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ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都だった, ベオグラード 〜 1983年6月, 3泊4日

1983年4月26日横浜港発のユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行, ここまでの振り返り

当時のユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都であり, 連邦に属する6つの国家のうちの一つ, セルビア社会主義共和国の首都でもあったベオグラードには, 1983年6月23日の夜, オーストリア・ウィーンで乗った夜行列車で向かい, 翌6月24日に着。

1983年4月26日に横浜港で乗ったフェリーで日本を発ってからの(当時まだあった!)ソ連, フィンランド, スウェーデン, ノルウェー, デンマーク, (当時はこう呼んでいた!)西ドイツ, そして当時はまだアメリカ合州国・イギリス・フランスの占領下だった西ベルリン, そこから歩いて「国境」越えした東ドイツの首都だった東ベルリン, それからベルリン・ケルン経由でフランス, そしてスイス, そして再びの西ドイツ, そこまでの旅については, 以下リンク先 note の最終章 1983年4月26日横浜港発のユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行, ここまでの振り返り に notes, そしてその後, 西ドイツ・ミュンヘン発の夜行列車で向かったオーストリア・ウィーン滞在第1回(ユーゴのベオグラード滞在の後, 再びウィーンに戻った)については, その前の章にさらりと。 

ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国, ベオグラード 〜 1983年6月24-27日, 3泊4日(写真15枚)

さて当時のユーゴ, チトー(前)大統領, つまりヨシップ・ブロズ・チトー(1892年5月7日生まれ, 1980年5月4日他界)が亡くなってから, 既に 3年余りの月日が経っていた。

戦前はナチス・ドイツに抗い, 戦後は自国を他の東欧諸国と違ってソ連の「衛星国」にもせず, 非同盟諸国のリーダーの一人と目され, 世界にその名を轟かせたカリスマだったチトー。少数民族に配慮した政策なども行なって多民族国家を束ねていた, そのチトーの死後, 3年余りの歳月が流れ, 当時はおそらく既に「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」内の各地で民族主義的な動きが復活し, その後の悲劇, つまり, あの悲惨な, 様々な要素が複雑に入り組んだ民族紛争の火種が生まれつつあった時だったんだろうなと, いま振り返ればそう思うのだが, 少なくともまだその時, 通りすがりの旅人には何も見えていなかった。

以下の 3段落分はウィキペディアからの転載。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、
・七つの国境(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニア)
・六つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア)
・五つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)
・四つの言語(スロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語)
・三つの宗教(正教、カトリック、イスラム教)
・二つの文字(ラテン文字、キリル文字)
・一つの連邦国家
といわれるほどの多様性を内包したモザイク国家であった。

さらに、「五つの民族」には含まれていない主要民族であるボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア南西部・モンテネグロ西部(サンジャク地方)に多いムスリム人、セルビア南部のコソボ自治州やマケドニア共和国西部に多いアルバニア人、セルビア北部のヴォイヴォディナ自治州に多いハンガリー人、またロマ人などが存在した。
言語学では差異が小さいセルビア語とクロアチア語を一言語(セルビア・クロアチア語)とみなす場合がある。

「七つの国境」については「七つの隣国」や「七つの不安」、「一つの連邦国家」については「一人のチトー」、「五つの民族」については「五つの主要民族」とした上で「八つの少数民族」が追加されるなど、様々な表現があった。

こんなふうに形容された連邦国家。

しかしたった 3泊4日, しかも6つの国家のうちの一つだったセルビア社会主義共和国の首都で且つユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都でもあったベオグラードに滞在しただけの, その時の一人の旅人による印象は, 西欧諸国と比べると野暮ったい, 要するに田舎っぽく見える, 一方であの旅の最初の訪問国・ソ連よりもよほど自由な雰囲気がある, そしてユーゴの人々は人懐っこくて親切, ざくっと言えばそんな感じのものだった。

そもそもベオグラードがユーゴの首都であることは当然として, セルビアの首都でもあることをどれだけ意識していたか。つまり, ユーゴが多民族の連邦国家であることをどれだけ意識していたか。もちろん頭では分かっていても, 1983年6月当時にベオグラードという一つの都市に 3泊4日滞在するだけでは, 自分が民族紛争の危険を抱える多民族国家にいるのだということを意識するというのは, 些か困難なことではあったと思う。

