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“何者”でもない人の文章に需要がある──何者にもなれない時代。

最近思うのは、

「 “何者”でもない人の表現に需要がある」

ということ。

いや、これは私個人が勝手に思っていることなのですが、

例えばnoteにおいて、“何者”でもない普通の人の、素朴な文章に惹かれる。

最近、そういうことが多い。



■ そもそも“何者”とは何か?


一昔前、“何者”という言葉が流行った。
(それをタイトルにした小説もあったくらい)

『“何者”かになりたい』

多くの若者が、そう思っていた。

『“何者”かになりたい』

言い換えれば、“何者”でもない私を受け入れられない。
それは焦燥感にも似ていた。

そもそも“何者”とは何か?

ネットで調べてみても、いまいち、明確な定義は出てこなかった。

しかし、そんなに難しく考える必要もなさそうで、
いってみれば、人には無い“肩書”がある、“特別な人”ということ。

『人には無い“肩書”が欲しくて、“特別な人”でありたい』という気持ち、
それが『“何者”かになりたい』ということであろう。

人にはない専門性がほしい。

例えば、オタクになりたい。
いや、オタクほど専門屋になれなくても、せめて“推し”を持ちたい。

など、とにかく、『“何者”かになりたい』わたしたち。

■ “何者”にもなれない、第2フェーズ


しかし、この“何者”というワードは、一時期、流行ったが、今ではあまり聞かなくなった。

それは世間やネット上において、
『結局、人は“何者”にもなれないのだ』
という第2フェーズに入ったからだろう。

いや、もちろん世の中には“特別な人”はいる。
人には無いスキルをもった、“肩書”のある人たちはいる。

しかし、そんなもの、一部であるし、
その一部の人は、「“何者”かになりたくてなった」というより、「結果的にそうなった」というパターン――「“何者”にもなれない自分が嫌で、焦って肩書を求める人」とは異なる。
“何者”かになることを目的として、“何者”を目指したわけではない、
眼の前のことを継続した結果、“何者”かになっていた。
なので、そのような一部の人は、『自分は“何者”かである』という自意識をもって生活してはいないだろう、おそらく。

『結局、人は“何者”にもなれないのだ』

なぜそのような考えに至ったかといえば、

第1フェーズ、多くの人が“何者”かになりたくて、もがいた、あがいた。

しかし、結局、多くの人は“何者”にもなれなかった。 

インドに一人旅に行っても、“何者”にもなれない。
個性的なアーティストを目指しても、個性的なアーティストはすでにたくさんいる。

“何者”を探し追い求めた。
が、探しても探しても、それはどこにもなかった。

そもそも、同じ人間などいないのだから、すべての人間が“特別な人”である。となれば、やはり“特別な人”はいない、ということにもなる。

――と、このように、あらゆる角度、意見があって、
『人は“何者”にもなれないのだ』という一つの方向、第2フェーズに至る。

■ “何者”でもない人の文章


話を最初に戻す。

「“何者”でもない人の文章に惹かれる」

ゴテゴテの“肩書”のある人が書いた文章は、正直、あまりそそられない。
文章よりも先に、“肩書”が前に出てしまっているように感じる。

また、“専門家”の文章も、ネット上においては、あまり読む気が起きない。「専門家の文章は、本で読むから別にいいよ」というスタンスに落ち着く。

このような人は多いのではないか?

他方、肩書のない、特別な人でない、
“何者”でもない人の文章は、「文章が前に出る」。
これは当然である。
肩書もない、特別な人間でもないのだから。「文章しか無い」のである。

だから好きだ。
“文章のみ”で、雑味がない。
これを私は“素朴な文章”と呼びたい。

「“何者”でもない人の文章なんて、そこらへんに落ちている」と言うかもしれない。そんなものに価値はない、と。

しかし、私はそうは思わない。

「 “何者”でもない人の表現に需要がある」と思っている。
なぜなら、多くの人が“何者”でもないから。

少し前、“何者”かになりたい、という人が多かった時代なら、
一般の、普通の人の文章に需要などなかったであろう。
確かに、そんなものに価値はなかった。

しかし、先ほども書いたが、今は違う。

多くの人は、“何者”でもないのだ。
そして、多くの人は、それを理解して生活している。

だから、肩書や専門性を押し出しているような、
無理して“何者感”を出してしているような文章よりも、
肩書のない、特別な人でない、“何者”でもない人の文章のほうが、私には近く感じられる。――よってここに、需要が生まれる。

“何者”でもない人の文章は、肩書よりも先に、文章が前に出る。
それは「雑味のない、“素朴な文章”」である。
“何者”でもない我々は、そんな文章に惹かれる。

***

個人的な価値観ですが、
「参考書を読んで学びたい」わけではない。
人間の書いた、素朴な文章を読みたい。

最近そう思うことが多くなった。

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