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note短編小説|カメレオンの最期:前編

 「あらかたの混乱は終えただろう」アヤカはそう感じていたが、しかし自分の心と頭の混乱は、いま始まったばかりでそれをなんとか収めるため、この人気(ひとけ)のない志賀島の海岸で一服をしようと決め込んだ。

 人生で初めての大罪を犯した直後、人はどんな気分になるのかなんて考えもしなかった。「きっと良い気はしないだろう」という漠然とした想像がほのかにあったが、それ以上に自由への渇望のほうが勝ってしまい、その瞬間は突然訪れ、そしてあっけなく過ぎ去った。

 目の前に倒れている男の胸ポケットから潰れた緑と白の彩色のマルボロメンソールの箱と赤く透明な100円ライターを抜き盗る。コメディ番組で老人役に扮したお笑い芸人がやるように手が震えていることに少し笑みが漏れたが、その口元すら震えていた。平時なら立派な窃盗だが、それを咎める者はこの世界にはもう存在しない。

 残り数本しかないタバコの箱を大切に握り締め、その中から貴重な一本を口に咥えて海面の先の地平線に顔をあげた。

 ライターの火が付かない。オイルは充分だが強風が着火の邪魔をする。
心の中の声を荒げ、片足で砂浜の地面を軽く蹴った。咥えたタバコに近づけたライターを懸命に片手で覆ってやっと火が点いた。あまりに必死だったので、ライターの火はうつむいた拍子に眼前に垂れたアヤカの前髪の先を少しだけ焼いた。

 高校時代のほんの少しだけ吸ったきり以来のタバコだった。
 それも当時好いていた同級生の男の子に影響され、ほんの少しだけの期間の喫煙だった。側頭部をキューっと締め付けるような感覚に見舞われ、吸いなれない煙に咽ると同時にさっきまでの不安感や動揺が少し和らいだ気がした。あるいは気が紛れただけかもしれない。

 「私はすぐに人や空気に影響される、まるでカメレオンだよなー」と心で頷いたアヤカは今吸っているこのタバコも目の前に倒れている男の影響だろうかと疑問が湧いて少し動揺した。

 この男がここにいる理由を"運命"とまでは決して云いたくないが、自分が完全に無関係で無責任というわけではない。少なくともいま右手に挟んだ一本のタバコが存在するには自分とこの男の存在が互いに影響し合っていたからに他ならないからだ。

 彼女はふいにライターの赤く透明な身体を見つめた。髪の毛が焦げた匂いが鼻先を覆ったが気にも留めなかった。このライターの中から透けて見えるオイルが全て消費されるよりも早くこの世界が終焉してしまうことを彼女は不憫に思った。

 残念ながらあと数時間でこの地球は自らの重力が引き寄せた彗星が衝突し、その寿命を終える。

 タバコを一本吸い終わるころに再び「もうこの世界の混乱という混乱は収まったのではないか?」と感じていたし、そう思えるほど心も落ち着いてきた。
 その心の落ち着きに合わせるかのように海岸も静かだった。夏になると観光客や海水浴客で賑わうこの海岸も、世界の終わりにも助かりたいと思う人々は海岸から離れ山頂を目指し移動していたため誰もおらず、今は秋口で肌寒い。

 聴こえてくるのは荒れた海が岸壁を打つ音と、吹きすさぶ風がさびれた商店の看板を叩く音くらいで世界の終末を描いたディザスター映画のような怒号や悲鳴はない。かといってそれは自身の五感が感じ取れる範疇のことである。

 いま世界が、日本の首都がどうなっているのか、ましてやアヤカの住む福岡の都心部である博多や天神といった"都会"がどうなったのかは知らないし、知りたいとも思わない。

 「私の最期の時間が静かならそれでいい」

この終末を生きるほとんどの人はそう思っているし、アヤカも例外ではない。しかし人類がその境地に至るまでには少し時間がかかった。

【第一章】緩やかな終わりの始まり

 彗星は一年と三ヶ月前にその存在が明らかになり、人類は半年をかけ彗星破壊への国際プロジェクトを準備し、もう半年をかけ破壊や軌道修正を試みたがことごとく失敗した。

 彗星発見が話題になった当初、一時は恐怖に慄いた人類だったが民衆の多くは「誰かがどうにかしてくれるだろう」と考えていたし、次第にその楽観が「人生一度きりだから」というようなコピーへと変化し、結婚や旅行などの様々なレジャーブームを巻き起こして経済は意外にも潤った。そして人々はそう信じ込まなければ、まともな社会生活の維持は困難であった。

