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大学を訪ねたビルゼイト, ナブルス; 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月12, 13日

1983年4月26日に日本を発って 9月28日からパレスチナ/イスラエル 〜 ここまでの振り返り

1983年4月26日に日本を発ってソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ・シリア・ヨルダンを旅した後(そこまでの旅については以下 note *1 第3章にソ連・ヨーロッパ諸国旅リンク関連, 第2章にトルコ・シリア・ヨルダンそれぞれの旅 note リンク), 同年9月28日早朝, ヨルダンの首都アンマンを発ってヨルダン川を渡り, 1948年5月「建国」のイスラエルが 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議の撤退要求に従わぬまま(2021年の現時点で既に54年間, 1983年当時においては16年間)不当な軍事占領を続けているヨルダン川西岸地区に入り, エルサレム旧市街がある東エルサレムに宿をとった(以下 note *2)。

筆者が パレスチナ/イスラエルを旅したその時代, 1982-83年頃がどんな時代だったか, とりわけパレスチナ人, パレスチナやイスラエル, レバノンに関わってどんな時代だったか, その一端, とはいえ重要かつ重大な一端に触れることになるのが, 以下の note *-1 にある 1982年イスラエルのレバノン侵攻, そして同年9月にベイルートにおいてイスラエル軍が包囲するパレスチナ難民キャンプ(サブラ・シャティーラ)で起きたパレスチナ難民等虐殺事件(因みに34年後の2016年にノーベル文学賞を受賞することになるユダヤ系アメリカ人の "セレブリティ", アメリカ合州国の紛れもないメインストリームのロック・ミュージシャンである ボブ・ディラン は, その直後に 恥知らずなイスラエル支持ソング を書いて 翌1983年の彼の公式アルバム "Infidels", その名も「異教徒たち」に収録している)。 

話を戻して, 1983年秋の パレスチナ/イスラエル の旅の3日目は, 西岸地区にあるパレスチナの街, キリスト生誕の地と信じられているベツレヘムを訪問し(note *3), 4-5日目にはジェリコ(エリコ)そしてマサダ死海に行った(note *4)。6日目は, 東エルサレムエルサレム旧市街を歩き, 西エルサレムでは「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム)を訪ね, とエルサレムの「東西」巡り(note *5)。7日目, 1983年10月4日は, エルサレムをひとまず発って「48イスラエル」の都市ハイファに行き, 今も強く印象に残るパレスチナ人の老人に出会った日(note *6)。8日目, 10月5日は, ハイファから日帰りでナザレへの旅をし(note *7), ナザレから「ハイファに戻って」(note *8), そして翌日, ハイファから向かったのはテルアヴィヴ(note *9, *10; 10月6-9日)。テルアヴィヴに3泊4日滞在した後は, エルサレムに戻って旧市街を歩いたり近郊のキブツに出かけたり(note *11,10月9-10日)。その後, 1983年10月11日には, エルサレムから日帰りの旅で西岸地区の街 ヘブロンへ(note *12)。

本章, 以下は 関連 note リンク。

*−1 ノーベル賞の季節になると思い出す, 2016年ノーベル文学賞受賞のボブ・ディラン。ディランの 恥知らずなイスラエル支持ソング は, 1982年イスラエルのレバノン侵攻と同年9月のレバノンにおけるイスラエル同盟者であったキリスト教右派民兵たちによるパレスチナ難民等虐殺事件(ベイルート, イスラエル軍が包囲したサブラ・シャティーラ難民キャンプにて)の直後に書かれ, 1983年リリースのアルバム "Infidels"(「異教徒たち」)に収録。

なお, この一文は(文字通り「この一文」!), 今も胸くそがわるくなる ボブ・ディラン 恥知らずな 1983年リリースの イスラエル支持ソング についての上掲 note と, 以下の 1983年の自分の旅 note との間に距離を置くための一文なり。

*1 再びの アンマン(ヨルダン), 1983年9月26・27日 〜  第3章で 1983年4月26日に日本を発って, 中東(西アジアおよび北アフリカ)諸国の旅に向かう前までの振り返り: ソ連 および ヨーロッパ諸国, その前の第2章は, ギリシャ・アテネからトルコ・イスタンブールに移動した後の ここまでのイスラーム圏(ムスリム多数派)の国々, 旅 note 振り返り 〜 トルコ, シリア, ヨルダン

