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卑怯な〈差別の論理〉

「人は、他者との落差の中に自分を見つける。」

自分の位置を把握しつつ、他者との距離感や高低差を確認する作業の中に自分がいるのだと、日々感じる。

けれども、どこまで考えても「自分が今いったいどこにいるのだろうか」という問いには明確に答えられない。

自分は、「じぶんじしん」が分からずにいる。なぜ、分からないのか。もしくは、何が分からないのか。

自己を見つけることの第一歩として、〈自己を規定する〉作業が必要なのかもしれない。

自己が他者に距離感や高低差を見出すためには、自分は動いてはならない。自分自身はある〈規定性〉の中で、他者を目視しながら自己を見出すために、静止していなければならないのだ。


規定:物事の仕方や手続き、また概念などを、それに基づいて行為や議論ができるように、はっきり定めること。またその定め。


自己を「はっきりと定める」ことが、いわば自己の探求に繋がりうる。

自分自身が「いったい誰なのか」、そして「どうありたい」のか、「どうあるべき」なのか、を明瞭にしてくれるのが、この〈規定性のある自己〉である。


けれども、私はその〈規定性〉を明確に否定したいと思います。


ある〈規定性〉に従った、〈自己〉と〈他者〉との落差は、無限に存在しうる〈主観集合〉のほんの一部分に過ぎないからである。

まず、〈自己〉と〈他者A〉が、〈他者B〉を主観でもって落差を確認する際に、その距離感や高低差は同一にはなり得ない。なぜならば、〈自己〉と〈他者A〉は別人格であり、別の環境下で培われた〈規定〉があるためである。

〈自己〉-〈他者B〉と、〈他者A〉-〈他者B〉の関係性は決して合同にも相似にもなりえない。

この〈自己〉-〈他者B〉と〈他者A〉-〈他者B〉の2つの相互関係性には同一性は皆無のために、逆にお互いにその関係性を認知されやすくなる。同一性が担保されているのであれば、それは相互に不可視化の材料になりうる。そして、不可視化された同一性は、無意識の主観集合として機能していく。

この2つの相互関係性が《非-同一的な関係》を成し、逆に認知させやすい構造があるとすれば、それは〈他者B〉の観点から、明瞭に「差別構造」を生みだされていると言わざるを得ないのではないだろうか。

〈自己〉〈他者A〉〈他者B〉という3者構造で説明をしているが、これは、〈自己〉〈他者A〉の2者と、〈他者B〉の1者による、〈非対称性〉が見えてくる。

ある〈他者〉に対して、〈自己〉〈他者1〉〈他者2〉〈他者3〉…〈他者n〉が総出で、しかも各々異なる〈規定性〉を携えながら〈他者〉に関してとある判断を下し、自己を見出しているという状況は、〈他者〉にとって〈非対称性〉を否応なく課せられている状況であり、かつそれに基づいた「差別構造」があるのだ。

さらに言えば、この〈非対称性〉をもって、「有徴」の烙印を押された少数の〈他者〉は、「無徴」に存在する〈他者〉と区別されることに繋がりうることも考えられる。

多数が正義であり、少数が非-正義である、と。

このような傾向は、徐々にではなく、急速に固定性のある〈非対称性〉として万人に知れ渡ることになる。なぜならば、この非対称性は極端に片方に偏重しうる性質があるからだ。

さらに、大多数の「無徴」によって、これらの〈非対称性〉は、無限に存在する〈規定性〉によって、逆説的に「短絡的なもの」へと集約されていく。

無数の〈規定性〉は同一では無いからこそ、相互に認知し合い、集合する。判断される「有徴」な少数者に対し、無数の煩雑な〈規定〉があるとすれば、まず、最小限の「言葉」を新たに与えようとする。

その「言葉」が集約する場所というは、もともとの実存としての意味も、そして言葉そのものとしての意味もまったく相違なるものへと変貌を遂げつつ集合し、さらなる〈非対称性〉が加速する。