 その間も科学者たちは事態の重大さを訴えてはいたものの、残念なのは先進国といわれる国の多くが民主主義という政治形態であるからこそ、皮肉なことに民衆の程度以上の権力者を選出できないでいたため、多くの"先進国"において権力者も「どこかの誰かがどうにかしてくれるだろう」と考えていたことだ。

 世界の終焉の危機に対峙しなくてはならなくなった国連加盟国の指導者たちは、その責任を隣国に横目で流すように押しつけながら最初の貴重な時間を浪費していった。

 いよいよ彗星破壊プロジェクトが頓挫したことがハッカー集団により全世界へ露見すると、国家信条において自由と平等を謳うアメリカやヨーロッパ諸国では大規模なデモや暴動が起きたが、それも長続きはしなかった。

 なにをどう足掻いてもこの世界は残り90日足らずで終わることが明確だったからだ。社会を改善しようという善良で生産的な思考は意味を失い「いかに余生を安らかに過ごすのか」という命題のみを人類の多くは追及しはじめ、日本も例外なくそうした終末への準備に取りかかった。ましてや銃社会でもないこの日本では大した混乱は起こらなかった。

 ただいくつか身勝手な犯罪は起きた。だが世界の終焉となるとそれに対処する国家権力機能も次第に変化していった。それは加害者側も被害者側も双方に、行為に対する社会的な法秩序の制限が限りなく軟化し、次第に機能しなくなること意味していた。 

 ある日、数人の男性に襲われそうになった女性が護身用の催涙スプレーを使い、暴漢らを撃退した事件が起こった。その男性陣の中には被害者女性の知人がおり、女性は再び襲われるかもしれないという恐怖のあまり後日その男性を呼び出して殺害したのだった。

 そのあと女性は逮捕されたが、すでに世界の終焉まで70日を切っていた。こうなってはもう現行の法を執行してもあまり意味がないし、すでに刑務所の囚人は模範囚や軽い刑期の者、精神状態の安定している者や老受刑者から釈放手続きが行われていた。そんなさなかで殺人犯になった女性への刑罰は10日に満たない勾留だった。

 この報道をきっかけにますます日本は凶悪犯罪が横行するかと思われたが、逮捕された女性の「もう世界の終わりなんだから、自分の人生を妨害する人は容赦しない」の一言が報道され、それを抑制させた。さらに彼女は「人を殺したトラウマも、この世界が終わる短い間だけだと思うと気が楽だ」ともSNSで発言した。

 そうなのだ。どんなに他人を攻撃しても、もうこの世界は終わる。

 世界の終わりを目前に法が機能しない社会では「仕返しで殺されるかもしれない」という想像力が犯罪の抑止に繋がった。こんな世界で他人を攻撃してまで、ましてや殺害してまで自身の精神衛生を乱す必要性はないと多くの人々は考えたのだった。これを境にSNSの発言内容の様子が一斉に穏やかになり、ほとんどの日本国民は努めて平穏に過ごすようになった。

 世界が終わりに向かうなか、物流や医療など人命を支える社会の基盤ともいえる業種の労働者のほとんどが善意での就労になり、金銭での給与より食料や日用品、趣向品などの物々交換が増え貨幣経済は早々に衰退した。

 自分勝手に仕事を投げだして好きに生きようとする者もいたが、それ以上に自分が携わる日常という世界でいかに善くあろうとするかを考え、実行しようと努力する人々が大多数だったのである。

 道行く人々は互いに声を掛け合い、困っている人へは積極的に手を差し出し、話を聞いて笑いあった。皮肉なことに世界は終末を目前にして、急速にホワイト化していったのだ。

 そんな世界もあと数時間で終えようというなか、アヤカはこの志賀島の海岸にひとり立っている。今はひとりだがつい一時間ほど前はそうではなかった。彼女の隣にはいま眼前で横たわる男がいた。

【第二章】ウソと旅立ち

 その男は妻を持ち、妻との間に子を持ち、そして家庭があった。

 しかし彼は「孤独で不自由だ」とも云った。実際どうだったかは知らない、そう男が主張していた。この男とアヤカは不貞を働いた共犯関係だったが、アヤカは関係が終わるまでそれを知らなかった。

 世界の終わりは意外なほど人を善良にしたが、同時に日頃から人生を抑圧されていると感じていた者にとっては最初で最後の人生を自身の元へと取り戻す好機でもあった。この男は後者で終(つい)の善良より、人生の解放を選んだのだ。そして世界の終わりにアヤカの元にやってきた。