*2 パレスチナ, 1983年9月28・29日 〜 ヨルダン川を渡り イスラエルによる国連安保理決議違反 軍事占領下の西岸地区に入る

*3 ベツレヘム(パレスチナ) 〜 1983年9月30日

*4 ジェリコ, マサダ死海; 1983年10月1, 2日 〜 そして2021年のいま白昼堂々とパレスチナ人に対する民族浄化の行為を行なうイスラエル

*5 エルサレム旧市街と「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム) 〜 エルサレムの東西; パレスチナ/イスラエル見聞録, 1983年10月3日

*6 ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月4日

*7 ナザレ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月5日

*8 ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)に戻って 〜 1983年10月5日

*9 テルアヴィヴ/48イスラエル 〜 ディアスポラ博物館を訪ね, 街ではパレスチナ人達にも会い(1983年10月6日から翌7日)

*10 テルアヴィヴ/48イスラエル, 1983年10月7-9日 〜 ガザから来ていたパレスチナ人一家, そして テルアヴィヴのユダヤ人, パレスチナ人

*11 エルサレムに戻って, 1983年10月9-10日 〜 見たり聞いたり考えたり思い出したりキブツに行ったり.. 

*12 ヘブロン, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月11日, 4月26日に日本を発ってから169日目

ふーっ, と(自分が!)一息ついてから次章へ。

パレスチナ/イスラエル問題 概観

前章にもリンクを付した以下 note 投稿の中の「ハイファに戻って」旅 note に入る前の第2章が パレスチナ/イスラエル問題 概観 〜 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇, 「ナクバ」(その前の第1章は「48イスラエル」, 「47イギリス委任統治領パレスチナ」)。

次章でようやく, 1983年10月12日のビルゼイト見聞録(ビルゼイト大学訪問記)。

大学を訪ねて学生たちと話した, ビルゼイト見聞録(旅日記10ページと写真1枚) 〜 1983年10月12日

ビルゼイト大学は, 1967年6月以来のイスラエルによる占領地(同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に違反)ヨルダン川西岸地区にあるパレスチナの大学。名前の通り, ビルゼイトという街にある。

Birzeit University https://www.birzeit.edu

いわゆる「パレスチナ問題」(本 note 第2章ご参照を)にそこそこ詳しい人の間で最も有名なパレスチナの大学は, このビルゼイト大学だと思う。

メディアにもこの大学の名前はもう何十年も前からよく登場してきていて(要するに勉学だけでなくパレスチナ解放の運動においても学生の活動が活発だから), 例えば 1983年の話ではなく2021年の今, 最近の記事から以下に例を挙げると(ロンドンをベースに活動するアラブ系のメディア The New Arab 2021年10月26日付 及びこちらはもはや説明要らないメディアではある Al Jazeera 2021年11月2日付), 

Birzeit University students have finally returned to campus after more than a year of online learning due to the coronavirus pandemic. Yet for some students, the new semester is being spent inside a jail cell instead of in a classroom.
Five Birzeit University students were arrested just one week into the new school year on 13 September. Zahran Zahran, enrolled in the College of Law and Public Administration, and Ja’far Kayed, Qassam Dar Abed, Nadim Zahra, and Iyad Abu Shamleh from the College of Business and Economics join 80 Birzeit students currently detained in Israeli prisons and detention centres.

記事の最後の部分から一文引用。

Tala Ghannam, a 22-year-old Birzeit University student, told Al Jazeera her content has been repeatedly censored by Facebook.

