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不登校としての生き方

小学生の時にクラスメートが自殺した。
小学校四年生の時だ。

 
亡くなった日は日曜日の午後で、私はそれを通っていた幼稚園の理事長から聞いた。

私の母は当時、その幼稚園の理事をしていて、私や姉が卒園してからも、母は幼稚園と繋がっていた。
とはいっても
母が基本的には幼稚園に出向き、集まりに出席していたので
我が家に理事長が来ることは初めてだった。
ただごとではなかった。
気にするなという方が無理だ。

客間で母と理事長が話している声を、私はこっそりと盗み聞きした。

  
「○○さんが、自殺したと連絡が入って…」

 
私はそれこそ自分の息の根が止まるかと思った。 

あまりにも予想外な話だった。
理事長のことを昔から知っているが、笑顔を絶やさず、常に子どものことを考える人格者だ。
その理事長が声を詰まらせ、泣いていた。
事実だ。間違いなく事実なんだ。
そうじゃないと、わざわざうちになんて来るわけがない。

 
私は自殺したクラスメートと幼稚園が同じだった。
学校側から連絡が入る前に、新聞やテレビの報道を見る前に、私はこうした形で、他のクラスメートよりも先に自殺の件を知ることになった。
私は頭が真っ白になって、ガタガタ震えながら自分の部屋に逃げた。

  
その夜、母が珍しく、一緒にお風呂に入ろうと誘ってきた。
私は何も母に聞かなかったし、母も自殺のことは言わなかった。
ただ、湯船に二人でつかっている時に、母はこんなことを聞いてきた。

母「…○○さんって、どんな子だった?」

 
私「……優しくて、賢い子。すごくすごく、優しい子。だけど、優しいから、やり返せなくて、男子からイジメられてた。女子からは優しいから人気あったんだけどね。私も好きだったよ。」

 
それ以上は言わなかったし、言えなかった。
お互いにそれ以上は踏み込めなかった。
今まで母親と○○さんについてこんな風に話したことはない。
母があえて話題に出したことは、先程盗み聞きしたあの件が真実だと告げていたようなものだった。

 
 
 
次の日の朝、登校班で通学した私達を待っていたのは
待ち伏せるマスコミ。追いかけるマスコミ。

「早く学校へ!早く教室に逃げて!」

私も追いかけられたし、家には電話がかかってきた。
しつこいマスコミは校庭までクラスメートを追いかけ、私達は教室の窓からクラスメートに声をかけた。
早く!早く逃げて!!

 
急遽体育館で全校集会が行われたが、体育館に向かう間もフラッシュはたかれ、新聞に載り、テレビのニュースにもなり
人生初めてのお葬式は自殺したクラスメートのものという 
私にとって忘れられないものになった。

お葬式の時も、マスコミはいた。

 
 
自殺に関するアンケート調査があった。

クラスでイジメはあったと、担任の態度にも色々問題があったとアンケートに書いたし
女子数人で校長先生にも訴えたが
遺書に具体的な理由が書いてなかったことから、学校側に問題はなかったこととして、処理された。
家庭環境が複雑であったこともまた
恐らく自殺の要因であったこともあり
責任逃れはしやすかった。

死人に口なし、ではないが
遺書に具体的に何かを書かない限り、揉み消すのは簡単なんだと私は学んだ。

 
机に置かれた花瓶や花を毎日見たり、水を取り替えながら
私はなんとも言えない気持ちだった。
もう決して戻らないのだ。
命は尊く、大きく、そしてなんという儚さだろうか。

 
 
私は今でも、そのクラスメートの誕生日も命日も忘れられない。
一人手を合わせ、目を閉じ、黙祷をしている。

 
 
 
 
スクールカウンセラーになりたい。

私が高校生の時にそのように決意したのは、間違いなく、クラスメートの自殺が影響していた。

 
臨床心理学を大学で専攻した。
一年生の頃は一般教養だらけだったが、二年生からいよいよ本格的な講義や実験、研究が始まった。
そんな時に学校側から、スチューデントサポーター募集の話があった。

 
スチューデントサポーターとは、不登校の生徒へのボランティア活動である。
私が目指していたスクールカウンセラーへの道に繋がっているボランティア活動だ。
私は募集の話を聞いた瞬間に即決で応募したし、友達も応募していた。
 
