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自分の中に埋め込んだ枷

 小さい頃、人としては生まれたからには皆平等だ、という考え方を徹底的に教え込まれた。それは貧富の差だったり生まれた環境の差だったり、そういう物差しでは人を見てはいけないよ、ということだったと思う。これは民主主義における一つの理念になっている部分だと思う。

 そのため普段私たち日本人の中では、お互いあまり身分の違いについて意識されることがない。江戸時代くらいまでは、士農工商なる厳然とした階級制度があった。基本的にはその階級を飛び越えて結婚することは、周囲からの猛烈な反対があったが、今ではそうした考え方をする人は表面上は時代遅れというふうに捉えられている。

 それでも今なお、他の国をみてみると階級制度というものはいまだに存在する。一番わかりやすいものがインドで、生まれながらにしてカースト制度と呼ばれる階級制度が存在し、基本的には同じ階級の人としか結婚することは許されていない。そしてダリット(壊された民)という名の、不可触民と言われている人たちも存在していることが現実となっている。

 日本においても表面上では意識されることがないが、学歴だったり会社での地位だったり見えない階級の壁というものが存在している。これは民主主義でありながらも、資本主義社会として成立している矛盾のようにも感じる。なんだかとても難しい話だ。

 そんな風に周りから勝手に格差をつけられた人々は、そうした障害を乗り越えるため、あの手この手で乗り切ろうとする。今も昔も格差を乗り越えて結ばれると言う話は、人々から受けいれられやすい。シェークスピアの『ロミオとジュリエット』然り、『花より男子』然り。

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 気がつけば、相手と自分を見比べたときに自分は果たしてどの位置にいるのかを確かめたくなってしまう自分がいて、愕然とする。それは例えば仕事で他の人と比べた時に出世度合いはどれくらいなのか、自分の知識は他の人と比べてどれくらいあるのか、自分がこの世に出した作品が他の人と比べるとどれだけの質となっているのか。

 少なくとも会社に属している限り、必ずそこには比較すべき対象がいる。「昔と比べると今の若者は」、「女性社員に比べて男性社員は」、「他の同期と比べて彼は」… あげれば枚挙にいとまがない。性別間における格差も、年齢の間にある格差も本当はないに等しいはずなのに。

 男性が女性よりも必ずしも優れていることなんてないし、女性が男性よりも必ずしも優れているなんてことはない。歳を重ねているからといって、その人が言うことがいつも正しいとは限らない。だって人間だもの。みんな完璧ではないはず。

 それでも、誰かと比べることでしか自分の存在意義を見出すことができないのは、そうでもしないと自分の存在が霞んでしまうから。誰かより自分は優れているって思いたいじゃない。自分は少なくとも不幸せじゃないって信じたいじゃない。自分よりも、少なくとも不幸せな人がいて、その人と比べると自分はまだまだましな方だと信じたいじゃない。何せ誰も彼もが自分自身に対して、「自分教」という名の宗教を信じたから。そうでもしないと体がバラバラになってしまうから。

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 でもね、本当を言うときっとそんなことはどうでも良い瑣末なことのような気がする。いつか「自分教」のなかに、他の人と比べることなく、自分の中に宿る特別なこだわりを見つけることができたなら、もう周りのことなんてどうでも良くなるんじゃないかな。だってそんな過程を経て見つけた自分自身の形は、最終的には他人の存在でぐらぐら揺れるものではないはずだから。

 何かの折に、他人と比べて自分はどうなのか、と言う論理思考にぶち当たった時には近所のパン屋さんに売っているカレーパンを食べる。程よい辛さが頭を刺激する。いつだって美味しいものは正義だ。それがたとえ高いお金を出して買ったものではなくても。自分だけがその価値を信じていればいい。そうやって、自分の中にだけそっと少しずつ自分なりの正しさを積み上げていく。他の人と比べる必要がないくらいに。

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