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ギリシャ, アテネ part ε' 〜 大規模反核デモに遭遇したアテネ, 1983年8月初旬(写真8枚)

1983年4月26日に日本を発ち, ギリシャ入国は同年7月11日:7月11-27日 アテネ, 7月28日-8月1日 サントリーニ島, 8月2-9日 再びのアテネ

1983年4月26日に横浜港から当時のソ連・ナホトカ行きのフェリー(2泊3日の船旅)で日本を発って始めたユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅, ソ連(当時はあったソヴィエト連邦!)を旅した後は北欧に出て, その後, 徐々にヨーロッパを南下, 7月10日にイタリア・ブリンディジからフェリー1泊2日の船旅でギリシャ・パトラへと渡り(*1, 第3章以降にそこまでの各国各都市の旅 note へのリンクなど), その後, ギリシャには 1ヶ月ほど滞在した(アテネ 7月11-27日 *2-4, サントリーニ島 7月28日-8月1日 *5, アテネ 8月2-9日: 8月2-3日は*7)。その後は 8月9日夜, アテネを列車で発って, 中東の第一訪問国/滞在国トルコのイスタンブールへ(イスタンに着いたのは 8月11日朝)。

*1 イタリアからギリシャに向かった 1983年7月10日 〜 同年4月26日 日本「出国」以降の旅を振り返り(ソ連からイタリアに至る各国各都市の旅 note リンク)

*2 ギリシャ・アテネ part α' 〜 1983年7月11-14日(写真16枚)

*3 ギリシャ・アテネ part β' 〜 1983年7月15-16日(写真14枚)

*4 ギリシャ・アテネ part γ' 〜 エロースが鎮座する国で「愛のコリーダ」観たり, アクロポリス・リカヴィトス等ぶらついたりの, 1983年7月下旬

*5 地中海の舞踏 〜 サントリーニ島, 1983年7月28日から 8月1日(写真8枚)

*6 番外編:Summer '83 (イタリア, ギリシャ) 〜 Summer '68 (ピンク・フロイド)

*7 ギリシャ・アテネ part δ' 〜 1983年8月2-3日(写真6枚), なぜか三木清 「人生論ノート」

さてさて ♫

1983年8月2, 3日は前回 note, 今回は 8月4-10日 旅日記・抜粋(8月10日はイスタンブールに向かう列車内にて)

旅日記, いつも通りの抜粋。また, 出会った人の個人名と共にある程度の具体的情報が書かれているケースなどは, ここでは個人名を青塗りにした。ギリシャの当時の平和運動の事情をいろいろ教えてくださった方, パレスチナ・イスラエルの当時の事情を教えてくださった方, お二人とも, 今は70代半ばぐらいだろうか。今もギリシャなり, パレスチナなり, 日本なり, 世界の何処かでお元気にしておられること, 祈念します(無神論者・無宗教者なので祈る相手はまぁ自然界にある偉大な力みたいなものかな, それは既成宗教のいう「神」なるものとは違うものだよ!)。

1) 1983年8月4日 旅日記・抜粋 ... 2001 とは, 当時泊まっていた宿 Hostel 2001 のこと。OUT はその頃アテネで活動していた現地(ギリシャ)在住日本人による市民運動のグループの名前で, ここではその機関紙(だったと思う)。その日本語の読み物を読んでいたら, 同宿のアメリカ人(アメリカ合州国)の旅人から声をかけられた。

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3) ちっぽけな地下街にあった店で, 何とあのピンク・レディーの MIE の写真のポスターがあったのだった。ピンク・レディーの全盛期の活動期は1976年から1981年だから, 1983年というと彼女らのデビューから数えてもまだ7年, 解散(?)からだと2年しか経ってなかった。それにしても, アテネで MIE の写真を見るなんて。そこそこ驚いた発見ではあった。ついでながら, ピンク・レディーの二人は静岡県出身だから県だけで言えば同郷, 3学年違い, 拙者の方が若い(と言ってもこっちは県西部でけっこう離れてるし面識もないけど, 笑)。

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4) この頁の後段より 7) 8) にかけて, 地下街で巻き起こった議論の嵐, ギリシャ人と議論, 翻って日本人の「議論」文化は?