余談だが、大学では触法少年と関わるボランティアも募集していて、別の友達がしていた。
そちらも非常に興味深かったが、私の自宅はエリア外のため、できなかった。

 
 
スチューデントサポーター希望者は50人を越え、説明会に参加した。
どの不登校の生徒と関わるかは自分では選べず、大学側が割り振るという話と、年度いっぱいのボランティア活動だという話があった。

私は毎週水曜日、自宅と大学の中間地点の、某小学校に行くことになった。

  
 
電車に乗り、小学校の最寄り駅で降りて、そこからはバスに乗り、バス停から更に歩くと、その小学校はあった。
講義がない日は、私は駅から小学校まで歩いた。
帰りはいつも歩いた。
川沿いで菜の花や桜並木が美しく、美味しい鯛焼き屋や本屋があることが非常に良く、散歩にもってこいだった。

 
スチューデントサポーター初日、私は先生と同じように小学校の裏口から入り、職員室で挨拶をした。
先生方が席を立ち、「今日からよろしくお願いします。」とお互いに頭を下げた。
ロッカー室を案内された後、私はスチューデントサポーター担当の先生を紹介された。

 
どうやらその小学校の一室(空き部屋?)が不登校の生徒が通う教室になっているらしく
小学生の下駄箱の隅の方に、彼等用の下駄箱が用意されていた。
威勢が良く、元気のいい小学生が「こんにちはー!」「お姉さん、誰ー?どこから来たのー?」と無邪気に笑う。
そんな生徒と挨拶し、横目に見ながら
私は案内された部屋の扉を開けた。

   
 
そこには、女の子が二人いた。
中学生だったと思う。
そこの不登校の生徒が通う部屋は、小学生~中学生対象だった。
不登校の生徒用に20人以上の下駄箱が用意されていて
もはや一クラス分の人数分があったが
教室にいたのは、わずか二人だった。

 
「不登校の生徒はね、ここに通うことさえ困難な人が多いんですよ。」

先生が私と二人きりの時にそう話した。
そして私は半年以上ボランティア活動をしたが
その後、他の生徒と会うことはなかった。
毎週水曜日、特定の時間にしか行かなかったこともあるが
結局私が関われたのは
わずか二人の生徒のみだったのである。

 
その教室に私が行った際、勉強らしい勉強はしなかった。
一緒に絵を描いたり、本を読んだり、カルタや百人一首をやった。
たまたま、不登校の子が漫画やアニメが好きで、私は彼女らが好きな漫画やアニメに詳しかった。

 
一緒に黒板にアニメのキャラクターの絵を描いた。
彼女らは目を輝かせ、「真咲さん、あのアニメ知ってるんだね!絵上手いね!!」と喜んだ。
先生よりも年が近い私は、アニヲタのお姉さんのような遊び相手であった。
漫画やアニメが趣味でよかったと感じた瞬間だ。

 
「私はアニメや漫画詳しくないから、真咲さんが来る日を、二人とも楽しみにしているんですよ。真咲さんが来ると、部屋が明るくなります。」

先生は二人きりになると、寂しそうにそう微笑んだ。

 
毎週、生徒二人が来たわけではない。
良くて、二人来ていただけだ。 
一人しかいない日もあったし、部屋に先生以外誰もいない日も何日もあった。
先生は誰も来ない部屋で、何を思い、何を感じていたのだろうか。
何を待っていたのだろうか。

 
 
私は不登校の生徒だけでなく、先生とも色々話し
不登校の生徒の実際について多少学んだところで
ボランティア活動は終了となった。

 
一度不登校になると、学校復帰どころか、不登校の生徒が集まる教室にすら行くことが困難という現実。

 
 
私は小中高時代、同じ学年に不登校の生徒はいなかった。
休みがやや目立つ子はいたが、保健室登校の子さえ、いなかった。

  
だから私が間近に見た不登校の生徒は、このボランティア活動場が初めてだったのだ。

 
 
 
大学三年生になり、私がとても楽しみにしていた実習の話になった。
いよいよである。
実習先は学生の希望で選べる。期間は二週間である。 

  
精神科病院や児童福祉施設、内観療法体験等実習受け入れ先は100箇所以上。多岐に渡った。
私はもちろん、不登校の生徒と関わる場所一択だ。
自宅からほど近かったのも、都合が良かった。

