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クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か? 〜 前説

はじめに

「可能か」という言葉は、ここでは、堅っ苦しい言い方をすると「形而下」の話でなくて、「形而上」の可能・不可能。ちょっと違うか(笑)。要するに、歌うことが可能か、不可能か、という設問に対して、単にそれを声を出して歌うのは「可能」なんだから「可能」でしょ、と応じるのではなくて。「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ」(by 松鶴家千とせ)。いや、これは当然ながら冗談なので、その逆、もちろん、「わかっていただける」と思います。でも松鶴家千とせの名は、1960年生まれの筆者と同世代の人でない場合は、知らないというケースの方が多いかなと。

この投稿は「前説」。あくまで「前説」なので、この後、おそらく明日には投稿する「本篇」と併せて読んでいただけるなら嬉しい。でも時間がなくてサラッと覗き見する方であれば、どちらかだけなら、とりあえずこの後の「本篇」だけでも構いません。あ、でも折角ここまで読んでいただいたのなら、(再び)「とりあえず」、今日のこの投稿テキストに関しても、最後までお付き合いいただけると嬉しい。

無神論者であって、ということは当然ながらクリスチャンでもない筆者なのだが、かつて、2001年から2003年にかけて、隣り街にあるキリスト教会で行なわれたブラック・ゴスペル・ワークショップに通っていたことがある(ワークショップは近年もやっていると思うが今年はコロナ禍で微妙。神は人類を新型コロナウイルスから守ってくれない、というか、そもそも「神」なるものは人間が抱く概念の中にしか存在しないんだけど)。 

通っていたと言っても、記憶している範囲では、2001年のGWに妻と二人で、そして、2002年のGWと年末のクリスマス・シーズンと翌2003年の2月からこれは3月までだったかGW辺りまでだったかはっきり記憶していないが、そこまでで、計4回。

2回目以降は全てだったか一部だったか、当時まだ小学生だった息子も一緒だった。息子についてはもちろん強制などしていない。誘ったとは思うが、本人が興味を示して歌ってみたいというので一緒に参加したもの(ただし息子が参加したのは、大人とは別に、子どもたち向けに開設された「キッズ・プログラム」と呼ばれていたワークショップ)。

どの回においても、最後に参加者たちによるコンサート、つまり発表会があった。コンサートの会場はワークショップの会場と同じ、そのキリスト教会。1度だけ、少し離れた都市で開催された、各地のクワイア合同のコンサートにも参加したような記憶が残っている。

それと、ワークショップはもしかしたら、上記に加えて、さらにそれ以降の 1, 2度続けて参加していたかもしれない(その辺り、なぜか今は鮮明には記憶していない)。

次の章に行く前にもう一言。

筆者はいま自身を「無神論者」と言い、場合によっては「闘争的かつ積極的な無神論者」と言い、英語の世界であればしばしば、リチャード・ドーキンス Richard Dawkins の言う "Militant Atheism" を援用して、"Militant Atheist" と表現したりするのだが、18, 9年前当時の筆者は、そこまで意識的な「無神論者」というのでもなかった。宗教で言うところの「神」なるものを一切信じず、いかなる宗教の信者でもなかった(今もそうで、既に、それは死ぬまで変わらないと確信しているほどだが)という意味において、当時も今と同様に「無神論者」であったことには変わりないが、おそらく、当時の方が、今の自分と比べて、キリスト教を含む「宗教」というものに対して比較的「宥和的」であり、「寛容な」態度をとっていたと思う。

今現在の筆者も、当然ながら、他者の「信仰の自由」を認めないような非寛容な考えは微塵も持たないが、しかし、当時の筆者より、今の筆者の方がずっと、「宗教」に対して批判的、クリティカルである。そうなったことの原因、背景みたいなものは具体的に様々あるのだが、それは本投稿の本題ではなく、また別の機会に譲りたい。

クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か? 〜 本篇の前の「前説」

前章「はじめに」のところで書いた、隣り街のキリスト教会で行なわれたブラック・ゴスペル・ワークショップ、参加者の過半数はその教会の信徒、つまりキリスト教の信者、クリスチャンだったと思う。それ以外の人たち、その教会の信徒のコミュニティ以外からの参加者にもクリスチャンが含まれていたはずだが、一方で、筆者や妻、我々の息子のように、クリスチャンではない人も少なからず参加していたと記憶している。

ノン・クリスチャンが参加者の中で少数派だったのは確かだが、当時はゴスペルを歌うこと(こうしたワークショップに参加すること)が日本各地で流行り出していた頃で、我々以外にもノン・クリスチャンの参加者がそこそこ(「そこそこ」というのは、少数派だったもののそれが一体どのくらいの人数だったのか分からず、参加者に占めるおおよその比率すら分からず、といった案配なので)いたのは間違いない。