それは、「女」であり、「障害者」であり、「セクシュアルマイノリティ」であるのかもしれない。大多数にとって、少数の特徴の認識は、このように最小で良いのだ。

これらに区別され、「差別」される者というのは、「人」でしかない。

「女」と「男」。これは、「女がいれば、男もいる」ことでしかないし、「女でなければ、男である」という命題でしかない。この命題は、真でしかなく、無意味な命題である。

「女であるなら、女である」というように、「それはそうだ」としか回答し得ないような不毛の命題である。「人」という集合に存在している、片方と、もう片方の人という関係性の中には、まったく何もないのだ。何もないのだから、そこに差があるはずがない。女は女であり、女でないならば男であり、男であれば男である。ゲイならばゲイだし、ゲイでないならばゲイ以外であるし、レズビアンならレズビアンであるだけだ。これらの命題は全てその通り、真にしかならない。なぜなら、命題の前件と後件の関係の内には、介在するものは何もないからだ。

全ての両者は、同一である。

もともと同一に存在する実存であり、さらにいえば人という哺乳類内で分類されうる言葉としての身体でしかないのだ。

ならば、なぜそこに「差」を見出そうとするのか。


それは先ほども述べた通り、「差」の見つめることで、自己の中に〈規定性〉のある何かを見出すことに繋がる。そして、「自分とは何なのか」という問いに対して、一定の回答を得ようとするために、「他者」を利用しているのだ。


差をつけて〈自己〉と分け隔てることが、そのまま「差別的構造」を構築していることに繋がる。

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そして、同一である存在を「差」のある存在として自己了承する時、その「差」は2つの形式をとって存在するのではないだろうか。

①〈他者〉から見て下位に存在する〈自己〉
②〈他者〉から見て上位に存在する〈自己〉

①の形式を「良し」として見ることもできるだろう。しかし、下位である自己を〈規定〉する性質を良いものであるとして無視することはできない。執拗に固着した〈規定性〉なのであれば、ある〈他者〉の中に「差」を見出すことで明確に区別することに繋がりうるため、「良し」とはなり得ない。

会社での関係性の連なりを例にしてみると、社内での社員間の関係性、そして他社との関係性とは連続した関係性に見えるが、そこには各々が所属する会社という〈規定性〉のある「共同体」に依拠するような、競合他社を出し抜こうとするために肝腎の「差」が存在する。社内での〈自己〉が、会社共同体に共存する〈他者〉の中に「差」を見出し、〈自己〉が謙り下位に評価を下すことは謙虚な試みに見えるかもしれないが、それはいわば社会全体における当会社の〈規定性〉の強化につながる。社内というミクロレベルで観察すればそれは「良し」という印象を与えるかもしれない。しかし、それはただ単に〈規定性〉を絶対なものに押し上げるとともに、法人同士において不毛な競争原理や差別構造を生むだけに過ぎない。(②については省きます。)会社内で醸成された〈規定性〉、ここでは当会社「以外」という〈排他性〉をも生み出してしまうかもしれない。

〈自己〉は〈他者〉と「差」でもって区別しようと試みるが、〈自己〉が〈自己〉自体を棚卸することはほとんどない。むしろ、それは不可能のように思える。それが可能なのであれば、もとよりこのような〈規定性〉は必要なく、「自己」について十分把握しているということになるのであるから。

この〈規定性〉というのは、ある種の〈欲望〉と読み替えられるのかもしれない。人の〈欲望〉は収斂しない。収斂しないのは、その〈欲望〉には、個人、共同体、文化の内に、不可視化された〈規定性〉が存在するからだ。そして、各々のレベル内で規定外な〈欲望〉は、あらゆる手段を講じて排他されて、正しく整えられていく。

その中で存在する〈自己〉とは、イコール〈規定性〉である。この〈規定性〉に抗うために、「自分とは何なのか」と問い続けることだろう。皮肉なことに、それは「差異」を明確に〈自己〉によって描き出し、〈非対称〉側に加担することで、別の「差別構造」の強化に繋がっていく。

