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#99 軒先で生と愛について語ること

 今、私は私のことがわからなくなってきている。

 だから、こうして文字を書くことによって、消化しようとしている。

 思えば、#愛について語ることというシリーズを書き始めてから自分が何を愛しているかを再認識するように、様々なことを題材として書くようになった。でも、つらつらと書いていく中で、というより今年はいつもと同じようでいて様々な出来事がありすぎて、何か道筋を失ったようになっている。

 noteでフォローさせていただいている人たちにもおそらくみなさん異なる物語があって、世界一周をしていろんな文化や世界観に触れている人だとか、新しいキャリアの道を模索している人だとか、日常におけるちょっとした変化にも気づくことのできる人だとか。全ての言葉が尊い。尊すぎて、自分の存在がちっぽけになる。あれ、私こんなに自己肯定感が低い人間だったんだっけ? と自分で自分のことが居た堪れなくなる。私が敬愛してやまない作家さんは今や引くて数多の大人気作家となり、連続して本を出していてすっかり雲の上の存在になってしまった。みんないろんな形で、前へと進んでいるのに。

 私自身は仕事で初めて長年夢見ていた海外出張に行けたりだとか、仕事における自分のできる幅が広がって頼りにされたりだとか、友人と旅行に行ったりだとか、少し気になっていた人とすれ違いになってしまったりとか。振り返ると、いつもと同じような年かと思いつついろんなドラマがある。前に進んでいるのだろうか、むしろ後退していないだろうか。

 また、大きな失敗もしてしまった。人の本質は結局変わらないのかもしれない。幾度も、転換点となった時のことを考える。今更ながら、ああすればよかったこうすればよかったと思うのに、その時はもうこれ以外ない! と思って行動してしまった結果、ドツボにハマる。そうして何か神様か悪魔の手引きによって導かれたものは、結局自分が成し遂げたことではないし、それって、全然自分で道を切り開いている感じがしない。

 何度も過去に原点へ立ち返ることによって、何が今、自分がしたいんだろうと考えている。生きがいってなんなのだろうか。前にも、書いた気がする。今の自分の根幹を揺るがすものはなんなのだろうか。正しい人としてのあり方、私が私らしく生きること、誰かをきちんと愛すること。考えが浮かんでは消え、プツプツと弾けている。

 そして今私のベランダで慈しみながら育てていたトマトの苗は、暑さのせいと旅行中に水あげを十分にできなかったせいで枯れていた。そう、形あるものは全て、いずれは死を迎えるのだ。そんな当たり前のことを目の前で目撃し、胸を突くような鈍い痛みが生じている。夜ベッドに入って目を瞑ると、とても、とても悲しくなる。夜カーテンを開けた時に、やんわりと照らす三日月が憎い。

*

 先日カメラを通じて知り合った友人の結婚式があった。彼女は、私が以前作ったカメラサークルでよく同じ班になった子で、なんというか周りの空気を和ませる不思議な空気を纏った女性だった。彼女が結婚するのは嬉しいのだけれど、それと同時に何か心の一端を奪われてしまったような、そんな寂しさを覚えてしまった。おめでたい式のはずなのにね。

 神父様の前で愛を誓い、それから会場を移って彼女たちの思い出ムービーを見て、普段ではあまり食べることのできない豪華な料理を食べて、ついつい酒が進む。そしたら、涙腺が思わず緩んでしまった。その場で泣いたら怪訝に思われそうなのでグッと堪える。彼女と一緒に写真を何度も撮りに行った時のことを思い出した。無邪気に笑って、写真を撮りあった日のことを。

 桜が咲いていた、花火を見て、紅葉を見て、冬には確か群馬にある学校を貸し切って合宿をしたりした。今思えば、あの時間はとてもかけがえのない日々だった。あの時は忙しない日々に気を取られて、これが当たり前ではないという当たり前の事実にも気がつくことができなかった。誰かが欠けてもいけなかったし、こうして少しでも関わりを持った人たちに対して、今は感謝と愛に近い温かい感情が芽生えている。

 コロナのせいで……というのは言い訳に過ぎなくて、私自身の至らなさだとか他の人たちに助けを求めればよかっただとか、今でもいろんな解決方法を思い浮かべるのだけど、ドラえもんのタイムマシンがいつか発明されない限りは、私の人生は過去をやり直すなんてことはできない。先が見えないからこそ人生は楽しいのだし、時には絶望に陥り、それから誰かに救われもする。

 私がこうして文字にして書いていることが、果たしてどれだけ多くの人たちの人生の影響を与えるのかわからないけれど、少なくとも結婚式で見た友人はとても幸せそうで、彼女が去り際に私の作ったサークルに勇気出して入ってよかったです! と言ってくれた時には、なんか私がこれまでしてきた数々の失敗もきっと意味があるものだったのだと、心の支えになったような気がする。式場ではサッとカーテンが開けられ、前には穏やかな海がそよそよと流れている。窓ガラスに遮られているはずなのに、サラサラと波の音が聞こえてきた。

 一通り彼女たちの幸せそうな姿を拝んだ後、最後旦那さんがスピーチする段になり、彼は私の友人に出会ってから、自身にもたくさんの変化がもたらされたと嬉しそうに語った。空の形が綺麗だとか、道端に生えている草花が可愛いだとか、夕方に焼けた茜空が美しいだとか。

 今まで彼女と出会う前だったら、そこまで気にすることのなかったものたち。それは、確かに彼が彼女に対して注ぎ続けた愛の結果、彼自身が自然と知り得たものだったのだと思う。その話がまたとても良くて、結局人が幸せになるためには誰かの存在が必要不可欠であって、それはまたお互いが互いを思いやって愛が生まれて、そして結果として変化がもたらされるのだと改めて感じた。この瞬間、私の中の波がさざめいた。

*

 皆さんは、今何が生きがいですか? 今生きていて楽しいですか?
 まるで自分が厨二病になったような気持ちになってくる。こんな青臭いことはでも、むしろ中学生や高校生の時には考えなかった。目の前の日々を生きることに精一杯で、先が長いと思っていたからこそ、別に深く考えもしなかったし、むしろ考えることは他にいくらでもあったのだ。

 辛い現実に苦しんでいる人がいるかもしれない。私が持っている悩みはむしろ贅沢な部類に入るだろう。果たしてたくさんお金を持っているのが幸せなのか、高い地位につくことが幸せなのか。多分、これまでも同じようなことを何度も述べてきた気がする。私はこうして書いていることが幸せだし、友人や新しく出会う人と話をして新しいことを知ることができるのも幸せだし、結局お金がなくても私と関わってくれる人がいればそれだけで満たされていると思いたいだけなんだ。

 先日ただひたすら、なんの目的もないままにベトナムの地をうろうろして、全身が汗だくになるのも構わないくらいただ無心になって写真を撮り続けて、気がついたら1,000枚以上の写真を撮っている。ここ最近、私の中で消えかけていた写真への熱が、再燃している。今は最悪でも最高でもない。けれど、こうした変化の一つ一つを真摯に捉え、己を見つめ直し、私のことを気にかけてくれる日々が目の前にあれば、この先何があっても、それだけで生きていける、そう自分に言い聞かせている。


故にわたしは真摯に愛を語る

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