といった具合。

さて, 2021年の今の話題はとりあえずここまでとして, 話を38年前に戻し, 1983年10月12日ビルゼイト大学へ。

ビルゼイト大学の学生評議会の部屋にて撮影(いろいろ質問に答えてくれた学生たち)。

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壁に貼られているのは, パレスチナの旗をデザインしたものの他, 当時のPLO (Palestine Liberation Organization) の議長ヤーセル・アラファート(ياسر عرفات‎, Yasser Arafat, 1929年8月24日生まれ - 2004年11月11日他界)の写真や, 旗を挟んで左側には PFLP (Popular Front for the Liberation of Palestine) の創設者で当時議長だったジョージ・ハバシュ(جورج حبش‎, George Habash, 1926年8月2日生まれ - 2008年1月26日他界)の写真, 右側の壁には元PFLPのメンバーで1960年代末から70年代初期にかけてのハイジャック闘争の女性闘士だったライラ・カリド(ليلى خالد‎, Leila Khaled, 1944年4月9日生まれ)の写真も。因みにライラ・カリドは 2021年の今現在も健在で, 若かった頃の武装闘争から離れ, パレスチナ自治政府(残念ながら自治は形式的なものに過ぎないが)の最高議決機関 PNC (Palestinian National Council) のメンバーとなっている。

左端の学生の背後に貼られているのは, 『ハイファに戻って』『太陽の男たち』などの著作で日本でもその名を知られるパレスチナ人作家, ガッサーン・カナファーニー(غسان كنفاني‎, Ghassan Kanafani, 1936年4月9日生まれ - 1972年7月8日他界, イスラエルの諜報機関モサドにより暗殺される)。カナファーニーについては, 本 note 次章にて。

以下は当時の旅日記。旅日記はけっこうギッシリと書いてあって, いま自分で読んでも興味深い点など多々あるのだが, 全て引用して取り上げるとあまりに多くなる。自分にしてはそれほど酷い乱筆の殴り書きでもないのでスマホでも読めるのではと思うけれども, PCのディスプレイ上で見ればまぁまぁ読みやすいと思う。 

旅日記 1/10 

上部は前日1983年10月11日の旅日記の終盤(エルサレムから日帰りでヘブロンに旅した後にエルサレムに戻ってからのことに関する記述や, ヘブロンでのことの思い出し記)。その日のヘブロン見聞録については詳しくは前回の旅 note にて(その note リンクは今日の note の第1章の最後)。

さて, 下から5行目以降が, 1983年10月12日付の旅日記。

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旅日記 2/10

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旅日記 3/10

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旅日記 4/10

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旅日記 5/10

1983年10月12日, ビルゼイト大学にて, パレスチナ人学生二人の話。

未来のパレスチナ国家について。1つの国で ユダヤ人とともに住める。そのときいっしょだったもう1人も同意見。これは全部でないが, majority の意見だ。しかしシオニストとは住めん。多くのユダヤ人は拒絶してる。以前はいっしょに住めたのだ。

note パレスチナ/イスラエルが 「民主主義的な一国家」 になるという未来の 「現実」 を想像する

1983年10月12日の旅日記に話を戻して, 

1935年製のコインを見せてくれた。英語, ヘブライ語, アラビア語で パレスチナ と書いてある。

1935年製, すなわち「イギリス委任統治領パレスチナ」時代のコイン。パレスチナ, つまり英語では Palestine と印字されていた(パレスチナ問題については本 note 第2章)。 

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旅日記 6/10

去年のイスラエリ・レバノン侵攻について。世界の世論は我々を支持したが, 結局何もできなかった。UN さえも。サブラ・シャティーラは, ピーエルオー退去のあとあった。

サブラ・シャティーラ」とは, ここでは, 以下の note で言及している「サブラ・シャティーラ」難民キャンプ(パレスチナ難民キャンプ, レバノンの首都ベイルートにある)における 1982年9月の虐殺事件を指す。

note ボブ・ディランのイスラエル支持ソングは, 1982年のイスラエルのレバノン侵攻と同年9月のベイルートにおけるパレスチナ難民虐殺事件の直後に書かれた

話を旅日記に戻して, 

WEST BANK とガザ以外のパレスチナに住むパレスティニアン。人権について悪状況。投票はできる。

ここで学生が言った「WEST BANK とガザ以外のパレスチナに住むパレスティニアン」とは, 48イスラエルのパレスチナ人(アラブ系イスラエル人)を指す。

48イスラエル という言い方に関しては, 本 note 第2章でもリンクを付した以下 note

の第1章 「48イスラエル」, 「47イギリス委任統治領パレスチナ」 において説明あり(上掲 note の第2章は パレスチナ/イスラエル問題 概観 〜 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇, 「ナクバ」)。