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8) あの年の旅行中, 各地(各国)で, イスラエルのキブーツ(キブツ)で働いたことがあるという旅人とけっこう会った(ほぼ全て欧米人)。いわゆる「パレスチナ問題」(パレスチナとイスラエルの問題, その歴史)についての知識は殆ど持たないような人たちばかりだったが。

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9) 1983年8月5日 旅日記・抜粋 ... イスタンブール(トルコ)行きの列車のチケットを買った。「9日か10日に発とう」と書いてあるが, 結局, 9日の夜にアテネを発った(2泊3日の列車旅, 8月11日朝イスタンに着)。

「歴史の転換のなかで」は小田実の著書。今この時代に振り返れば, あの歴史認識はどうだったのかなという疑問を感じる点も少なくないが, 当時わりと彼の著者を読んでいた。 

この頁下部左側, サントリーニ島にいた時に(7月28日から8月1日, 4泊5日滞在した)ビーチでレスビアンのカップルを見たなんてことを思い出して, メモしてる。とにかく見たこと, 聞いたこと全てを日記に書き留めようと思っていた, そんな当時の「何でも見てやろう」(小田実が1950年代に世界を旅して書いた著書のタイトル)的な気持ちが, こんなメモまで書かせてる。レスビアンのカップルにしろゲイのカップルにしろ今なら珍しいことではないが(自分はたまたまストレートだけれど), 当時はLGBTQの人たちは今よりもっと差別されていた時代だった。サントリーニで見た彼女らはそのとき楽しそうにしていたと思うけれど(カタイこと書いておくと, 人間には差別や抑圧下においても人生の「瞬間」を楽しむ能力がある)!

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10) 前頁下段に続いて, ここでもこんな「何でも見てやろう」的メモ。勿論「のぞき」なんぞではないぞ(笑)。ただ普通に視界に入るだけの話。サントリーニ note のところにも書いたけれど, ヌーディストの人たちはほんと自然, ナチュラルなので, 要はエロさなどない。ビーチで目の前に大勢いても(大勢だったから余計にそうだったのかもしれないが), 面白いくらいにそっち方面の感覚が湧かなかった。

当時アテネで泊まっていたバックパッカーばかりの安宿にて, トップレスで過ごしていた女性たちも然り。寝る時に限らずトップレスになってた女性もいたようだけど(「ようだけど」というのは正直, 記憶に残ってないから, しかし日記にそう書いてある, 笑), 同部屋(男女相部屋だった)にいて記憶・印象に残っているイギリス人の女性も, 寝る時はスッポンポンになってたことが多かった。シーツに包まって寝るのではあるけれど, 個室ではない, 男女相部屋の環境で周りに野郎どもの旅人がいようともお構いなし, とりあえずスッポンポンになってシーツに包まる。ついでながら(どっちがついでなのか微妙だけど, この文脈ではこっちがついで), 当時20代後半くらいだったと思うその彼女はもの静かな女性で, 感じいい人だった。

この頁の途中から, 1983年8月6日 旅日記(以降も抜粋)。  

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11) この頁の後段から, 1983年8月7日 旅日記(以降も抜粋)。  

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12) 日記, 上の頁の次(見開き, 右)の頁の上部。ギリシャを発った後, トルコ・シリア・ヨルダンを旅し, その後でパレスチナとイスラエルを旅したのだが, ときどき旅人から有用な情報を得てメモしたりしていた(下部は個人名などありカット)。

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13) 再び, 日記はギリシャ・アテネでの話。

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14) 4行目から, 1983年8月8日 旅日記(以降も抜粋)。「アクロポリスをとりかこむ反核デモンストレーション」の写真は, 次章にて。

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17) 「ピーエルオー」の黒塗り箇所は当初「PLO」と書いていたが, 後にイスラエルに入ってから官憲に所持品をチェックされた時など, その際に無用なリスクが及ぶことを懸念し, 書いた後に黒塗りしてカタカナ書きにしていたもの。

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18) 黒塗り「ピーエフエルピー」は当初は「PFLP」と書いていたものの, 17) に書いたのと同様の懸念で後に黒塗りにしてカタカナ書きに変えた箇所。

後段からは, 1983年8月9日 旅日記(抜粋)。「ホリさん」とはアテネで初めて出会った。今も親しくお付き合いさせていただいている人。「イエニ」とはイスタンブールに当時あった, 当時バックパッカーの間で有名だった安宿「イエニペンション」のこと。