“《「かけがえのない個人」になるための方法》とは、無限性の問いである。あらゆるところに跋扈している「欲望」の潮流に引き伸ばされ、切断と接続を繰り返しながら、私たちの体を透過しているようなものでしかなく、些細な妄想の範疇を超えることは出来ない。”


〈規定〉とは、少数を排他しうるカテゴリーなのである。


差別の論理

「女性解放という思想」には、性差別問題に深く根ざされている「差別の論理」の詳細が記されている。

フェミニズム問題に関しては「初心者」のため、以下の記事を読んで勉強をしていきたい。


差別の論理とは、いわば〈規定〉である。

これは、被差別者の〈排除カテゴリー〉を覆い隠すことに繋がる。つまり、男女問題における、「女」=「男ではない性」というような、排他性のあるカテゴリー分けのことである。

しかしこのような排除カテゴリーは、「女であれば、男ではない」「男であれば、女ではない」というように、どのように読み替えても真命題であり、つまりトートロジーなので無意味である。

ここに対して、とある「差」の根拠を、〈規定性〉のある論理により説明しようとするところに問題がある。その論理とは、ときに「能力」であったり、「身体的条件」であったりする。

こういった、もともとの命題を飛び越えたところに存在する〈規定性〉により、被差別者はあたかも実在の〈差異〉に「差別」の根拠があるように意識させられるのである。

そして、被差別者自身に責任があるように、扇動されてしまう。

ゆえに、このような論理の〈規定性〉を打破しなければならないと、被差別者は思い、行動するであろう。

しかし、このような〈規定性〉を打破できたとしても、その後に向かえる場所というのは、差別者と同一のカテゴリーのみである。論理の〈規定性〉により、例えば「能力」という〈規定性〉のある指標を打破しようと行動したところで、行きつく先はその差別者が所属する「能力」を保持した人が集合するカテゴリー内なのである。「差」を見つめ、その「差」を埋めようとすることで、さらにその差別者のカテゴリーに加担することに繋がり、さらなる〈非対称性〉が進むことになる。

そして、自らのアイデンティティを忘却してしまう。「差別」を妬むがゆえに、差別者と同一化する道に進んでしまうのである。


そこから想像できる事態は、被差別者間の分断である。

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先ほどの例の「能力」という〈規定性〉による差別者との同一化についていえば、差別者との同一化に迎合することで〈非対称性〉が加速し、排除カテゴリーに存在する被差別者から「裏切者」というレッテルを張られ、分断が生まれていくような道程のことである。

こうなってしまえば、そもそもこの「差別の論理」に対して、不当性を感じることになる。皮肉なことに、差別者による「論理」は、被差別者が不適切であると説明し立証しなければいけないのだ。

その「差別問題」を解く鍵に、「差異」を用いることになる。「差異」の存在を見出し、そこから論証を開始しようとするかもしれない。

しかし、そのような「差異」の列挙や「差異」の分類化、「差異」の善悪を見極めたところで、このような行動は被差別者による被差別者の性質を説明することにしかならない。

また、その「差異」を指摘しつつ、〈差別者の利益心理〉の問題を論証しようと試みることが次の一手として考えられる。しかしながら、〈差別者の利益心理〉は往々にして理解されない。なぜならば、差別者は悪意がないからである。

”不可視化された同一性は、無意識の主観集合として機能する”

序盤にこのように述べたように、「差別の論理」での差別者は、ほとんど〈規定性〉が不可視化されて機能している。社会的・自然的規範が〈規定性〉として広く分け持たれているのであれば、そのような〈規定性〉とは敢えて確認し合うことも、もはや存在しない行為となるのだ。

そうなれば、〈被差別者の利益心理〉が議論に持ち上がることになる。差別者による、被差別者への疑義の目が一層強くなるということである。

『差別者には悪意がなく、被差別者には明確に悪意を感じる「差別」』に対して、被差別者は差別者に対して更なる「悪意」を感受する、という矛盾に陥ることになる。しかし、この「悪意」の論証は困難だ。そもそも、差別者に明確な「悪意」がないのである。