もう1点。本投稿のタイトルや章見出しのなかで「ブラック・ゴスペル」と書いているが、そのワークショップで歌い、コンサートで発表した歌が全て「ブラック・ゴスペル」だったかというと、そうでもなかったと思う。

確かに「ブラック・ゴスペル」的な歌、曲は少なくなかったが、これは「ブラック・ゴスペル」というよりブラックがとれた雰囲気の単に「ゴスペル」、もしくは普通に「賛美歌」なのではと感じるような曲、歌も、一方であった(英語だと賛美歌は普通 Hymn だと思うが、細かい定義については門外漢ながら賛美歌は静かに歌い上げる、ゴスペルは身体表現を伴うといった「外観」的な違いがまず目につく、いや「耳にも」つく。Gospel は元々 Good News の意味で、本来の意味はキリスト教の考えによる「福音」、「救世主」と「救い」と「神」もしくは「神の王国」に関する良き便り、といった意味合い、他にも意味はあるけれど、ここでの文脈上これ以上は深掘りしない)。

ただ、筆者と妻が地元のタウン誌の広告でそのキリスト教会における第1回ワークショップの開催を知り、「面白そうだね。行ってみよう」と参加することにしたその広告には、「ブラック・ゴスペル」と書いてあったと記憶している。「ブラック・ゴスペル・ミュージック・ワークショップ」というタイトルだったと思う。

本篇の前の 「前説」 として 〜 「ブラック・ゴスペル・ワークショップ」(18年前の日記より)

以下は、前年2001年の夏に筆者が HTML 独学して開設した HTML のみの原始的なウェブサイト(要するにホームページ・ビルダーなどのホームページ作成用簡易ソフトを使わないで立ち上げた基礎的 HTML のみのホームページ)に載せた、2002年5月11日付の日記、今もそのホームページ上に掲載したままにしてあるその日記からの転載(そのホームページ上の日記等を note 投稿テキストに転載する場合、いつも元テキストへのリンクを付しているが、以下の日記に関してはホームページ上の元テキストの中に明日以降に note 投稿するつもりでいる「クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か? 〜 本篇」の中で取り上げたい別の日記へのリンクが含まれているので、今日の投稿用に以下転載する日記については、リンクは「本篇」note 投稿の際に併せて載せようと思っている)。

2002年 5月11日(土)   ブラック・ゴスペル・ワークショップ

この日記は下の翌 5月12日(日)付の日記 クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か?(転載にあたっての注:この箇所、ホームページ上では該当の日記にリンク, 該当の日記は「本篇」note 投稿の際に転載する予定)につながります。続けて読まれることをお勧めします。

GW の今月 3日から 6日まで、近隣のキリスト教教会で行なわれたブラック・ゴスペル・ミュージック・ワークショップに参加した。最初の3日間が練習で、最終日はリハーサルとコンサートという日程。共にクリスチャンではないがロックやブルースなど音楽をこよなく愛する私とパートナーの二人は昨年に引き続いて参加、また、今年はキッズ・プログラムという試みがあり、小4の息子もそちらに参加した。

最終日の礼拝堂でのコンサートは、まず子供だけで2曲、その後に大人が途中に講師(音楽牧師)の説話や参加者のインタヴューをはさんで6曲、最後に子供と大人が一緒に2曲歌うという構成。最後の Oh Happy Day は大人だけの部での最初の曲でもあったので、ワークショップ中に大人が練習したのは合計で7曲だった。

私とパートナーは十分楽しめたし、昨年同様に大勢で共に練習する過程やその成果の発表とも言えるコンサートなどで、参加者として大きな感動を味わうことが出来た。息子の方も、多くの外国人の子供も含めての、初対面の子供達とのワークショップの経験はきっと意義深いものだったはずだし、ワークショップやコンサートはもちろん、ワークショップ中に教会の中や外でその子供らと共に無邪気に遊んだことも併せて、ずいぶん楽しい体験だったのではないかと思う。