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19) イタリアのブリンディジの港で出会った旅人と, しばらく前にギリシャ・アテネで再会。この日の晩, 夕食を共にした。

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20) 1983年8月9日夜11時 ギリシャ・アテネ発の列車で, いよいよ中東の旅に向かう。まずはトルコ・イスタンブールへの2泊3日の列車の旅(イスタンに着いたのは 8月11日朝)。 

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21) 1983年8月10日, イスタンブールに向かう列車内で書いた旅日記, いつも通りの殴り書きメモ。下の頁の後段は, トルコ・シリア・ヨルダンの後に旅することにしていた(そして実際に旅した)パレスチナ・イスラエルに関する情報をメモしていたもの。

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1983年8月8日, アテネのアクロポリスを取り囲んだ反核の人間の鎖, 大規模な反核デモ(写真8枚)

今日は 2021年8月9日, 1945年8月9日午前11時2分に長崎市にアメリカ軍が原子爆弾を投下したあの日から76周年の日。

今日 2021年8月9日から数えて 38年前の昨日, 1983年8月8日にギリシャのアテネであった大規模な反核デモ(反米軍基地デモでもあった)については, 前章で取り上げた当時の旅日記にも書いてある。前章(旅日記・抜粋)の特に 14) 途中から 16) にかけての部分を以下に転載する。

アクロポリスをとりかこむ反核デモンストレーション。
予想したことだが, やはり話しかけられた。米軍基地をたたき出したいこと(ごくふつうのオッサン), ヒロシマ・ナガサキのこと ....... オレはいったい何を言ったらいいのだろうか。

(中略)

それから いろんなグループ(たぶん)からのアピールがあり, また何人かの詩人が詩を読んだ。
反核の歌が流れる。
ときとして, シュプレヒコールが自然にわき上がる。
集会終了後, human chain around アクロポリス。
シンタグマの方までデモ。
とにかくすごい人の数だ。反米のシュプレヒコールもきこえる(メインタイトルは反核でも, ほうっておけば同時に反米になるというかんじ)。
それにしても ギリシャ語はシュプレヒコールを音楽にする。いや, というより, 「たたかい」のコトバとしてこなれてきたからなのだろう。

写真 1) 集会場所(アレオパゴスの丘だったと思う, アレオパゴスはアクロポリス西北面の中腹にある小高い丘)に徐々に集会とデモの参加者たちが集まってきた。

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写真 4) さまざまなグループからのアピールがあり, 詩人が詩を読み, 皆で歌を歌い, シュプレヒコールを上げる。

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写真 5) 一体どれだけの数だっただろうか。勿論この写真には全く入り切らなかった, 膨大な数の集会・デモ参加者たち。

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写真 6) 「人間の鎖」

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写真 7) 夕日が美しかった。写真を見ていると, もう一度あの夕日を見たくなる。

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写真 8) シンタグマ広場までのデモ行進。

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1983年, ヨーロッパを旅していて, 多くの国・都市で反核のデモや集会について見たり聞いたりする機会があったが, 直接見たものとしては, 8月8日にアテネで見た集会・デモが最も規模の大きいものだった。やはり, 8月6日がヒロシマの日, 8月9日がナガサキの日ということを意識した日だったという背景もあってのことだったのだろうと思う。

ヒロシマ・ナガサキに因んで

*1 生ましめんかな ー 1945年8月8日、広島に原子爆弾が投下された同年8月6日から2日後のことだった(栗原貞子の詩)。

*2 〈ヒロシマ、ナガサキ〉 というとき ー 〈ああ ヒロシマ、ナガサキ〉 と やさしくこたえてくれるだろうか

*3 ヒロシマ、わが罪と罰 〜 「良心の立入禁止区域」と、広島への原爆投下時の気象観測機パイロットだったクロード・イーザリー

*4 番外編:クロード・イーザリーに捧ぐ

何か音楽を 〜 "The Side of a Hill" from Paul Simon 1965 solo album "The Paul Simon Song Book" ♫

この YouTube クリップの写真, アルバムのカヴァー写真が反転してるもの(本当はポール・サイモンが左で, 当時の恋人キャシーが右に写ってる)。反転してない写真が使われたクリップもあったけれど, 音がさらに割れていたのでこちらにした。

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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