見出し画像

要らなくない。むしろ欲しい。「雑感」「あいまいさ」を考える

『夏草や 兵どもが 夢の跡』

かつて戦地だった平野に、夏草がぼうぼうと生い茂っている。その戦地に挑み続けた戦士たちの、種種雑多な夢たち。
その夢のスケールや内容は、もはや誰も知ることは出来ない。けれども、それが失われてしまったものであるということは元気に生い茂っている夏草の成長から、対照的に見えてくることである。
その静寂な思いたちを、夏草から感じ取ったからこそ、一句読まざるを得なかったのではないか。


★「雑草」に対して暗黙のうちに共有する強さ
日本人は様々な「主語」が存在している。英語のような「I」に統一することはせずに、多くの「私」を使い分けてそれを言葉として使っている。
日本人は道端に生えている草を「雑草」を呼ぶ。実はこれは、日本人に特有で、海外では一つ一つの草を雑草とは呼ぶことは少ない。
私たちは、海外から、「あいまい」で即座に決定できない人種である、というレッテルを、ある種の悪として、貼られることがしばしばある。それが時にはマイナスに働くこともあるだろう。判断が遅れてしまっては、救えない命もあるかもしれない。判断が遅れてしまっては、せっかくのビジネスチャンスを逃してしまうかもしれない。しかし、この「あいまいさ」の論点はそんな表面的な部分ではないのだ。
また、「雑草集団」に対して親近感や支援したい気持ちを抱きがちなのも、日本人特有である。踏まれても踏まれても、平常心を保っているように見える雑草に、過去の日本の歴史に活躍した偉人も、影響を受けている。その影響は、家紋などに「雑草」と思われる草が多用されていることからも、読み取ることが出来る。
異国の人は、その日本人が持つ「雑草魂」の、誰もが暗黙のうちにわかっている、この言葉の意味について、理解が出来ないのが実際である。なぜ、「雑草」という言葉に、こんなにも強い何かを感じ取ることが出来るのか。天災の多い日本では、太古から「変化」を余儀なくされてきた。生活の基盤が揺らぐような、激しい変化に、苛まれてきた。現在の時代よりも、自らが立つこの場所について、知識もなければ俯瞰も出来ない時代であるのだから、心がくじかれそうになったり、どうしたらいいか分からなくなってしまったりし易いのだろうと想像できる。そんな様々な災難に対する心情が、日本人の心に、DNAに、刻まれている。

そんな「不安定さにその都度適応し、価値を見出す」能力を鍛えてきたのである。
そんな心を「雑草」に見出してきたこと他ならない。


★さまざまな「自由」を追い求めない
今の時代、多くの自由が共有されている。憲法上守られているような、人間の最低限の営みに伴う自由はもちろん、仮想空間上での、今や常識となっている人間同士のやり取りにおいても同様、自由が担保されている。それは、間違いなく素晴らしいことである。多くの人と、同時多発的にコミュニケーションを取れることに対して、それが悪であると決めつける人はいないであろう。ほぼすべての人が、その自由が担保されたプラットフォームを利用しているのであるから、「悪」と決めつけるのは無責任な言動だろう。
しかしながら、さまざまな「自由」という実態や、「自由さ」を追い求めることは、後々その自由を抑制に向かわせることを避けることは出来ない。要するに、「自由」の代償はそれを抑制する、閉塞感を伴った「不自由さ」なのである。
『私は自由になりたい』『ダイバーシティの時代だ』『自分のやりたいことをする』という主張は、実は自分の強い「自由」への信仰によって、自分の行動や偏向に対し、疑心をもって点検することを怠りがちになってしまう。主張内容とは反面、その主張はある種の「偏見さ」を帯び、その偏見から最も自由ではなくなってしまうジレンマが生じてしまう。

常に「捉われている」ことを感じ
自分自身の「偏向性」を見つめている人は
物事の認識を吟味し、判断したいと努力することで
相対的に「自由」になり得る。


★クラシック音楽の交響曲という分野から「不変」の凄さを感じ取る
クラシック音楽とは、その名の通り「古典的な」音楽である。誰しもが、非常に緊張しくて、難しくて、繊細で、理解が出来ない音楽ジャンルであると感じているかもしれない。先に話してしまえば、その偏向性にとらわれている考えこそが、自分の不自由さを生み出してしまっていること、他ならない。その音楽に、感動し、心が揺さぶられる未来など、一生来ない。
クラシック音楽の変遷を語るには避けられないのが「交響曲」という一形態である。「交響曲」こそ、クラシック音楽を一般庶民にも広め、音楽の相対的自由を獲得させてきた第一人者であると考えているし、それで語弊はないだろう。
そんな「交響曲」には、しばしばとある『タイトル(標題)』がつけられることがある。そのタイトルには、作者が明確に意図したもの、商業主義的に後付けされてしまったもの、聴衆に作曲者の意図を諭させるためにつけたもの、など、雑多に存在しているのである。そのような「交響曲のタイトル」には、甚だ強力な「力」が存在する。その力とは、今まで述べてきたような、ある種の信仰を与えてしまうものである。交響曲のタイトルには、そのイメージを不変のものとさせてしまう「力」が存在しているのである。しかしながら、その力を生み出してしまっているのは、その刹那を生きている当本人、ほかならない。タイトルに原因があるのではなく、タイトルを解釈し、その偏向性を信じてやまない、自分自身のせいなのである。
けれども、その偏向から解放される希望はある。人間は死ぬまで、その刹那の繰り返しであり、その解釈の仕方も常に変化していくからである。このように考えれば、交響曲のタイトルとは、人に偏向性を持たせてしまう原因でもありながら、人間の変化にも耐えうる不変さを補い、その「交響曲」という作品を、いつでも最上のものに仕上げる力もあるものであると、考えることもできるのであろう。
今の私たちにできること、それは今この瞬間の理解を安易に「絶対」だと思わず、それに「捉われている」のだと吟味し意識することである。

ある時期の「不変」さについて
誰しもが変化する中で、振り返れる時が来る。
クラシック音楽であれば、その瞬間に無理に理解しようとはせず、ただ聴くことを、繰り返してみる。
そんな「雑」的な習慣が、何かに価値を見出すきっかけになる。


誰にも備わっている、「雑感」「あいまいさ」を、閉じ込めて封印している人も多いと思うが、実はそれ自身が、日本人の心であり、より大切にしなくてはいけないモノであるのではないか、と近頃思う。

雑、と聞くと乱暴にきこうえるかもしれない。しかしながら、そう思う自分を疑わないことこそが、偏向性をもち、自分が何かにとらわれてしまっているという証明になる。

物事を雑に、広く、高く、俯瞰し続けることを習慣にすること。それによって、自分の可能性が、大きく広がる機会が増えるのだと思う。



この記事が参加している募集

#読書感想文

189,685件

#最近の学び

181,589件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?