鮭おにぎりと海 #1
ふと、空を眺めてみた。
まごうことなくどこも欠けていない、完璧な月が中空に鎮座していた。そしてその満ち足りた月は煌々と地上を照らしていた。わたしの足元を、優しく見定めるかのように。家に帰るまでの道標として、もしかしたら今日だけではなくて明日以降も、遠い先を示してくれているような気がした。
そうだった、今日は中秋の名月。
わたしはこの、夏から秋に差し掛かる季節が一番好きだ。4つの季節の中で何が好きか、と誰かに聞かれたら間違いなく夏から秋へと変わる狭間、と答える。友達からは「何、そのひねくれた答え!」と言われても気にしない。「そもそも狭間なんて言葉、今時の女性は使いませんよ。」とたしなめられても気にしない。誰が何と言おうと、この季節の変わり目に漂う、何ともいえない懐かしさに満ちた風が好きだったのだ。
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大学に入ってから、既に半年経っていた。
思い出すと、入学当初はサークル活動の猛烈なアタックにもみくちゃにされながらも、新しく始まる生活に胸膨らませて、ハラリと落ちる桜に心躍らされたものだった。
そのころ親しくなった友人と何となく一緒に行った、「みかづき」というバトミントンサークル。高校まで部活でバトミントンをやっていたこともあって、その場の流れで入会することになった。
そして学校のオリエンテーションを受けてからようやくのろのろと授業が始まり、なんとなく大学のシステムになじみ始めた頃。気が付けば周りの人たちは、持て余した時間の使い道をアルバイトに注ぎ込むようになっていた。それを見て、わたしも慌てて求人を募集していたスーパーの販売員のアルバイトに応募した。
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ああ、わたしって結構人に流されやすい性格をしているな、と思いながらも人手不足に悩んでいたスーパーでのアルバイトはあっさり採用が決まり、いざ働き始めてみるとこの環境も思いの外悪くないのではないかと思うくらい働くのが楽しくなっていた。年代が近い人たちが働いていたこともあるのかもしれない。
朝、生鮮食品を並べて開店する時間まで納品チェックを行い、棚に在庫が足りなくなってきているものがあったら開店前に補充する。開店してからは、レジに立ってお会計をする人たちの精算を行う。
レジに並ぶ人の姿は十人十色で、子供の手を引っ張って並ぶお母さんや、惣菜・カップラーメンをとにかく買い込む同じくらいの年頃の男の子、身なりがすごく綺麗な女の人なのにカゴを見るとビール6缶パックを入れている人とか。人間観察が割と好きな方だったので、そうした人々の生活感を目にすると、どこか微笑ましい気持ちになる。
そして今日も、10時までのシフト勤務を終えて、自分の家路へと向かっている。わたしの右手にあるのは、鮭おにぎり。スーパーで売れ残った当日消費期限のおにぎりは、従業員たちの中で欲しい人がいたら持って帰っていいルールになっていた。
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おにぎりの種類の中には様々なものがあるが、その中でも鮭おにぎりはツナマヨシーチキンに次いで買い物客の人気商品となっていた。普段は売れ残ることが珍しいので、今日手にできたことは何となく嬉しい気分になった。わたし自身、鮭おにぎりがおにぎりの中で一番好きだったのだ。ミーハーと言われるかもしれないが。
右手に持った鮭おにぎりは食べる前にずっと持って歩いてきたから少し生温かった。フィルムを剥がすとなかなか男前な海苔が現れる。一口噛んでみると、きちんとパリパリと音がする。最近の海苔巻きシステムはすごいなあと感嘆しながら、藤沢駅から徒歩10分程度にある自分の家への道をのんびりと歩く。周囲は、住宅地が多いので思いのほか明るい。
さわさわと吹く風が気持ちよくて、目をつぶって風の音を感じてみた。
そういえば鮭おにぎりと一緒にもらってきた月見団子、どうしようか。残念ながら私の家は、ほかの一般的な家庭の習慣とは違って十五夜にお団子を食べる習慣がない。そして、ススキを飾る習慣もない。何故か、海老フライを食べるのである。思春期の頃は、周囲とは異なるその習慣が嫌で嫌でたまらなかったのだけれど、最近は「個性」だと前向きにとらえるようになった。
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玄関を開くと真っ先に飛び込んできたのは、揚げ物の香ばしいにおい。さて、時間が時間だから食べるのに迷うところだな。でも、どうしようもなくこの香りはわたしの食欲をそそるのだ。
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