何しろ翌年, 1984年2月には, ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の中の一都市, 同連邦に属する6つの国家のうちの一つであったボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国の首都サラエヴォで冬季オリンピックが開催され(開催期間は2月8日から2月19日まで, 今これを調べてはたと気づいたけれど, 筆者がユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅から帰国して直ぐの時期だった), このオリンピックは社会主義国での大会としてはソ連のアフガニスタン侵攻の後で西側諸国がボイコットした1980年ソ連モスクワの夏季オリンピック以来のものだったけれど, ソ連とも距離をとっていたユーゴでのオリンピックは西側からボイコットされることもなく, またソ連や東欧共産圏諸国も参加した「平和の祭典」らしきものとなっていたのである(因みに筆者と同年代程度の年齢の人であれば記憶している人も少なくないと思う, フィギュアスケートの女子シングルで金メダルを獲得したのは東ドイツのカタリナ・ヴィット!)(もう一つ括弧, 「平和の祭典」と書いたものの, これはいまウィキで知ったけれど, 第一次世界大戦前のオーストリア=ハンガリー帝国による占領政策を恨んだ一部の地元住民が, オーストリア代表チームに様々な妨害行為を行ない, オーストリア代表には散散な大会になったもよう)。 

その1984年のサラエヴォでのオリンピック, 開催国ユーゴにとっては, 同国が多民族が協力しあうチームを作って大会を成功させ, チトーの死後もチトー時代の理想が堅持されていることを世界に向けて示すという, そんな記念すべき大会にもなっていたのだ, 少なくとも当時は(あの悲惨なボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は1992年から1995年にかけて起きた内戦)。

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さてさて, 以下は, 当時ベオグラードで撮った写真17枚のうち, 「厳選」の15枚(17枚のうち15枚掲載しちゃ実質「厳選」じゃないね)。

1) 最初の写真は, 初日, 1983年6月24日にベオグラードの街を歩いていたら声をかけてきた, 当時ユーゴでは雑誌などにもよく登場するような有名人だったマジシャンのボレ。以下は彼が筆者の旅日記に書いてくれた自身の似顔絵とサイン(彼の写真はこの似顔絵の下)。住所のベオグラード以下は隠した。どうやって隠したかというと, 今たまたま手元にあった谷川俊太郎の詩集を置いて隠した(笑)。

次章で載せる旅日記に書いてある通りで, ボレは互いの共通語とするしかない外国語である英語に関しては全くのカタコトだったけれど, 驚くべき表現力の持ち主で, 大抵のことは通じた。また大の親日家で日本のことに非常に詳しく, 例えば日本における(当時はまだわりと日本国内でニュースになっていたような)「校内暴力」のことまで知っていた。彼はとにかく気さくなおじさんで, 自宅に招待してくれ, 家族も紹介してくれた。

もう長いこと音信がない。ユーゴで知り合ったどの人もそうだけれど, そしてもちろん知り合わなかった人もそうなのだが, どうかどうか, あの悲しい紛争の時代を生き抜いていてほしい(膨大な数の犠牲者が出た現実は知りつつも, そう願う)。

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カメラを向けると, 剽軽(ひょうきん!)な表情をしてみせたボレ。

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2) カメラを向けると, 剽軽(ひょうきん!)な仕草をしたがったボレ。この後, 彼の自宅に招待され, 家族の写真も撮らせてもらったけれど, それはここでは控える。

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3) 1983年6月25日, 街中の市場。

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4) ギリシャ正教の教会の中。

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8) 軍事博物館の周囲。 

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9) ドナウ川沿い。

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10) 1983年6月27日, これは確か, チトーのメモリアル・センター。

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11) チトーのメモリアル・センター近くにあった公園。

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13) ベオグラードの駅から街中の写真を撮った。撮った方向に歩いていくと, この白い上着(ジュース屋さんの制服)を着ていた若者が「俺の写真を撮ってくれ」とジェスチャーしてきた。写真はこの写真の下, 14) にある(リクエストに応えて写真を撮っただけではあったが, ジュースをただにしてくれた)。

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15) ベオグラードの街で会った人たち皆, 親しく話した人たち皆, 列車内で会った人たち皆, 列車内で親しく話した人たち皆, 気さくで人懐っこくて親切だったユーゴの人々みんな, 今もきっと元気でいてほしい。

1983年6月27日, 6月24日から3泊4日滞在(2泊はユースホステル, 1泊は野宿!)したベオグラードを離れ, その日の夜行列車でオーストリア・ウィーンに戻った。

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人懐っこいユーゴの人々, なっつかしい, 懐かしいよ!

ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国, ベオグラード 〜 1983年6月24-27日, 3泊4日(旅日記, 殴り書きメモ)

以下に掲載するこの間のことを書いた旅日記については, その大半を 1983年6月27日に書き, さらに最後の方に関しては 1983年6月28日早朝, 前夜に既にベオグラードを発ちユーゴ・オーストリア間の国境を越えた後, オーストリアに入ってからの列車内で書いている。

旅日記の文字通り「殴り」書き。

作詞:寺山修司 作曲・編曲:八木正生

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.8.31 加筆/削除/編集)。

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要するに, あしたはどっちだ

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あしたはどっちだ」的な「放浪」もどきの旅をしていた, その時の旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ。

旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 1)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 2)

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以下は殴り書きメモじゃなくて, 前章にも載せた当時のユーゴで有名だったマジシャン, ボレの直筆「似顔絵」自画像とサイン(ベオグラード以下住所は非表示)。 

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 3)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 4)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 5)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 6)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 7)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 8)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 9)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 10)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 11)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 12)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 13)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 14)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 15)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 16)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 17)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 18) ... 妙なことを書いてる。「海パン」というのは, ユーゴの後はオーストリアに戻って, その後はイタリア, 次のギリシャは真夏, エーゲ海の島にも行くつもりだったから, 「海パン」買っておこうというメモだろう。「メモ帳」も足りなくなりそう, 「ティッシュ」も足りなくなりそう, 「DDTスプレー」.. ?? ... これは旅日記の先の方を見ていかないと, 具体的に何の目的だったのか自分でも思い出せない(笑)。「(ぼうし)」は単に日差しがキツくなってきたからかな。「アテネにて予防接種」, これはコレラ対策。「トルコでくつ」, トレッキングでもしようとしてたのかな。最後のはギリシャの後, トルコ, シリア, ヨルダン, パレスチナとイスラエルを旅してその後でパレスチナ, 当時イスラエルによる軍事占領下だった(今現在は既に14年間にわたる軍事封鎖下にある)ガザ地区から陸路で行く予定にしていた(実際に行った)エジプトに関わる旅人情報。 

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 19)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 20)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 21) ... このとき使っていた何冊目かの旅日記がコンパクトなわりにけっこう厚く, このページ, 写真を撮ろうにも, 開いて置いていると直ぐに閉じてしまうので, 重しを置いて写真2枚に分けた, その上半分!

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 22) ... このとき使っていた何冊目かの旅日記がコンパクトなわりにけっこう厚く, このページ, 写真を撮ろうにも, 開いて置いていると直ぐに閉じてしまうので, 重しを置いて写真2枚に分けた, その下半分!

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 23)

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 24) ... このとき使っていた何冊目かの旅日記がコンパクトなわりにけっこう厚く, このページ, 写真を撮ろうにも, 開いて置いていると直ぐに閉じてしまうので, 重しを置いて写真2枚に分けた, その上半分!

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 25) ... このとき使っていた何冊目かの旅日記がコンパクトなわりにけっこう厚く, このページ, 写真を撮ろうにも, 開いて置いていると直ぐに閉じてしまうので, 重しを置いて写真2枚に分けた, その下半分!

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旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ, 26)

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「6ヶ国語会話」の表紙うらと地図みよ! .. と書いてあるから, 以下の「旅の諸々」段ボール箱 の中を漁るとその「6ヶ国語会話」や該当する地図 が出てくるのかもしれない。たぶん何かまだメモがあるのだろう。いつか「漁って」みようと思ってる。この箱のことは, 以下 note *1 の第1章や note *2 の第2章などで書き, note *3 でも触れた。

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*1

*2

*3

さてさて, 

今日の最後は例によって(いつもいつもではないものの, よくある) ♫ 締め。

The Side of a Hill 〜 Paul Simon (1965) ♫

何故この曲を選んだかというと, その理由は前々章と前章にある。個人的な感情としては特に前章, 自分の思い出に。

この曲は, このアルバムに収められている。

The lyrics for the anti-war song "The Side of a Hill" were incorporated into the Simon & Garfunkel arrangement of "Scarborough Fair/Canticle" on Parsley, Sage, Rosemary and Thyme.

本来オリジナル盤のカヴァー写真では上の Wikipedia でのそれのように左に Paul Simon, 右に Kathy (Kathleen Chitty) だったところ, 以下の YouTube 上のクリップではその写真が反転してしまっているが(このアルバムや写真の反転などについて以前 note で触れたことがある *1), オリジナルの写真が使われれた YouTube 上のクリップの音が割れてしまってるので, こちらを使うことにする。

The Side of a Hill 〜 from Paul Simon 1965 solo album "The Paul Simon Song Book"

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.8.31 加筆/削除/編集)。

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*1 上で取り上げたアルバムやカヴァー写真の反転に触れていた note, でも今ざくっと見たら, 特に後者については文字通り触れた程度(笑), Kathy's Song の, 今はもう使ってない自虐表現「拙訳」。 


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