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旅日記 7/10

旅日記 3/10 にも出てくる e は ソ連留学経験者だったが, 

ソ連 を嫌ってるみたい。

また, ほとんどの学生から

USA は当然のように嫌われてる。

そりゃそうだろう, アメリカ合州国の異様な「イスラエル一辺倒」政策は当時に限らず, 近年も。要するにイスラエル「建国」(1948年)後ずっと一貫している。

note アメリカのイスラエル愛 〜 バイデン政権になろうが変わらぬその愚かさ

note アメリカ合州国のお気の毒なまでに「一途な」イスラエル「愛」 〜 その度し難い非合理

話を再び 旅日記に戻して, 

ヒロシマ・ナガサキ にも詳しい。名のみでなく。日本がアジアを侵略したこともしっかりと認識してるが(彼ら自身から言った), しかし USA は勝つのにアトミック・ボムは不要だった。あれは test, experiment だった。
日本 の憲法のことも知ってる。今, 軍があることも。

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旅日記 8/10

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a にしても d にしても religious なフンイキは感じさせない。コミュニストもわりといるだろうし, アッラーフ・アクバルと冗談ぽく笑って言う学生もいた。

旅日記 9/10

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prisoners は けっこういるらしい。

旅日記 10/10

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次章では, 翌日 1983年10月13日のナブルス見聞録(次々章)に入る前に, ビルゼイト大学の学生評議会の部屋にその肖像写真が貼ってあった, 世界的に有名なパレスチナ人作家ガッサン・カナファーニーが残した言葉について。

ガッサン・カナファーニー について

前章に写真を載せたビルゼイト大学の学生評議会の部屋。書いた通り, 壁にはパレスチナの旗をデザインしたものの他, パレスチナ解放運動の闘士たちの肖像写真を含む様々なものが貼られており, その中に, 『ハイファに戻って』『太陽の男たち』などの著作で知られるパレスチナ人作家で且つ PFLP (Popular Front for the Liberation of Palestine) のスポークスマンでもあった故ガッサン・カナファーニーの写真があった。

本章では, 本 note 第2章 パレスチナ/イスラエル問題 概観 にもリンクを付した以下の note 

の第3章 『ハイファに戻って』 を書いたのは, イスラエルの諜報機関に暗殺されたパレスチナ人作家 ガッサン・カナファーニー に掲載したテキストを, 以下に再び掲載することにする。

『ハイファに戻って』『太陽の男たち』などで知られるパレスチナ人作家で且つ PFLPスポークスマンだった 故 ガッサン・カナファーニー 。当時, 筆者が日本の雑誌などで目にする彼の著作『ハイファに戻って』は, 「ハイファに還って」と表記されているケースがあり, 筆者はその頃は後者の方で覚えていた。

ガッサーン・カナファーニー(1936年4月9日 イギリス委任統治下のパレスチナ生まれ, 1972年7月8日 レバノンの首都ベイルートで自身の姪とともにイスラエルの諜報機関モサドにより暗殺される) 〜 以下は, 彼の死去49周年に際しての ガッサーン・カナファーニー に関するインスタグラム投稿で, 一つ目は動画と下記テキスト(ユダヤ系アメリカ人のイスラエルの占領やアパルトヘイト政策に反対する団体 Jewish Voice for Peace によるもの), 二つ目は写真4枚と下記テキスト(主としてパレスチナ・ガザ地区に住むパレスチナ人によるライター・ジャーナリストの団体 We Are Not Numbers によるもの)。

Jewish Voice for Peace (2021年7月8日, 現地時間)

This 1970 interview reminds us of today’s Palestinians asserting their truths in Western media, even when journalists try to twist their words into false narratives of a “both-sides” “conflict” that Palestinians can “solve” by surrendering their struggle for liberation.
Ghassan Kanafani, a Palestinian resistance writer and revolutionary, was murdered on this day in 1972 by Mossad, Israel’s national intelligence agency. But his spirit clearly lives on in the Palestinian resistance writers, artists, and scholars of today. You can kill a revolutionary, but you can’t kill a revolution.
“To us, to liberate our country, to have dignity, to have respect, to have our mere human rights, is something as essential as life itself.” - Ghassan Kanafani
Interview with Richard Carleton in Beirut in 1970