このワークショップは昨年始まったもので、昨年の GW に参加したときも楽しんだし、また、昨年の最終日のコンサートの際の、今年と同じ講師(音楽牧師)によるブラック・ゴスペル成り立ちの歴史から始めて現代の日本におけるゴスペル流行の意味につなげる説話は、私の心の琴線に触れるものがあった。流行の背景には、物はある程度豊かになったはずの日本人の中にある「心の渇き」のようなものがあるのではないかという指摘は、この数年自分の人生における迷路にはまり込んで悩み苦しんできた(今ももちろん解放されたわけではないが)という自覚を持っていた自分にぴったりと当てはまるものだったし、そしてそんな精神状態をもってまさに飛びつくようにワークショップに参加した自分自身の心中にあまりに深く入ってくるものだった。私はその時自然と涙を流していた自分を、今もはっきりと覚えている。距離をおいて立っていたパートナーも、説話のその部分を私がきっとそんなふうに受け取っていると考えて、その時は私の方を見ていたほどだった。

そして、今年のワークショップも当然のように参加。今年も良かった。楽しめた。

ただ一つ、私とパートナーが共に感じた、しかし昨年は感じなかった「心に引っ掛かるもの」があった。それは主催者側の問題では全くなく、それぞれ主体性のある人間としての我々が、個人個人として感じたもので(それでいてこの点は二人がほとんど同じように感じていた)、しかも、たとえ現象として些細なものであったとしても、我々には大きな意味のある「引っ掛かり」なのだった。

もともと取り立ててキリスト教に抵抗感はない。その歴史の中に、キリスト教の宣教師に「結果として」欧米列強の外国支配の先兵となってしまった面があることを始め、(他の宗教同様に)批判しなくてはならないことがあるのは承知しているが、一方で、専制支配下の人々の解放の為に、世界の非常に多くの国々でキリスト教のグループが貢献し、今も活躍しているというイメージもある。素人の印象ではあるが、一般的には他の宗教よりも比較的に現実世界の改革に関心があって実際に現実的に効果のある働きをしているという印象だ(素人の解釈に過ぎないが、イスラム教は社会への関与云々というよりも社会そのもの、生活のルールそのものという感じがする)。

その現実世界への積極的関与の姿勢がマイナスに働いたこともある、ということかもしれない。しかし、キリスト以来、多くのキリスト者(クリスチャン)の活動が、抑圧される側の解放を目指してきたということは言えるだろう。時には、南米の被抑圧者解放運動における「解放の神学」のように、具体的な社会運動を支えるものになるケースもあるというくらいに(韓国の民主化運動にもそういう活動があった)。

キリスト教にはそういう角度で関心を持ってはいるが、信仰しているのではない。そんな私やパートナーには、昨年のワークショップにはある種の「居心地の良さ」があった。教会の中で多くのクリスチャンと共にワークショップに参加していながら、我々がクリスチャンではないこと、キリスト教の神を信仰していないということ(他の宗教における「神」も信仰していないが)などを特に「心に引っ掛かる」ようなかたちで意識する時はなかった。彼らはクリスチャンだが我々は違うという、その一線を明確に意識しないままに参加し、ただひたすらブラック・ゴスペルの昂揚感を楽しむことが出来た。クリスチャンでないにもかかわらず、教会にいて特に違和感を意識することもなかった。そういう意味で、結果としてどこか「居心地の良さ」があったのだと思う。

今年はちょっと違った。現象としては些細なことだろうが、大きな意味があった。

同じ意味を持つ、ふたつのことがあった。一つは、コンサート中の説話の一言。昨年同様にゴスペルの背景や流行の意味についての話があった後で、「このクワイア(ゴスペルの合唱隊を指す)にはクリスチャンではない人もいるが」とことわったうえでの一言。

我々の耳と心には、キリスト教の神を信仰することを勧める一言、クリスチャンになることを勧める一言だと明確に意識的に受け取られた言葉だが、正確な表現は記憶していない(そもそもその時は英語の一語一語を注意してヒヤリングしようと努力していなかったが、通訳された言葉も明確には記憶していない)。いずれにしても、「神の愛について考えてみることを勧める」もしくは「神の愛を受け入れる準備をしてもいいのではないか」という趣旨の一言だったと思う。

もう一つは、その後、やはりコンサート中にあった、参加者へのインタヴュー。昨年のコンサートの時は参加者が聴衆の前で感想を述べるコーナーがあって、そこではワークショップに参加して得た自信や感動が語られていたが、今年はインタヴュー形式で、昨年参加した時はクリスチャンではなかったが、この間にクリスチャンになって今年も参加した一人が、その経緯を語るという内容だった。

その時も、説話でキリスト教を勧められたように受け取った一言の時と似たような、自分の気持ちの「引っ掛かり」を感じた。そういう企画があること自体は、このシチュエーションからすれば当然と言えば当然なのだろうし、決して不快な気持ちになったのではないのだが、クリスチャンでない参加者として、やはり昨年と比較すると、うまい表現がみつからないが、どこか若干の「居心地の悪さ」を感じた一瞬だった。

