ビロードの掟 第38夜
【中編小説】
このお話は、全部で43話ある中の三十九番目の物語です。
◆前回の物語
第七章 ビロードの掟(4)
「いい質問よ、リンくん」
まるでダメな生徒が正しい答えを見つけたのを優しく褒めるような口ぶりで、優里は凛太郎に向かって話しかけている。
「もうだいぶ長いわ。あなたと別れてから3ヶ月経った後くらい。深紅のワンピースを買ってすぐの頃から。知ってる?7月の満月は、バックムーンと呼ばれてるのよ。『バック』は本来雄の鹿を意味するみたいだけど、それ以外にも効用があるのかもね」
凛太郎はその時、ちょうど1ヶ月ほど前に渋谷で深紅のワンピースを着ていた彼女を見たことを思い出した。あれも幻だと信じたいところだが、妙に現実的な質感を伴っていた。
「俺は君のこと、ついこの間渋谷で見た。そして今考えると、優奈の話には相当無理がある。いくら手紙を残したとはいえ、そして別れて別々に暮らしているとは言っても流石に君がいなくなったらもっと騒ぎ立ててもいいはずだ。でも、そうなっていない。芹沢さんも君に会ったと言っている。何もかも歪だ」
優里は眉根を寄せて、少し首を傾けた。彼女の存在が、そのまま透き通ってスゥッと幽霊のように消えてしまうように感じた。
「そうね、私がここにきてから世間ではおそらく3年くらい経ってるのかしら?でもね、正確に言うと私はいなくなっていないの」
凛太郎はまさに狐に摘まれたような表情になっていたに違いない。今も昔も変わらない優里の特質──。どこか夢見るような、人を煙に巻くような物言いにますます頭が混乱していた。
「いい?あくまでここには私の心が留まっているだけなの。あなたがさっきまで生きていた世界にも、優里はいるわ。但し、そこにいるのは体だけ。姿形はあるけれど、きっとどこか上の空でまるで感情がなかったかのように感じたと思うわよ」
芹沢さんが優里に会った時の印象を言っていたことを思い出した。「うん。心ここに在らずって感じでね──」
「優里から実際に話を聞いてみてこの世界のことをぼんやり分かったつもりだけど、結局は深く理解できてない気がするよ」
ふふっと優里は笑った。「私もよ、リンくん。でもきっと、無理に解明しなくても良いものなんてこの世にはたくさんあるよ。そうした奇怪さの中で私たちは想像を膨らませながら逞しく生きていくの」
先ほどまで様々な色に目まぐるしく変わっていた周囲の色は、今は暖かな気がつけば黄色い光に包まれていた。
「それで、君はどうするつもりなの?」
「──ん、そろそろ帰ろうかな。もともとこんなに長居するつもりじゃなかったの」
その場で優里は大きく伸びをした。彼女はとても穏やかな表情をしていた。
「優奈もいろいろ巻き込んじゃったから、何かお礼しなきゃね。お父さんとお母さんもきっと心配してる。私の体があるとはいえ、心がない空っぽの容れ物だもの。うちの子は一体どうしたんだろうと話し合ってるはずよ。それで彼らの仲が深まれば私も嬉しいんだけどね」
その時、ニャアと猫が鳴いた。すっかり存在を忘れていたが、黒猫は何やら不満そうな顔をしている。
「ああ、アリス。あなたのことすっかり待たせちゃったね。さ、行こうか」
優里はそっと優しく、猫の顎を優しく撫でる。猫はゴロゴロと気持ちよさそうに鳴いた。
今だにこの猫が人形から実体化した過程は解明できないままだったが、おそらく世の中にはまだまだ科学で証明できないものや人智の届かない物事が存在しているのだろう。この世界のように。
しばらくして、黒猫はすっくと立ち、再び凛太郎と優里の前を歩き始める。
二人が黒猫のあとをついていくと、景色が来た時と同じように再び様々な色に変わり、そして目まぐるしく変化していった。
もしかしたら自分たちの世界でも起こりうる世界。見慣れたように見える景色は、明らかに今の世界とは違っていて当たり前という言葉がいったいどこを向いて指している言葉なのかがよくわからなくなっていた。
これは本物だと言えるものは、結局受け手本人の手に委ねられている。
<第39夜へ続く>
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