このような「悪意」という意図を持つことなく現象することが、「差別」を「差別」たるものにさせているとも言うことができる。

また、「差別」の「事実とは何かを解明する」問題枠組の維持のために、討論者自身の私的利益は抑制に向かわねばならないという規範が要求される。討論の場において、フラットな立場以外は「私的」でしかなく、公平を期さないからである。

なので、「差別の論理」(=規定性)に則ったまま「差異」について議論を交わすことは、自らの論証によって無効化されてしまうのである。それは要するに、被差別者が「差異」を用いた「差別問題」の糾弾をすることは、一種の攻撃、または利益心理からもたらされているのだという、差別者の言い前である。なぜなら、差別者には明確な「悪意」がないからである。

告発自体がこのように解釈されてしまえば、その立証は困難だ。

このような「解釈装置」が差別者や被差別者に広く持たれると、この装置によって、さらなる〈非対称性〉を生産する再解釈の可能性が大きく広がってしまうことにもなるだろう。

よって、差別問題に深く関わる者(被差別者)ほど、差別を論じることは非常に困難なのである。


差のベースライン

先ほども述べたように、性別や障害者、セクシュアルマイノリティへの「差別」は、〈能力〉や〈身体的条件〉に基づく「差別」のように見えるが、それは違う。

それを根拠にして、区別やカテゴリーを排除する論理にはならない。なぜなら、どこまでいってもトートロジーであるため、無意味な命題に陥らざるを得ないからである。「性別」「障害者」「セクシュアルマイノリティ」は、各々の条件に合わせた適切な処遇があるはずなのである。

なので、これらの区別は「差別」の根拠、または排除の論理にはなり得ない。ではなぜ、「差別」と判断をしてしまうのか。


全ては、逆なのである。


〈能力〉や〈身体的条件〉の測定や把握の困難性により、その指標を「性別」や「障害」や「セクシュアリティ」の有無に置換しているのである。

要するに、〈能力〉や〈身体的条件〉を判断させる変数に、「性別」や「障害者」、「セクシュアリティ」というカテゴリーを利用しているのである。


ここから導ける事実は、「差」のベースラインは、「性別」というフィールドならば〈男〉「障害者」というフィールドならば「健常者」「セクシュアリティ」というフィールドならば「ヘテロセクシュアル」に存在しているのである。それ以外は全て、ネガティブに変貌するしかない。


「女性」「障害者」「セクシュアルマイノリティ」は、この社会的・自然的規範に実在し続ける限り、【①〈他者〉から見て下位に存在する〈自己〉】という形式に、意図的ではなくほぼ無意識的に帰属させられているということである。このような視点から考察してみても、①の形式は「健気な」態度とは決してならない。

「差別の論理」に捕らわれたままである現状では、その論理の罠に引っかかってしまう。上記のような「差」「差異」を立証しようとすることは、大きな消耗感を伴わざるをえない。


差別はどこにあるか

差別の不当性は、上記したような〈非対称的なカテゴリー〉の使用自体に存在している。このような〈非対称性〉によって、被差別者にこそ差別の告発や立証の責任があると思わせてしまうのである。

このような、問題設定に関した「不当性」、非対称性こそ明確にするべきである。それなしには、現実の「不平等」に対する闘争を積み重ねても、「差別」は本当には解明されない。


非対称性とは/不当性とは

被差別者が「差別」されているのは、不利益を被っているからではなく、そのことが当該社会では「正当化」されぬからであり、同時にその「正当化」されぬ根拠が、別の論理によってあたかも正当なものであるかの如くに通用してしまうからである。(『女性解放という思想』p116)

より詳細に日常を描写してみれば、「不平等」や「不利益」は各個人にかならず存在している「差別」である。であるのに、そのような「差別」を「不平等」と感受することなく過ごすのはなぜか。それはつまり、「不平等」を「不平等」たらしめる装置があるということだ。

「差別」の問題とは、いわば「認識装置」であり、つまり「差別の論理」という〈規定性〉に依拠してしまうのである。





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