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サバイバル力というよりも「丁寧な暮らし」にいつの間にか変わって来ていたのかもしれない。

朝からじわっと不安が起きる。

太陽光パネル+蓄電池があれば緊急時も安心という記事に対して
「サバイバルの程度による。究極であれば水のろ過装置を作れるとか寝どこを作れるとか…」という返信があって、ごもっともと思う。

自作できる水のろ過装置を調べてみる。
自分はぜんぜん知らない。

退職するときに「火の起こし方も知らなくて、何かあったら生きていけない。生きる安心というなら自分でやる力、サバイバル力をつけないと」と思って、
不便を敵にしないように、自分で少しでもやろうと思って暮らしてきた。
家庭菜園は始めたし、コンポストなど少しはDIYしたし、靴下の穴を繕ったり手作りお菓子をしたり、多少は良くなってきた。

家もあって安定して暮らせている。
水道も電気も使える暮らしをしている。
でも「サバイバル力」は結局ついていないな、と今朝の記事やそこへの返信を見て気付く。

サバイバル力というよりも「丁寧な暮らし」にいつの間にか変わって来ていたのかもしれない。
それも良いものだけれど。

自分は前提を探る癖があるから、サバイバル力と聞いた時に「じゃあ究極は水・食料・火・寝どこを作れることだよな…」というところまで考えてしまって、そこを何とかしようとしてしまう。
文明の起こりを自分の身体で体験してみないと気が済まないのかもしれない。

安心というのは「自分で何とかできること」で、今の自分は水のろ過だとか火を起こすとか、そういうことを未だに知らない。
そういうことで不安になる。

とはいえ脊髄反射的にやっても仕方がない。
あらためて自分にとって「生きられる安心」は大きな関心事で、今もクリアされていないと分かる。
あとは究極の状況になった時に「そうまでして生きたいのか」、それを考えるために「そもそも生きるとは何か」も論点になる。
こうやってウワーっと考えるべきことが出てくる。

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お読みいただきありがとうございます。

毎日の日記の中から一部を抜き出して、こちらに載せています。

明るい考えも暗い気分も、毎日なにかあって、日々とはすごいものですね。それをちゃんと受け取りたいなと思います。

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