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三日月とわたし。

先日、全く何も考えずに投稿する際に#noteと打ったら#noteフェスと出てきたので、なんだか面白そうなタグではないか、という安易な理由によってタグ付けしてしまったのだが、なんと9月2日~5日まで現在絶賛オンエア中の「note CREATOR FESTIVAL」を鑑賞して気づきや学びなどをシェアするためのタグだったらしい。

「な~にぃ~!? やっちまったな!!」 という一世代前のギャグが頭に浮かび、なんだか自虐的な気分になったのだが、noteフェスサポーターの秋さんに私が以前作った作品を記事で紹介していただいた。ありがたいことや。顔から火が出るほど恥ずかしかったのだが、拾っていただいたことによりなんとか人としての形を保っている次第。(基本フヨフヨしているよ)

実は「note CREATOR FESTIVAL」の存在自体は知っており登録もしていたのだが、こういうのって登録スルーみたいなものがあって、「あー気づいたら過ぎちまったー!まーいっかー。」となってしまうケースが多い。そして、今回も例外ではなく開催していたのをすっかり失念していた。取り上げていただいた手前もあり良い機会だと思い、もともと登録していた「インターネット時代の新教育 (ヨビノリたくみ × 吉村総一郎)」を視聴してみた。

そういえば、堀江貴文さんの『多動力』、落合陽一さんの『日本再興戦略』といった本では、これからはいろんなことを並行して高めていってそれを掛け合わせることによって強みあるいは専門性を伸ばしていく時代になる、という話が出ていたけれど、同じことを吉村さんが言っていた。たぶん、これは今のトレンドなんだろうなーという気がしている。

教育というのは非常にナイーブだ。親が教育者だったということもあって、そばで見ていた時にこれほどまでに「教えること」には様々な壁が立ちはだかるのか、といった形で驚嘆した思いがある。

教育の在り方の変遷は、製造業の変遷とよく似ている。
昔は売れば売るほど儲かる時代だったので、みなができる限り均一な仕事をしていても問題ない世界だった。それはつまり、子どもたちの中で平均的な点数を一定以上超えていれば優秀とみなされていたという事実と密接な関係があるような気がする。昔は、それでも事足りた。ところがいまやいろんな人の趣味嗜好が多角化したことにより、カスタマイズすることが求められている。これまでのような画一的な集団に対する教育ではもう時代遅れになりつつあるということ。

そうした時代の流れになりつつあるのに、一方で個性的な子供は通常の物差しから逸脱した時点ではじかれる。

例えば学校だと狭い教室内にたくさんの子供たちが一緒くたに入れられることによって、集団の中でどのように立ち振る舞うのかという能力は鍛えられる一方で、「教室カースト」の頂点に立つ人が基準に立つことによって彼らの価値観を強制的に押し付けられる。そうなると、次第に学校へ行くことの恐怖と直面し、再度教室に踏み出すことは至難の業だ。

支える人が本来は周りにいてあげるべきなのに、群集心理に巻き込まれることによってだれも手を差し伸べてあげることができなくなる。誰だって、自分が可愛い。誰だって、できる限り居心地の良い世界で生きていたい。面倒なことに巻き込まれるなら見て見ぬ振りしたほうが楽だもの。

★ ★ ★

辻村深月さんが著した『かがみの孤城』の中では、なんらかの理由によって学校に通えなくなった子供たちが鏡の世界に集まり、そこで彼らは親交を深め、自らの価値を見出していく、という過程が描かれていた。人は一人では成長できないし、だれか自分のことを考えてくれる人がいるだけで随分と気持ちも楽になる。でも、自分のことを考えてもらうにはしっかり自分も相手のことを思いやる必要がある。そのことを改めて思い知らされた。これはミステリーとしても楽しむことができるので、おすすめの一冊。

学校での居場所をなくし、閉じこもっていたこころの目の前で、ある日突然部屋の鏡が光り始めた。輝く鏡をくぐり抜けた先にあったのは、城のような不思議な建物。そこにはちょうどこころと似た境遇の7人が集められていた――

そして、また教育という観点に戻ると、森絵都さんの『みかづき』という作品が最高に面白く、教育の在り方について考えた。学校という教育の場とは別に、塾という形態が生まれたのはそれはやはり旧来の勉強がわからないのはその生徒の資質によるものだ!という考え方から、いやいやそれは伝え手側の問題も多分にあるという視点から生まれたものなのだろう。

昭和36年。放課後の用務員室で子供たちに勉強を教えていた大島吾郎は、ある少女の母・千明に見込まれ、学習塾を開くことに。この決断が、何代にもわたる大島家の波瀾万丈の人生の幕開けとなる。二人は結婚し、娘も誕生。戦後のベビーブームや高度経済成長の時流に乗り、急速に塾は成長していくが……。

そして、このコロナ禍によって、再び教育というのは新しい変換期に突入したような気がする。今では情報があふれて、だれもが自由にそして簡単に手に入れることができるようになった。昔はネットにつなぐことさえ一苦労だったのに、今や発展途上国でさえ通信環境がそろう時代となった。

仕事も、これまではオンサイトでやることが通説だったのに、意外とオフィスに出なくても何とかなることが実証されてしまった。(もちろんすべての職業でテレワークが通じるわけでないが)

直接肌を触れ合わなくても、相手のことを間近にいるようになんとなく感じてしまう。なんとなく、心を通じ合わせたような気になる。ネットの環境は恐ろしく私たちの心を軽くして開放的にし、だれもが博識な人物になるための道しるべを築いた。

これは確かに、教育の新しい在り方を作り上げたことは間違いない。一方で、自分は本当は何をやりたいのだろう、と人生に迷走してしまう人が増えたのも事実だ。誰だって、敷かれたレールを歩くことには恐ろしく従順なくせに、新たな道を踏み出すことには躊躇する。

自分が興味を持つ過程というのは、幼いころの環境や物心つくまでの経験が強く影響しているように思う。そして、身近に尊敬できる人がいるかいないかでも大きく変わる。ついこの間までは、リアルでそうした人がいたらベストだったのに、たぶん近い将来子供たちはYoutubeを見て自分のあこがれの人を発掘し、そしてそうした人たちの背中を追いかけているうちに自分がやりたいことを疑似的に見つけることのできる時代が来る気がする。

わたしはそうした時代が来ることを恐れてもいる。やっぱり、リアルできちんと相手の空気を感じるのと、遠く離れた場所で、無味乾燥な空気の状態で何かを学ぶのとではだいぶ格差があるような気がする。とはいえ時代の流れとは残酷で、私が良いと思っているものがもはや時代遅れとなり、遠隔で話をすることがスタンダードになる世界もなんとなく訪れるような気がする。

人はいつだって時代に従順で、スタンダードから外れるのを恐れる。
あるべき姿を追い求めるとは、真実として一体何なのだろう。私たちは目的という言葉に振り回されている気もするし、自分らしさをかみしめるべく奔走して疲れ果ててしまっている人もたくさんいると思う。

教わり、育てられること。
たぶん、生きている限りその終着点はないのではないか。そんなことを最近は考えている。無理なく、ほどほどに。外に発信することも大切だと思うけれど、ゆっくりスローペースで立ち止まることも大切だ。

☆ ☆ ☆

先日、三日月を見た。
不思議と、三日月を見ると心が落ち着いた。
三日月は尖っているのに、なぜこんな風に人のよりどころになるのか。

私も、こんな存在みたいにぼんやり光って人から惹きつけられる存在になりたいと、ほんのり思った。

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