ビロードの掟 第20夜
【中編小説】
このお話は、全部で43話ある中の二十一番目の物語です。
◆前回の物語
第四章 在りし日の思い出(5)
「ねえ、リンくん。私ね、いつもこれ作ると渋谷のあの雑踏を思い出して少し切ない気持ちになるの」
優里がフライパンの上で炒めていたのは、スクランブルエッグだった。今思い出してみても、奈津美と比べると優里は決して料理が上手とはいえなかった。料理本を見ながら作っているにも関わらず、調味料の量を間違えてしょっぱくなったり甘くなったり苦くなったりする。まるでコロコロと変わる天気のようだった。
優里とはだいたい学生時代から合わせると3年ほど付き合った。その中で彼女は凛太郎の家に泊まりにくる度、いつもやる気に満ち溢れた様子で手料理を振る舞ってくれたのだった。
凛太郎自身も正直そこまで舌が肥えているわけではなかったので、味には頓着しなかった。時々流石に味がおかしいなと思った時には、それとなく意見を述べる。
その時優里は別に悲しそうな顔をするでもなく、「あら、ごめん。やっぱりダメだったか。ちょっとミスっちゃったのよね」と悪戯を叱られた子供のように笑った。
それにしても渋谷の雑踏とスクランブルエッグがどう繋がるのだろうか。少し考えてみたのだがうまく話が交差しない。
「え、どういう意味?」
優里は時々説明もなく言葉が飛ぶので、いちいち確認しないとその真意を測ることができない。なにせ、彼女の思考回路は少し人よりも複雑なところがあるのだ。優里としては、ずっと一緒にいるんだから自分の真意を汲み取って欲しかったようだが。
「スクランブルエッグとスクランブル交差点。どっちも同じ『scramble』を使ってるじゃない。どちらもごちゃ混ぜっていう意味」
「ああ、なるほど。よく考えてみたらそうだね。ちなみにそれと『切ない気持ち』っていうのはどうつながってるの?」
再び凛太郎が質問を重ねると、優里の眉間に少し皺が寄った。
「リンくんって時々なんか細かいところにこだわるよね。いいじゃない私は自分の中にある言葉を吐き出しただけなんだから、そんなつながりを考えようとしなくても」
しまった、これはあまり深く突っ込んではいけないものだったのかと凛太郎は反省した。確かに自分にはどうもわからないことがあるとそれを突き詰めて考えようとしてしまうところがある。彼女は自分の中にある考えをなんとか言葉にできないかどうか思考を巡らせているようだった。
「なんていうかな、こないだリンくんと一緒に渋谷行ったじゃない?相変わらずあの街はたくさんの人で溢れていて、どこからかドブのような匂いがしてさ。なんであんな街にたくさんの人が集まってくるのかわからない。──でね、あの人の群れの中にいると時々自分の中にある方位磁石が壊れてしまうのよね」
「──方位磁石」凛太郎は口の中でその語句を発して、再び優里が言わんとしていることを理解しようとした。だがそれはなかなかに高いハードルだった。
「たくさんの人の中にいると、自分はこの中のその他大勢の一人なんだってことを認識しちゃってさ。たぶんこの世界から今私が消えたとしても、当たり前のようにスクランブル交差点を歩く人たちは足を止めることもなく、自分の正面向かいの場所へと歩いていく」
その瞬間、優里はどこか寂しげな表情をした。この子はきっと自分の存在意義みたいなものはどこにあるのかということを気にしているのだろうか。
「まあ、そうだね。でも優里に限らずみんなそうだろうね。俺だって時々思っちゃうよ。なんで自分は今この瞬間この場所にいるんだろう──とかね。上司に怒られてる時とかも、もうその場から消えたくなるもん」
最後は冗談まじりの口調で口にした。優里は「そうかもしれないね」とぽつりとつぶやき、自分が作ったスクランブルエッグを口に入れる。
「うわ、なんかこれ、ものすごくしょっぱい」
この世で一番最悪なものを見たみたいな顔を優里はした。どうやら砂糖と塩を間違えて入れてしまったらしい。
<第21夜へ続く>
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