 
そこはボランティア活動で行っていた小学校よりも大きな建物の場所で
通された部屋には中学校一年生~三年生までの生徒が20~30名いた。
興味深いのは、全員が様々な制服を着ていたことだ。
ここに通うルールが、「自校の制服を着る」ということらしい。
制服さえ統一ならば、一見、どこにでもいる中学生の一クラスだろうが
バラバラの制服は、不登校の生徒の集まりである証だった。

 
 
ここで過ごした二週間も、中学校ならではの、勉強らしい勉強はあまりしなかった。

一緒に畑に行き、雑草を抜き、野菜を収穫し、調理室で野菜の天ぷらを作ったことが一番印象的だ。
巨大な流しそうめんを竹で作り
みんなでそうめんを食べながら、野菜の天ぷらを食べた。

土に触れ、野菜を育て、収穫し、自分達で調理し、それをみんなで食す。

 
それが彼等にとってどんなに大切なことか、私は感じた。
学校や組織に上手く溶け込めない彼等は、ひどく自信を失っている。
ボランティア活動で学んだように、ここに通えている人はまだいい方で、通うことさえ困難で自宅から出られない人もたくさんいた。
もちろん、合う合わないは個人差があり、通えるから偉いということはないと思うし
自宅で得られることもあるとは思う。

ただ、基本的に小中学校の時は、家と学校が世界の大半を占めている。
趣味でもなんでもいいが、家以外家族以外の世界があるのは大切なことだと個人的には思う。
こういったところに通うのは
一つの刺激であり、何かを感じたり考えたりするきっかけにはなると思う。

 
教室にいる時よりも、畑にいる時のみんなの目には
確かに光が宿っていた。  
 

 
私はボランティア活動の時と同じように
アニメや漫画の話で、みんなと距離を縮めた。
アニメや漫画様々である。
二週間の間に色々な子と色々な話をした。
どの子もみんな、いい子だった。  


もうすぐ教室のみんなで遠足に行くらしく、私が実習に行っていた時、みんなでしおりの作成をしていた。
私が特に仲良くなったAさんは、丁寧に丁寧に絵を描いていた。上手かった。

「Aさんは本当に絵が上手だね!私にはそんな緻密な絵は描けない!本当にすごい!!」

 
大人しく、内向的なAさんは照れくさそうに微笑んで、また再び絵を描いた。
その目は真剣そのものだった。

  
 
実習担当の人が後に私に

「Aさんはね…今まで自分の絵が学校で何かに選ばれたことは一度もないんですよ。しおりの表紙担当は初めてなんです。」

と告げた。

 
 
私はその言葉を聞いて、なんとも言えない気持ちになった。
誰にでも得意不得意はあって、長所は必ずある。
だけど、それが集団の中で秀でた何かであるかはまた別問題だ。
上には上がいる。
天は二物も三物も誰かに与える。

 
そして、誰よりも秀でた何かがあったとしても、それによって集団で溶け込めるかもまた別問題である。

普通ではない人。
平均ではない人。
周りとは違う、悪目立ちをする人。
異質な人。
大人しく、刃向かわない人。

そう見なされた人は、ターゲットになりやすい。
クラス内で力のある人、及び力のある人が属している集団に目をつけられたら
逃れることは非常に…非常に難しい。

 
 
 
あの時自殺したクラスメートも、自殺ではなく、不登校になるという選択肢もあった。
いっそ死なずに不登校になってほしかった。
だが、まだ私の頃は不登校の生徒というのは数が少なく
まして、学年には不登校の生徒はいなかった。
保健室登校の生徒さえ、小学校にはいなかった。
スクールカウンセラーもいなかった。
家庭環境も複雑だった。
担任は厳しかった。

不登校という選択肢があったとしても、選ぶに選べない立場だった。
相当の覚悟がいるだろう。

だから自ら命を、絶った。

 
 
私が高校生ぐらいの頃だろうか。

全国的に不登校の生徒が増加し、「不登校でもいい。」という考えが徐々に世の中に浸透していったのは。
昔は「学校は何があっても行くもの。」という固定概念が強く
「不登校=弱者、社会不適合者」のイメージは、非常に強く植えつけられていた。

