年の春, 1983年4月26日に日本を発ち, バックパック一つ担いで当時のソ連・欧州・中東(日本から言えば西アジアということにもなる「中東」だが厳密に言うとアフリカ大陸の北東端エジプトにも行った)・アジア諸国を旅し, 最後は韓国の釜山港からのフェリーで下関港に着き, そこで帰国となった(1984年2月1日)。下関からの帰路, 広島に寄って当時広島大学にいた後輩のアパートに転がり込み, 3泊世話になった。

上述のソ連から韓国に至る旅に関しては, ここでは帰国した日からちょうど38周年の記念に書いた 旅 note へのリンクを付すことにする。その中で, あの時の旅の間に滞在した(あるいは訪れた)各国各都市・遺跡などの旅 note のリンクの案内も掲載している(以下 note リンクの下に目次)。

1984年2月1日 帰国 〜 1983年4月26日に日本を発ってソ連・欧州・中東(西アジア)・アジア各国を旅して 282日目

目次
1. 旅のテーマ・ソング, "Every Picture Tells a Story" (Rod Stewart) 〜 歌詞和訳
2. 1979年, 大学入学で札幌へ, その年の夏辺りには既に「インド・ネパール旅の絵本」を買って読んでいた
3. 1983年4月26日, 旅立ち
4. 1983年4月26日, 横浜よりソ連, 今のロシアのナホトカに向け, フェリーで 旅立ち
5. ソ連・欧州 の旅(イタリアまで)
6. ギリシャ の旅
7. ちょっと脱線, 1983年8月10日, Maneaters に襲われた夜 〜 あの夜の出来事は幻だったのでありましょうか ♫
8. トルコ・シリア・ヨルダン の旅
9. パレスチナ/イスラエル の旅
10. ピラミッドと大都会の喧騒と 〜 エジプト, ギザとカイロ, 1983年10月18-26日
11. トルコ・イスタンブール 再訪
12. 再びのトルコ, 続いて イラン, パキスタン の旅, そして インド に入国
13. インド, タイ の旅
14. 韓国 1984年1月の11日間 〜 1983年4月に日本を発ってから足掛け10ヶ月目, 全斗煥軍事独裁政権時代に旅した初めての韓国, 板門店も
15. 江ノ島が見えてきた ♫ 〜 いや違った(笑), 下関が見えてきた
16. 2月1日, 海外「放浪」もどきの旅から帰国 〜 僕は一寸 ♫ 明日あたりはきっと春 ♫
17. どんな話をしゃべりましょうか, 日の出づる国の明日の事でも 〜 帰国したから 細野さんの 「僕は一寸」♫

1984年2月2日・3日 〜 広島平和記念公園(写真6枚)

