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鮭おにぎりと海 #80 <了>

<前回のストーリー>

漣の音が耳に心地よい。もう夏真っ盛りという時期ではあるものの、風は軽やかでしっとりと肌に触れた。

ちょうど夏休みに突入してすぐのタイミング、わたしは大学の同級生である戸田くんと連れ立って神奈川県の真鶴町という場所へ赴いた。横浜からはだいたい1時間程度電車に乗るとたどり着く。真鶴町は、母の生まれ故郷だった。

戸田くんが写真を撮ることが趣味だということを聞いて、どうしても母が生まれた町で撮って欲しかった。そして撮影場所として決めたのは、真鶴町で夕日が綺麗に見えるところとして有名な真鶴岬。到着した時はちょうど夕方のタイミングで、わたしたち以外誰もいなかった。

「初めて来たけど、本当に坂が多くて来るのも一苦労だ。」

真鶴町は本当に至るところ坂ばかりで、岬へ向かうのにも一苦労だった。見ると、戸田くんはダラダラと汗をかいている。どうやらひょろひょろとした見た目にも関わらず、結構な汗っかきらしい。

「撮影に入る前に、少し腹ごしらえしようか。」

戸田くんがわたしに手渡してくれたのは、駅からほど近いコンビニで買ったおにぎり。わたしが選んだのは、自分の好物である鮭おにぎりだ。

「お母さんが作ってくれるおにぎりはね、いつも決まって梅と昆布とそれから鮭。なかなか渋いチョイスでしょ?」

「そうかな?おにぎりの中ではど定番中のど定番のような気がするけど。」

「そうかもしれないね。」

「うん。」

「それで運動会になると、それぞれ4個ずつ作ってくるんだけど、最後いつも妹と鮭おにぎりをどちらが食べるかで揉めるの。妹も鮭おにぎりが好きだったから。その度にお母さんがあなたはお姉さんだからといって、いつも我慢させられて。だから今でもその反動で鮭おにぎりを見ると、ついついいつも手を伸ばしちゃうのよね。」

「僕も好きだよ、鮭おにぎり。シンプルな味だけど、飽きが来ない。」

その後、しばらくなんとなく話の接ぎ穂が見つからず、戸田くんとの会話が止まった。おにぎりを食べているときの、海苔のパリパリとした音がやけに浮いて聞こえた。

「そういえばね、今年の冬くらいに不思議なおじいさんと出会ったんだ。ヤナセさんというんだけどね。写真屋を営んでいるおじいさん。どうやら波乱万丈の人生を生きてきたらしくて、その時の話でなんか思ったことがあってさ。」

「うん。」

「道具は持ち手の考え次第で良くも悪くもなる。当たり前のことだと思うけど、普段なかなか意識することってないよね。なんでも、裏と表がある。」

「うん。」

「僕自身、道具を正しく使える人でありたいと思ってる。その人は、カメラは人の生きる姿をそのまま写しとることができる、と言っていた。その事実をきちんと認識しておかないと、使い方を誤るって。」

「うん。」

「そのことを踏まえた上で、きちんと撮影したいんだ。葛原さんのこと。」

「どういうこと?」

「うまく口で表現できないような気がするんだけど、葛原さんの今胸の中にある感情だとか空気だとかそうしたものを撮影できたらと思ってる。」

戸田くんの言葉はひどく抽象的だったけれど、なんとなく彼が言わんとしていることがわかるような気がした。

「ありがとう。」

「それと、戸田くんにもう一つお願いがあるの。」

「何?」

「今回だけじゃなくて、定期的に撮ってほしくて。将来の自分が、昔の自分と比べてどう変わったかも知りたいし。」

「うん、わかった。」

戸田くんが、わたしの真意をきちんと理解しているかどうかわからなかった。たぶん乙女心に疎い戸田くんは、よくわかっていないに違いない。

母がいなくなってからずっと考えていた。これからの自分の歩む道の先に関して。考えても考えても残念ながら答えは出なかったのだけれど、その時にふとこんな時に戸田くんがいてくれたらな、と思った。何も言わなくていいから、ただそばにいてじっと話を聞いてほしい。

軽やかな風の音と漣の音に混じって、戸田くんがカメラのシャッターを押す音が聞こえてくる。彼の顔は、今までに見たことのない真剣な表情だった。

わたしの耳には、母からもらった星型のピアスが揺れていた。

<了>

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