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闇 の 自 己 啓 発 , 光 の 自 己 啓 発 『闇の自己啓発』/江永泉 他

※長くなってしまいました…。

私が過ごした過去になかった言葉を、現在多く耳にする。全く理解できない異質なものもあれば、理解できないような不思議な言葉もある。その言葉は果たして、真に新しくできた言葉なのか、それとも、人の深層心理よりも深い、可視化できない何かを通奏低音として、もともと存在していたとある「概念」なのか、それを判断することはほぼ無理なのかもしれない。

近年は、とある事象たちは分かりやすい二項対立に陥いることで、そのどちらかがファクトであると信仰する個人、群が多発する。そして、その信仰心はSNSによって流布され、拡張されていく。そうなってしまえば、その事象のボトムエンドは限りなく不可視化され、ある意味それは、神化(リアリティがないという意味)とも言えるかもしれない。

だからこそ、私たち目の前にある「言葉」という、そもそも言葉はただ単に言葉でしかないものに、「わかる」と反応しがちである。その「わかる」とは、反射的に「わかる」ことかもしれないし、言葉としてただ単に「わかる」ということかもしれない。注目したいのは、「わかる」が「わかりみ」と、安易に、ある意味陽気な態度で共有されてしまっている点である。

様々なことが人類の知として共有し得るような、この「陽気な(に見える)社会」は、実は誰もが感じているように、消化不良感や不完全燃焼感を伴っていると思う。それは、様々な事象についての(安易な)二項対立において、その真偽を確かめることなく(または確かめるには情報がカオスすぎて、また情報がいろんな人種に媒介しすぎて意味不明になりすぎている)、陽気に「わかる」「わかりみ」と、自分の内部へ、アイデンティティへ取り込むことによって、それが指し示す人生の指針と化してしまっているからではないか。

そして、その指針を信頼しすぎていることが、今に対する消化不良感、不完全燃焼感を新たに生み出してしまうのではないか。下記の一文を読んでそう思った。

(略)「闇の自己啓発」とはそのような営みに他ならない。それがもっぱら”闇”とよばれるのは、ただの既知を「わかる」と呼び、「わかりみ」を明るさで語る習慣からでしかない。”ここ”からの距離が遠くなればなるほど、言い換えれば不可知の圏域に私たちが近づけば近づくほど、光の速度が及ぼす支配力は弱まり、逆に闇はその本来の力能を増していくことになるだろう。

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「闇の自己啓発」で印象的だった3つの話題

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「()天気の子」について

本著では「天気の子」に関した考察なども雑談形式にまとめられている。私が実際に「天気の子」を見たときに、その残酷なエンドに驚いたし、疑問に思ったし、興奮したりもした。鑑賞後は私なりに考察して、腑に落ちたタイミングがあった。それは「天気の子」というタイトルの前に括弧を配置するような、可視化できない言葉を付け加えること、である。

「()天気の子」という具合。その括弧内にはどんな言葉も当てはめることができる。今回新海誠さんが原作のこの作品について考えてみると、その括弧内には「(僕の)天気の子」となるのでは、と私なりに思案した。

勿論、「僕の天気の子」というのは、帆高と陽菜の相互的な関係における、「僕の」という意味であり、その僕という主語の対象は入れ替わってもいいと思っている。延々と降る雨は、最終的に2人が選び取ったセカイの終わりであり、始まりであり、どちらにしろ2人を象徴する天気である。

「光の自己啓発」を採用してそのエンドを見れば、それは修正したい世界に映るかもしれない。そして、その修正の方法を試行錯誤して、大衆迎合する内容に帰結する。数多ある選択の内の1つである。けれども、私は「闇の自己啓発」的な側面で、括弧内の言葉を考えたのかもしれない。それはある意味、2人で完結した世界が、「なんて美しくて羨ましいんだ!」といった、羨ましさもあったのかもしれない。他者の、自分の外部に存在している、いろいろなアイデンティティをハッキリと無視して、「私たちは私たちだ!」と主張するかの様。それは他者を排斥することになりうるという点で、「闇」側の啓発であると思う。

現在世界は「人新生」と呼ばれるフェーズに入っている、と昨今説かれている。「人新生」とは、人が地球を破壊しつくようフェーズのこと。天気を操れた陽菜はもはや人ではなく神とも言え、他者を破壊しつくような「神新生」の物語が始まるのだ、とも取れる…。

過去のうざい系譜を断ち切る⇒ 天と地を分断する雨天を恒常的にする。

この図式は、祖先霊の世界からの徹底的な切断と分離、過去の多様な「負債」の際限なき再生産からの切断であると読める。(本著138P)

目に見えるしがらみ、類縁でのトラブルにおける面倒臭さ、社会規範を遵守することへのロボット化、このキリのないくそみたいな世界に、終止符を打つ。僕たちはそういった系譜に「責任」をもたない。なぜなら、この世に生まれたいと思ってそれを選択したわけでもないから。天に居る祖先たち、さようなら、まぁ、ありがとう。そして、僕たち(帆高と陽菜)は大人になっていく。「大丈夫、大丈夫」とお互いに言い聞かせながら。そして、天気を操る子の陽菜は、僕の天気の子となる。このとき、雨は、極めて愉快で、幸せな情景となる…。

あなたなら、「天気の子」の前の括弧にどんな言葉をおくだろうか。

ギグエコノミーの問題点

 人格は長期的な予期から生まれるという話に基づけば、それこそギグエコノミーに従事していると、人格形成が薄まってしまうのではないか?