昨年2021年の2月2日にも同じようなこと note 投稿してたので(*1), 以下のテキストはそこから転載。

この時が自分にとって初めての広島だったが(平和記念公園や平和記念資料館だけでなく広島市を訪れること自体)、その後、海外から日本の産業技術や企業管理を学びに日本にやってくる人たちに対するオリエンテーション・プログラムを企画・運営する仕事をしていた時代に(1988年度から1994年度までの7年間)、度々そうした外国(いわゆる開発途上諸国)の人々を広島に案内する機会があり、何度も繰り返し広島を訪れることになった。2004年夏の妻と当時小6の息子との家族旅行の際にも広島に行ったが、一点だけ留意しておきたいことに触れておくと、外国の人と行った時も家族で行った時も欠かさず立ち寄ったところがあって、それは韓国人原爆犠牲者慰霊碑がある場所だった。
アメリカ合州国による広島・長崎への非武装市民をターゲットにした原子爆弾投下は何によっても正当化されない「戦争犯罪」に違いないのだが(つまり日本が戦時中に犯した南京虐殺他の「戦争犯罪」があるからといって戦勝国アメリカの戦争犯罪は許されるということは有り得ないし、原爆投下のお陰でそれが無ければ続いていた戦争で命を落とすことになったより多くの人々を救ったというのは「嘘も方便」の釈明で、それならばその良し悪しは別として太平洋上の上空で爆発させて日本を降伏させることはできたであろうし、そもそもあれは既に始まっていた冷戦におけるソ連への「威嚇射撃」としての目的があったし、敵国の人間の人体を使った実験という側面があった、戦後処理におけるアメリカによる被害調査・人体に対する影響調査をみてもそれは明らか、ああ長い括弧だね)、一方で原爆による被害(「日本の被害」)だけを強調するのではなく、当時の日本が諸外国に対してどういう国だったのかを知る一つの「資料」を併せて示したいと思えば、そのための恰好の場所の一つが韓国人原爆犠牲者の慰霊碑だった(「慰霊」のために訪れることは当然のこととして)。なお、その慰霊碑は1970年4月に平和記念公園に隣接する場所に建立されたものだが、1999年7月になって公園内に移設されている。したがって、筆者が外国の人たちを案内していた時は公園の外にあり、今世紀に入ってから家族で訪れた時は既に公園内に移設されていた。
さて、話を戻すと、前章にざっくりと書いた通りで、筆者は 1983年4月から10ヶ月弱の間、バックパッカーとして海外一人旅をしていたのだが、最後の訪問国・韓国の釜山港からフェリーに乗って 1984年2月1日に帰国すると、その足で広島に向かい、3泊した。前年4月26日に横浜港を発って、当時のソ連・現在のロシアのナホトカに向かったその時から続いていた一連の旅を終え、静岡県の実家に戻ったのは 2月4日。
当時の日記には「広島には2泊のつもりだったが、(資料館には)世界の核の現状を訴え、どうしたらいいのか主張しているような面もあったりして、帰途ついでに見ていくようなものでないことを知り、結局もう1泊つごう3泊した(2/1, 2, 3)」と書いてある。

以下は, 今から38年前の「昨日」と「今日」, 1984年2月2日と3日に広島平和記念公園で撮った写真, 計6枚(6枚目のみ 2月3日)。

1)

画像1

2)

画像2

3)

画像3

4)

画像4

5)

画像5

6) 1984年1月31日に核実験が行なわれている。

写真に写っているのは, 1984年2月3日, 広島平和記念公園にて, 3日前に行なわれたアメリカ合州国による核実験に対し「座り込み抗議」活動をする被爆者の人々。

画像6

*1

ヒロシマ, わが罪と罰 〜 「良心の立入禁止区域」と, 広島への原爆投下時の気象観測機パイロットだったクロード・イーザリー

生ましめんかな 〜 1945年8月6-8日, 広島

長崎原爆投下の犠牲者の写真を「ヌード」だとして削除する Facebook の検閲プログラムの愚劣さ

ヒロシマと言えばナガサキも(ヒロシマだけでも日本人や当時ヒロシマ在住だった留学生などの外国人やヒロシマにいたアメリカ人を含む戦争捕虜など夥しい数の人間の身体, 人体を使った実験であって, 事実上既に始まっていた「冷戦」におけるソ連に対する「威嚇射撃」であったわけだけれど, 明らかに降伏まで間もない日本のもう一つの人口密集都市ナガサキに別種の核爆弾を投下する正当性ある理由, そんなものあったはずがない), 括弧長かったな, そのナガサキ絡みで, 

本章は以下の通りの脱線話題。 

〈ヒロシマ, ナガサキ〉 というとき ー 〈ああ ヒロシマ, ナガサキ〉 と やさしくこたえてくれるだろうか

さて,  最後は音楽を。歌を。

「広島」 〜 フラワー・トラベリン・バンド (1972年2月10日)

Hiroshima 〜 from Flower Travellin' Band's 1972 album "Made in Japan" released on February 10, 1972

Once upon a summer day
In their midst, a mushroom grew
They never saw
They never, never knew

They're walking on the street
Making shadows on the wall
They're sitting on the steps
Melting into stone

Children of the mushroom
Children of the mushroom
Children of the mushroom
Aren't we all, aren't we all

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