宗教が布教をその活動目的の一つにするのは当然だし、キリスト教はその歴史において布教にきわめて熱心な宗教だったのだから、キリスト教の教会がキリスト教を布教しようとするのは至極当然のことだ。しかも、そもそもゴスペルは神を賛美することを内容とする音楽であって、(とりわけ教会において)クワイアとしてゴスペルを歌うことは、音楽の行為でありつつも、ある意味(というより、やはり至極当然のように?)宗教的な行為であるのは間違いないだろう。したがって、今年の我々が感じた「引っ掛かり」は、本来それを感じても不思議ではないものなのだと思う。

考えてみると、キッズ・プログラムの子供達だけで歌う日本語のゴスペルの歌詞を見たり聴いたりした時も、似たような「引っ掛かり」はあった。我々大人のクワイアは英語で歌っていて、神を賛美する歌詞ではあるのだが、やはり英語を母語としない者にとっては、その意味を100%体で感じる、100%ストレートに意識するということ無しに歌うのは可能なのだ。しかし、母語である日本語となると違う。言葉の意味がそのままストーンと心の中に入ってくる。英語でゴスペルを歌った時には感じなかった、ある種の「引っ掛かり」を意識せざるを得ない。

ある種の「引っ掛かり」とは何か?

それは突き詰めればこうなる。クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてゴスペルを歌うという行為は可能なのか?(それはつまり、個人で CD でも聴きながらゴスペルを口ずさんで音楽的に楽しむ、ということではない。)

私とパートナーはクリスチャンではない。今後もクリスチャンになるということは想像出来ない。もちろん、この世に、いつか我々は死ぬということ以外に確かなことはない、という言い方をすれば、どんなことでもこの先を断定することは出来ない(しかしそんなこと言ったら身も蓋もない、笑)。

この先もクリスチャンにならないとしても、我々がクワイアでゴスペルを歌い続けて楽しむということは有り得るのだろうか。それは可能なんだろうか。可能だとしたら、それはどういう意味で可能なんだろうか。

さて、どうなんだろう・・・。

本投稿 「前説」 の付録 1) 筆者が人生で初めて聴いたゴスペル 〜 13歳の時に聴いてぶっ飛んだパワフルなヴォーカルズ "Jesus is the Answer" (Jessy Dixon Singers)

筆者はロック、ブルーズ、R&B, ソウル、ゴスペル、ジャズ、クラシック、中米の音楽、南米の音楽、フランスの音楽、アフリカの音楽、アラブの音楽、ペルシャの音楽、インドの音楽、韓国の音楽 ... 要するにジャンルにも国にも民族にも兎にも角にも色んなものに拘らず音楽を聴き、音楽を愛する者だが、昔よく使われた言葉で言うと「洋楽」を本格的に聴くようになったその初期からずっと、ポール・サイモンの音楽の「大」の付く愛好者。

1974年3月にリリースされた "Paul Simon in Concert: Live Rhymin'" も、その LP を当時速攻で買った。中1の終わり頃、春休みの時期ぐらいだったんだと思うが、当時の小遣いではキツイし、自分で買ったのか、実際には 3歳年上の兄貴が買ったのか、そこまで厳密には記憶していないのだが。

で、このライヴ・アルバムに 1曲、Paul Simon 抜き、Jessy Dixon Singers だけで歌っている曲が収録されていて(B面の 3曲目)、それが以下にリンクを貼る "Jesus is the Answer", 

騙されたと思って(笑)聴いていただけると必ずや分かっていただけるものと Jesus や「神」に祈りたいくらいに(あ、筆者は信仰してないのだった、笑)期待するが、兎に角、ヴォーカルがパワフル。素晴らしく、美しく、パワフル。

当時13歳の時に初めてこれを聴いた筆者は、率直に言って、仏音だ、違う、ぶっ飛んだ(ぶっとんだとタイプしてみてほしい、「仏音だ」という候補が出るはず、しかしこれは仏教の歌ではない、笑)。

因みに、このアルバム、LP の B面では、"Jesus is the Answer" と最後の Paul Simon 一人の弾き語りによる "America" 以外の、"Mother and Child Reunion", "The Sound of Silence", "Bridge Over Troubled Water", "Loves Me Like a Rock" の 4曲は、Jessy Dixon Singers が Paul Simon と共にステージに立って、一緒に歌っている。これがまた、素晴らしい。素晴らしいの一言。聴いたことのない方は、機会があったら、是非とも聴いてみていただきたい。

