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鮭おにぎりと海 #75

<前回のストーリー>

店に入って彼を見つけた瞬間、なぜだかわからないけれどどこか懐かしくて、説明のつかない淡い気持ちを抱いた。

戸田くんと再会したのは、ちょうど桜が花を散らし終わって新緑の葉が芽生え始めた4月末ごろのこと。母が手術をして少し経ったくらいのタイミング。

戸田くんと前回最後にあったのが、おそらく半年前くらいのことだったような気がする。

それから母が倒れて、その間わたしは家のことも含めてやることがたくさんあり、まずは日常を回すことで精一杯だった。会わないようになってから一度だけ戸田生粋くんから連絡が来たものの、返信する余裕がなくてそのままにしてしまっていた。

わたしが通っていた大学はそれなりに規模の大きい大学なので、学部も違うわけだしもしかしたら一生会えないこともあるのかもしれないとぼんやり考えていた。それがどうしたことか、なんの運命の悪戯なのかこうして昔一緒に入った喫茶店で顔を合わせることになるとは。

わたしが神保町にある「ラドリオ」という喫茶店に入った時、戸田くんはオレンジ色の本を手にして熱心に読んでいた。その本は、その昔わたしが戸田くんにお勧めしたミヒャエル・エンデの『モモ』という本だった。

わたしがお店の中に入ると、店員さんがまず「いらっしゃいませ。」と言って近づいてきてくれた。「友人が来ているみたいです。」とわたしは店員さんに話をして、そのまま戸田くんが座っているテーブルの前まで歩いて行った。

足音に気づいた戸田くんがゆっくり顔を上げた。最初目があった時目がふいに大きくなった。ちょっとびっくりしたのかもしれない。

「目の前、座っていいかな?」とわたしがいうと、戸田くんは本を持っていない方の手で、自分が座っている椅子とは反対側の椅子を示して、「どうぞ。」と言ってくれたのだった。

すぐに、わたしが注文したウインナーコーヒーとナポリタンが運ばれてくる。湯気が出ていてとても暖かそうだった。トマトケチャップの甘い匂いがする。

「大変だったみたいだね。」

と戸田くんがわたしに対して労いの言葉をかけてくれた。どうやら親友の楓と校舎内でばったり出くわしてそこらへんの事情は聞いていたらしい。

「そうなの。でも、ごめんなさい、12月に一回LINEくれていたのに。ついつい返すタイミングを失ってしまって、そのままになっちゃった。」

「いや、それは別に気にしなくていいんです。返信がないのにまた連絡するのも気が引けて、その後結局僕自身も連絡しなかったけれど、ずっと心配してました。お母さんの調子はいかがですか?」

「うーん、どうかな。実は先日手術を受けたの。それで症状がよくなったかどうか、わからなくて。」

「そっか。でも大丈夫、きっと葛原さんのお母さんはよくなるよ。」

「うんそうなることを強く願ってるんだけど。そういえば、わたしが前に勧めた『モモ』読んでくれていてびっくりした。」

「実は今読んでいるので2回目なんだ。もともとこの本児童向けの本だからかそれほど分量も多くなくて読みやすいし。その割に内容は大人でも考えさせられる内容になっているよね。」

「うん、そうなの。わたしもすごくお気に入りの本の一つなの。なんか、戸田くんが気に入ってくれて嬉しいな。」

その後、しばらく『モモ』に関するお互いの感想を言い合った。同じ本の話を共有できて、なんだか心に少し火が灯ったような気持ちになった。同じことで盛り上がれる関係に、昔から少し憧れていた。そのまま、戸田くんが今ハマっているという写真の趣味の話になった。

最近大学に来て、授業の合間を見つけてはふらふらと街を歩いて気になったものを撮る、という日々を送っているらしい。

「わたしも、いつか撮って欲しいな。」

そんな言葉がするりと自然に出た。その瞬間、少し戸田くんの頬が赤く染まったのは見間違いではない気がする。

「え、嬉しいけど、普段どちらかというと風景の方が多いからなあ。もう少し写真の腕が上がって、葛原さんの魅力を引き出せるようになったらいつか。」

結局その日は、お互い次の授業もあったので、だいたい1時間程度話をして別れた。その日以来、また戸田くんとのLINEでのやりとりがじわじわと増えて行ったのだった。

気がつけば6月の初め、梅雨の時期に差し迫っていた。母の容態は決して芳しくなく、日に日に衰弱していく姿を否が応にも認めざるを得ない状況になっていた。

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