(以下, スワイプして 2つの連続した動画

We Are Not Numbers (2021年7月8日, 現地時間)

Writing is a way of resistance, and the #Palestinian people are in huge need of resistance against the occupier, especially that they are trying to steal the culture. Palestinian resistance literature covers fiction, film, theater, poetry, visual art and music, but does not just depict the numerous types of political resistance throughout history. It was first found in Palestine by the Palestinian writer, Ghassan Kanafani.
Ghassan Kanafani was born on 9 April 1936, Acre, Palestine. In Jaffa, he enrolled at the Frères School. He and his family were forced to flee Jaffa when it was conquered by Zionist forces in 1948, and they took refuge in Lebanon. The family subsequently moved to Syria and lived in Damascus. His life in exile was hard, he worked for a printing press, distributed newspapers, and worked in restaurants, yet his hard-living circumstances never stopped him from continuing his learning journey until he got a job as an art teacher in UNRWA schools in Damascus. After obtaining his secondary school certificate, Kanafani joined his sister in Kuwait in 1956 where he worked as an art and athletics teacher. He also wrote for the weekly magazine; al-Fajr, and in 1957, he published his first story, “A New Sun.”
Kanafani’s writings were translated into more than sixty languages, and many of his novels were turned into movies. He also won international prizes such as his first novel Men in the Sun which was adapted into a feature film entitled 'The Deceived' in 1973. The film won the Golden Prize at the Carthage Festival for Arab and African cinema in 1973. Also, he was a talented painter.
Kanafani was assassinated on July 8, 1972, in Beirut. The Israeli Mossad had planted an explosive charge in his automobile, killing him and his niece, Lamis.
One of his most popular sayings: “The Palestinian cause is not a cause for Palestinians only, but a cause for every revolutionary, wherever he is, as a cause of the exploited and oppressed masses in our era.”
#GhassanKanafani #Palestinians #Palestine #Literature #Novels #Assassination #Occuaption #Stop #Oppress #Revolution #Cause #PalestinianCause #Kanafani #Freedom #FreePalestine

では, 

次は, ナブルス見聞録。

大学を訪ねて学生たちと話した, ナブルス見聞録(旅日記9ページと写真2枚) 〜 1983年10月13日

ナブルス(ナーブルス)も, 前々章のビルゼイトと同じく, 1967年6月以来のイスラエルによる占領地(同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に違反)ヨルダン川西岸地区にあるパレスチナ人の街。

写真 1/2

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写真 2/2

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上掲の2枚はナブルスの街の写真。以下は当時の旅日記。旅日記はけっこうギッシリと書いてあって, いま自分で読んでも興味深い点など多々あるのだが, 全て引用して取り上げるとあまりに多くなる。自分にしてはそれほど酷い乱筆の殴り書きでもないのでスマホでも読めるのではと思うけれども, PCのディスプレイ上で見ればまぁまぁ読みやすいと思う。 

旅日記 1/9

この日も, エルサレムからの日帰りの旅。目的地はナブルス。

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旅日記 2/9

訪ねた大学は An-Najah National University https://www.najah.edu/en/

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彼らが話したこと。(ほとんど オレは聞き役。彼らの話すことがあまりにズシンときて 聞くばかりだった。) 大まかにメモ。

「大まかにメモ」した, 彼らが話した内容は, 上掲の旅日記 2/9 の最後の方から次の頁以降にかけて記載。

旅日記 3/9

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旅日記 4/9

パレスチナ人が ユダヤ人は海にたたき込め と考えているというのは, イスラエル の, シオニストの, プロパガンダだ。我々の大多数は, ユダヤ人とともに住めると考えている。

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旅日記 5/9

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こんな状況下にありながら, なおかつ 彼らは言っているのだ。「ユダヤ人は海にたたき込め などと思ってない。我々は ユダヤ人と住める。

前々章で取り上げた通り, ナブルスのこの大学の学生たちだけでなく, ビルゼイト大学の学生たちも同様のことを語っていた。その際も以下の note リンクを貼ったが, ここに再び。

note パレスチナ/イスラエルが 「民主主義的な一国家」 になるという未来の 「現実」 を想像する

旅日記 6/9

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旅日記 7/9

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上掲の旅日記 7/9 の下から6行目以降は, エルサレムに戻ってからの話。

旅日記 8/9

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旅日記 9/9

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今日の旅 note はここまで, そして note の締めはいつもの通り, 音楽で!