「人格は予期から生まれる」という指摘がある。そのスパンはより、長期的な予期であると、人格の形成に一役買うという。ベーシックインカムなどは短期的な予期を想起しうる材料となるが、「次はこの日に金が振り込まれる」といった効率的な提供は、長期的な予期を必要とせず、自立も人格もほぼ不要である。現在における統治功利主義な状況を鑑みたら、すでに人格は不要な世情かもしれない。

 ギグエコノミーは手段に従うことが求められるので、人格や人柄は問題がない。そして、人格をそれ自体は分割できないものであり、人格同士の大小や上下を比較することは出来ない。

ウーバーイーツの配達員の交通違反には、目に余る所がある。それはやはり、ウーバーの配達員には「配達」というシンプルな仕事のみに従事しているからであり、そこには短期的な予期や達成感しかないため、人格やホスピタリティに欠くような人員が引き寄せられがちであるのだとも、考えられる。

AIなどの知能に代替され、人間が「短期的な予期」しか必要としないような職に集約されれば、そこには人格も人柄も衰退する。そうすると、人間側とAI(ロボット)側の逆転が起こってしまうかもしれない。

クィア理論の流れ

クィア理論とは、セクシャルマイノリティの思想や文化、歴史を研究対象とする分野で使用される理論のこと。「クィア研究」の枠組み全般を総称したのが「クィア理論」である。

クィア理論は、セクシャルマイノリティの連帯を目指すために生まれた節があり、人々の連帯や分断を可視化し、それを変更可能にしていくために、アイデンティティやポジションの差異に着目して、文化事象や社会現象を解釈する傾向がある。

本著のこの理論の歴史を読むと、本当に複雑で、めまいがしそうでしたが、今後のために以下にまとめてみます。

 80年代ごろ、男女二元論的な性差自体を抑圧的な枠組みとして批判し始める。(モニックウィディック)

 女性は何者か?ではなく、「女性として振舞うことでどのような規範への抵抗が生ずるか」という観点を打ち出しなおした。(ジュディスバトラー)

 男性間での友情と性愛と分断に着目。異性愛者男性間の結束を維持するために、女性や同性愛の、各々への抑圧や排除が、連関した仕方で作動する構図を示した。(イヴセジヴィック)

 次第に「アンチソーシャル性(反社会性)」に注目が集まる。《ホモセクシュアルはいい市民であるべきか?(ベルサーニ著)》、《望ましい未来のためという名目での、挙国一致的な共同の圧に対するノーを体現するのがクィアさの核心。(エーデルマン)》の、2者のアンチソーシャル性理論が出てくる。

この2つの考えは、様々なアイデンティティの、反抑圧行動や反マジョリティに向けた連携の姿勢を危うくするように映る立場である。なぜかといえば、アイデンティティの差異込みで共同作業を試みる点がおろそかに映るから、という。例を言えば、フェミニズム運動やゲイ解放運動などの分断の構造がある。《男女は分かり合えない》という通俗的風説が、マジョリティに対して結託して抑圧や排除を批判する連帯を、困難にしてしまうのではないか、ということ。

 上記の2つの考えを批判的に検討した「クィア研究におけるアンチソーシャル的転回」を発表。(ジャックハルバースタム)しかし、アンチソーシャル全否定というわけではない。

様々な方法でマイナーな立場や集団の分断を超えた連帯意識と、メジャーな立場や集団による取り込みや切り崩しの志向、この両者が混濁して映ることへの問題意識として、アンチソーシャルな立場が再注目。良くも悪くも、「アンチソーシャル的転回」が起こった、という。

LGBTQのQ(クィア、クエスチョニング)には、様々な思想や理論が存在しかなり複雑であるが、押さえておきたいポイントは、それは全て異性愛を前提とした規範である、という点から見える景色である。

生産性がないと言われる様々なマイノリティーについて、その「生産性」という観点をもつのは右派も左派も関係ない、無意識的な批判的思想が存在している。そのような、マジョリティーが志向する、同性婚やパートナーシップ制度とはいわば、マジョリティーへの取り込みに過ぎない。取り込まれた瞬間、マイノリティは自分で自身の「生産性のなさ」を、逆説的に証明することにもなる。

《生き残りの戦略》をあえて放棄することで、マイノリティという外部にとどまり、反社会的に死の欲動側にかけることで連帯を強固にすること。社会通念的な規範にそむくことで、甘い餌に引き寄せられ、「再生産」の定義に収まることを拒否する。

もしかしたら、脱連帯化することでの小規模な連帯を維持することって、今の時代にはほとんどないんじゃないかな、とも思えます。とても大切な集合体だと思うんですけどね。

闇と光

《人間》を超越せよ

日々思うのは、奇跡的に組みあがったDNAという分子構造のパズルが元となった人間って、奇跡であるとも思うのですが、つまるところDNAは元素の集まりでしかないし、結局人間って「元素」なんだな、と意識することって、いろいろな救いを生むんじゃないかなってことです。

インプットやアウトプットも、所詮体内で無機的に処理される、信号のようなものであるし、たまたま物凄い宇宙の確率で運よく存在できただけなんだなって思っていれば、身に降りかかる色々なことに対して柔軟に対処できるようになると思います。それは「諦め」ではないとも思います。

そのように順応するには、やっぱり知恵や知能がないとできないことでもあるし、いろいろな「闇」を知ることであるのではと感じています。

いま目の前にある、誰に与えられているのか分からない「光」的な情報や報酬を、そのまま受け取らず、「闇」に忍び込んでそれを考察し、再定義すること。それが「闇の自己啓発」であると私は理解しましたし、逆説的に、もっと情報を得ることで吟味する時間も必要なのだと、反省しています。

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