では、以下は、アルバム・ジャケの Paul Simon の姿があるものの、そのオーディオの中身は Paul Simon 抜き、Jessy Dixon Singers のみで歌う "Jesus is the Answer" ♫


本投稿 「前説」 の付録 2) ブラック・ゴスペル・ワークショップで最初に歌った曲 〜 "Oh Happy Day"

これはまぁ、おそらく世界で一番有名な、少なくとも日本で一番有名なゴスペルでしょう。ゴスペルと言えばこれ、定番中の定番。

"Oh Happy Day" は元々は 18世紀に作られた賛美歌 Hymn で、それがゴスペル化 Gospelize されて、1967年に The Edwin Hawkins Singers がレコーディング、その後、1969年になって欧米諸国を中心に大ヒットし、ゴスペルのスタンダードといえばこれ、という地位を獲得するようになったもの。

以下のヴィデオは、ウーピー・ゴールドバーグ Whoopi Goldberg 主演の映画「天使にラブ・ソングを2」(原題: Sister Act 2: Back in the Habit, 1993年)から、少女時代のローリン・ヒル Lauryn Hill も一緒に歌っている "Oh Happy Day" ♫


本投稿 「前説」 の付録 3) ブラック・ゴスペル・ワークショップで歌った中で一番ノレた曲 〜 "Gonna Be a Lovely Day" (Kirk Franklin, originally Bill Withers' "Lovely Day")

本投稿の付録では、当時、筆者がブラック・ゴスペル・ワークショップに参加して歌った曲のうち "Oh Happy Day" と "Gonna Be a Lovely Day" の 2曲を取り上げるが、この 2曲は当時何回か参加したワークショップで歌った曲の中で、(無神論者の筆者ながら)もっとも、もしくは比較的というべきか、とにかく「引っ掛かり」をさして感じることなく歌えた 2曲。

この曲はオリジナルはビル・ウィザース Bill Withers の大ヒット曲 "Lovely Day", それをコンテンポラリー・ゴスペルの雄 カーク・フランクリン Kirk Flankrin がリメイクしたゴスペル曲。彼が 1998年にリリースした 5枚目のアルバム "The Nu Nation Project" (メアリーJ・ブライジ Mary J. Blige や U2 のボノ Bono といった大物たちをゲストに迎えているが、そんなゲストの有無に関わりなく傑作) に収録されているもの。

この機会にそのアルバムをちょっとだけ紹介してしまうと、ソウルや R&B だけでなく、ラップ等のヒップ・ホップの要素を大胆に取り入れた濃密かつバラエティに富んだサウンドで、ゴスペルと言えば映画「天使にラブソングを」辺りのイメージがほとんどという人(筆者も以前はそうだった)の度肝を抜くような中身。ゴスペルを知ってる人にも知らない人にも、「聴いて損はない」と太鼓判を押してお薦めしたい傑作。筆者の場合は、眼から鱗が、耳から鰓(エラ)が落ちた(笑)。

と色々書いてるが、筆者は実は、2001年に本投稿の中で書いている「ブラック・ゴスペル・ワークショップ」に初めて参加した時、カーク・フランクリンの存在と彼の音楽をこれまた初めて知った。

で、初めて聴いたカーク・フランクリンの曲がこれ。何故かと言うと、これがそのブラック・ゴスペル・ワークショップの練習曲に含まれていたから(あまりにカッコイイ曲だったので、アルバム "The Nu Nation Project" も当時直ぐにアマゾンに注文して手に入れた)。

この歌をクワイアで練習して、ワークショップの最終日のコンサート(発表会)でもクワイア全員で歌ったこと、それはかなり懐かしい、且つ楽しい思い出。

途中ラップの部分があるが、そこもクワイアのメンバーだった若い女性2人が担当して結構上手くやったことを、今も憶えている。

Jesus とか The Spiritual love とかいった言葉が出てくる歌を「無神論者」、しかも今や「闘争的かつ積極的な無神論者」, Militant Atheist を自称する人間が歌うのはかな〜りオカシイ、可笑しい現象なのだが、しかしこの歌、正直、歌いたくなる気分にさせられる歌ではある。

まぁしかし、筆者の場合は少なくとも、歌っていても、歌い終わった後も、「無神論者」のままでいられるんだけれども。その辺のことについては、本投稿の次の投稿、明日あたり投稿予定の「クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か? 〜 本篇」で、少しは表現できるかもしれない .. かな?

では今日も試しに歌ってみるかもしれないので、以下、歌詞を。筆者にとっては、基本的に「歌う」ための「詞」。

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*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.8.31 加筆/削除/編集)。

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