The Circle Game 〜 Buffy Sainte-Marie/Joni Mitchell ♫

ビルゼイトでも, ナブルスでも, 被占領地パレスチナの街のパレスチナ人が通う大学を訪問して, 学生たちと話した。それで, 今日の note の締めはこの曲にしようと思った。

カナダ出身のシンガーソングライター Joni Mitchell が作詞作曲したこの曲は, ヴィエトナム戦争とその反戦運動の時代のアメリカ合州国の大学を舞台として当時の若者たちの青春群像を描いた映画「いちご白書」の中で使われている(カナダの先住民族にルーツを持つシンガーソングライター Buffy Sainte-Marie によるカヴァー・ヴァージョン)。それもこの曲が頭に浮かんだ理由の一つではあるけれど, あの映画は学生時代にリヴァイヴァル上映されたものを観ていて, 名曲が沢山使われていてそこそこ好きな映画ではあるけれど, しかしあの中で描かれた学生たちの当時のアメリカ社会における様々な葛藤などは, パレスチナの学生たちのそれと比較できるようなものではない。人それぞれの人生は, まさしくそのそれぞれの人にしか生きられないもので, その意味で比較してもあまり意味はないのだけれど, しかしまぁ単純に言ってしまえば, 現代の(これは前世紀つまり20世紀も含めて)パレスチナに生まれ育った若者たちが日々直面している問題はあまりに重たい。その意味でも, 大方の欧米諸国, あるいは日本などのそれと比較できるようなものではない。

この曲は, 上述した通り映画「いちご白書」に使われたことよりも, 次のことにおいて今日の note の締めに相応しいかもしれないと思った。

ミッチェルはカナダのフォーククラブに出演していた1965年頃、同じくフォークシンガーとして活動していたニール・ヤングと出会う。"You can't be twenty on Sugar Mountain" と歌われる「シュガー・マウンテン」という曲をヤングから聞かされた彼女は、返歌としてこの「サークル・ゲーム」を書いた。ミッチェルは1970年10月にロンドンでジェームス・テイラーと行ったコンサートで次のように述べている。
彼はちょうどロックンロールのバンドを辞めた頃だった。21歳になったからという理由で。21を超えたら十代の女の子が騒ぐようなクラブには決して戻れないんだと彼は言っていた。突き動かされるように彼はフォーク・シンガーになろうとして、丘の上にあがって「ああ、シュガー・マウンテンで暮らすには」っていう歌を書いた。その歌には失われた青春に対する嘆きが込められていた。でも私は思った。私たちみんな21歳になったら、そのあとは何にもなくて、荒涼たる未来しか残されてないっていうの? 冗談じゃない。だから私は彼のために、それから自分自身にも希望をもたらすために曲を書いたの。それがこの「サークル・ゲーム」という曲です。

先に, 「いちご白書」(The Strawberry Statement, 1970年公開)に使われた, Buffy Sainte-Marie によるカヴァー・ヴァージョン ♫

まぁ何というか, 懐かしい。

次は, 作詞作曲者 Joni Mitchell によるヴァージョン。こちらはもっとテンポがスロー。Joni Mitchell がこの曲を書いたのは 1965年から 66年にかけての時期と思われるけれど, Mitchell 本人のこの曲の録音は Buffy Sainte-Marie のそれ(1967年)よりも遅い。

Joni Mitchell が歌った "The Circle Game" は, 1970年4月リリースの彼女の 3枚目のアルバム "Ladies of the Canyon" に収録されている(アルバムの最後を飾る曲)。なお, この曲でコーラス, バッキング・ボーカルを務めている The Lookout Mountain United Downstairs Choir は, CSN つまり David CrosbyStephen StillsGraham Nash の 3人。

The Circle Game 〜 Joni Mitchell ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.8.31 加筆/削除/編集)。

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