 
…死ぬくらいなら学校に無理に行かなくてもいい。
辛いなら、ここにだって来なくていい。
不登校ということで負い目があるだろうし、自信も失っているだろう。
でもどんな形でもいい。
生きて。生き延びてほしい。

私は二週間関わった彼等に対して、強くそう思った。
 
 
表紙の絵を完成させたAさんは、嬉しそうな顔をしていた。
私は実習期間中にその笑顔が見られて、とても嬉しかった。

 
 
 
「スクールカウンセラーは、教員免許と臨床心理士の資格が必須な上、基本的に非常勤です。更に、求人はほとんどありません。」 

大学だけでなく、ボランティア先でも実習先でも、私は同じことを言われた。
現実を改めて思い知らされた。
絶望的な言葉だった。

 
大学院まで進学しないと、臨床心理士の資格はとれない。
心理学の資格の最高峰が臨床心理士だ。
ただし、国家資格ではない。
そして、国家資格になる予定も未だなかった。
 
臨床心理士の資格がないと、基本的に心理職に就けない。
ただし、就けたところで、スクールカウンセラー以外の職も基本的に非常勤の上、求人数が少ない。

  
大学院に通った先で待っているのは、非常勤。
いや、非常勤さえまだ恵まれていて、そもそも職がない。
私の県はまだまだ心理学の分野で大きく遅れていた。
 
私はスクールカウンセラーの夢を諦めるしかなかった。
私は正職員になりたかった。

  
 
臨床心理士の資格の有無関係なく、心理職の正職員に確実になるためには、県の公務員試験に受かるしかない。
ただし、心理職は上級公務員試験にあたる。
採用人数はわずか二名。
受験者数は三桁である。

私は学科試験で呆気なく敗れた。

 
 
  

大学院に受かり、臨床心理士の資格を得た友達は、地方で非常勤として働いた。
正職員として採用された人もいたが、非常勤がほとんどだった。
何年も非常勤で働き、運が良かった人はその後、正職員となった。
もちろん、地元は捨てる状態で、遠く離れた場所で働いている。

正職員として心理職に就きたいならば、地元就職は諦めた方がいい。それほどまでに、求人数は少ないのだ。
 
 
 
心理学の大学院はレベルが高い。

私は適性も足りず、学力も足りず、「非常勤でもいいから就きたい!」という確固たる信念や覚悟が、何より足りなかった。

 
臨床心理士の人ならば、私はどんな人でも羨望の眼差しで見つめる。
 
だから婚約者が私を捨てて選んだ人が、臨床心理士で正職員として働く同学年の人と知った時
なんという皮肉だと思った。
私は勝てないと思った。

 
 
 
 
 
私が大学を卒業して10年以上経った今も、臨床心理士は国家資格にはなっていない。
スクールカウンセラーはまだまだ少ない。
(2019年から、公認心理師という資格が国家資格になったらしい。)

 
不登校の生徒は年々増えているし
イジメによる自殺者も毎年報道される。

  
 
この前ハローワークで、自殺対策予防の業務の求人を見かけた。

これだ!と強く思った。
こんな仕事があるなんて!と強く惹かれた。

契約社員だが、やってみたいと思った。
必須資格は保健師か精神保健福祉士。
どちらの資格も持っていなかったが
諦めきれない私はダメ元で問い合わせをし、自分を売り込んだ。
 
 
資格を持っていないことで、もちろん面接にさえ至らなかったが

「今回は残念でしたけど、あなたのように熱意がある方は、人を手助けする仕事に向いていると思うし、きっと就けると思います。その熱意こそが人を動かすと思います。」

と労われた。
 
 
転職活動は振り出しに戻った。

 
 
 
今年、私はテレビでたまたま、自殺したクラスメートと同姓同名の方が活躍していることを知った。
顔はまるで似ていないが、その人が生まれた年はまさかの、クラスメートが自殺した年だった。

生まれ変わりではなく、たまたまの偶然なのだろうが
同姓同名の人の活躍が私は嬉しくて、その活躍を見た時、一人涙した。

 
  







  





 
 



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