鮭おにぎりと海 #76
<前回のストーリー>
6月下旬、その日は突然訪れて別れをきちんと告げることもなく、母はわたしたちの前からいなくなってしまった。もう一生会うことはないのだ、と実感するたびに胸に込み上げるものがあったものの、なぜか一粒の涙も流れることもなかった。
それからがまた大変だった。その後の流れは父が把握していたものの、親戚に連絡をしたりなど数日間バタバタする日々が続いた。
本当にこのまま、私の人生は続いていくのだろうか。この先に何か劇的な人生が待っているとも思えないし、母がいなくなってからのわたしはどこか胸の奥底がぽっかりと穴が空いてしまった状態だった。
戸田くんにも、母の件は報告した。わたしの母の状況を知っている友人の数少ない一人だったから。たぶん、その時点でわたしにどう声を掛ければ良いかわからなかったのだろう。ただ一言、「大変だったね。」という返信が返ってきたきりだった。
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それから1ヶ月程度半ば放心した状態になっていたのだが、夏休み直前のある日懐かしい人物からLINEで連絡が来ていた。
「おう、元気か?」
ちょうど1年前に海外を放浪するために日本を離れた、同じ学部の先輩である神木蔵之介さんからだった。周りの人たちからは、密かに「神様」と呼ばれているのだが、おそらく本人は知らない。どうやら、最近日本に帰ってきたらしい。
突然きたメッセージに驚きを隠せないながらも、そのうちなんとなくやりとりをしているうちに近いうちに近況報告も兼ねてご飯でも食べようということになった。
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7月末、「神様」と神保町にある「ガヴィアル」というカレー屋さんで落ち合った。久しぶりに会った「神様」は、海外へ行ってしまう時に比べて一回り大きくなったような気がした。
「お久しぶりです。神木さん、以前お会いした時に比べてちょっとがっちりされた感じしますね。」
「おお、そうかもしれないなー。何せ海外では食べてばかりいたからな。毎日歩いてはいたけれど、きちんと運動するという習慣もなかったからな。」
「海外はいかがでしたか?」
「おう、いろんなことがあったよ。楽しいこともあったが、決してそれだけではなくてな。困難と挫折を味わった日も、あったよ。」
「神様」はどこか遠い目をした。
「それで、探し物は見つかりましたか?」
「なんだ、探し物って?そういやそんな歌の歌詞があったっけな?」
おそらく井上陽水の「夢の中へ」のことだろう。なんだか少しクスリと笑ってしまった。
「いえ、だいたい男の人が一人で海外へ旅に出る理由って、"自分探し"をしに行く人が多いのではないかと。勝手なイメージですけど。」
「ん、南海ちゃんは相変わらず言葉のチョイスがうまいね。自分探し、ねえ。見つかったような見つかっていないような。。」
そこで一旦「神様」は言葉を切って、突然どこか神妙な面持ちになった。
「そういえば、なまいき君から聞いたよ。色々、大変だったみたいだな。」
「なまいき君」とは、戸田生粋という名前の、わたしと同年代の男の子のことだ。「神様」と共通の知人でもある。どうやら、母のことについて戸田くんから「神様」に話が伝わったらしい。
「本当は今日、なまいき君のことも誘ったんだけどな。なんか南海ちゃんになんて言葉かけたらいいかわからないって言われて断られちゃったよ。」
「そうですか、、。」
「最近は、どうしてた?」
「そうですね、なんか母が家からいなくなってしまったことで、母の大切さに気付かされました。人が一人いなくなってしまうことで、こんなにも家の雰囲気が変わってしまうなんて思いませんでした。それがずっと当たり前だと思っていたので、今まで気づかなかったんです。」
その時、店員さんがカレーとセットでついてくるじゃがいもを持ってきた。なんだか会話が少し気まずくて、置かれたじゃがいもを早速手にしたものの思いのほか熱くてすぐに皿の上に置いた。
じゃがいもからは、ほんの少し湯気が立ち上っていた。
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