 二人の出逢いはトレンディドラマ顔負けなほどありきたりな共通の友人の結婚式だった。世界の終わりがまだどうにかなると全世界が信じていた時期で、この二人も「変なタイミングで出会っちゃった」などと笑い合う余裕があった。

 アヤカは彼との関係が当初は意気投合したように感じていたが、彼女は恋愛という状態において悪癖があった。それは自分を好きだと言ってくれる男の前では可能な限り「彼のお眼鏡にかなう女」になろうと過剰かつ無意識的にしてしまうことだった。どう頑張ってもその癖が抜けず、容姿から言動に至るまで彼が喜ぶように合わせようとしてしまう。

 デートを終えたその日の夜はぐったりと気疲れして帰宅し、つくづく自分は恋愛に向いてないと実感しつつも、かといって「付き合っている男がいる」という状態は彼女をそれなりに安心させもした。

 それは彼女にとって「男」という指標や基準を設定し、それをクリアすれば賞賛される"正解のある世界"を歩ませてくれる。なんとなくその道にそって生きることは彼女にとって楽なことでもあった。

 そんな傍からすると幸福ともいえる悩みを抱えているさなか、世界が半年を待たずして終了することが全世界にアナウンスされ、この頃から事態は急展開を迎える。男の妻を名乗る女が仕事から帰宅中のアヤカの目の前に突然現れ、彼との絶縁を要求してきたのである。

 どうやら探偵を雇い色々と調べられていたようで、不倫調査のレポートやら証拠写真を沢山見せつけられた。雇った探偵は世界の終わりを知り、調べ上げた資料をこの妻に無償で渡して突如として消えてしまったそうだ。

 全くの新事実だったこともありアヤカは仰天したが、世界が終わらないならこのさき裁判やら慰謝料請求が待ち構えていて、大事になっていたかと思うと少し安心したりもした。裁判所もこの終末世界ではほとんど機能しておらず、この期に及んで離婚調停など始めようとする者も、受けようという弁護士もいなかった。

 路上で泣き叫ぶ男の妻を名乗る女は「私にはあの人と産んだ子供もいるのに、世界の終わりにどうしてこんな不幸が起こるの!」といった内容を表現を変え何度も繰り返しアヤカに訴えた。

 アヤカ自身も衝撃の事実と、信じていた相手に裏切られた戸惑いと、裁判沙汰にならないで済んで良かったという妙な安堵感と、世界が終わるという未体験の絶望の同時多発に泣いていいのやら、浮かれていいのやら、頭の整理がつかずに未曾有の困惑した感情を抱いたのだった。

 しかしそんな感情の大渋滞のなかで、アヤカはこの女をすこし羨ましいとも感じていた。

 ここまで感情を表にまき散らす女の様は、裏を返せばこの女の感情は本物なのだと強く感じた。それは相手の男の好みに合わせて「お眼鏡にかなう他人」をその都度目指すカメレオン女のアヤカには希薄な感情であり、女の持つそれは男と共に歩んだ人生の長い時間で構築された、紛れもない現実から創りだされたものに違いないとアヤカは思った。

 「そんな感情を私はもっていない」と感じ、自分がどこか空っぽな存在な気がした。

 「彼女のようにあるがままの感情を爆発させてみたい、そんな人間になりたい、どうせもう世界は終わるんだし、明日からそうして生きてみようかな」

 妙ではあるが目の前で泣き叫ぶ女を見ているとそんな気持ちが湧いてきて、心なしか明日が待ち遠しくなった。あまりに不憫だったので要求を全面的に受け入れ、その瞬間から男との接点を絶ち、彼女の愚痴をその後もしばらく聞いてやった。

 深夜に泣きじゃくって眼の腫れた男の妻を送り出し、さっそく明日の旅の準備を始めた。

 人生最後の旅の友に着飾るためのドレスやスカートは除外した。男に会う予定もなく、男女の仲の出来事はもうないだろうと勝負下着も却下して身に付けるのにストレスのない動きやすい恰好を選択する。

 デニムのパンツを数本とお気に入りのTシャツを数枚。靴はもちろんヒールではなく履きなれたニューバランスとスタンスミス。まるで遠足の前日のようなワクワク気分になって支度をしていたが、すぐに頭を抱えた。

 「遠足といえばリュックだ!」と思ったが、バックパックはケイト・スペードやコーチの小さく可愛らしい割に高価なだけのものしかなく、それ以上に大きなカバンはもうトラベル用のバカみたいなサイズのキャリーバックのみで、その間のサイズの物は仕事用のMacBookと数冊の書類が入る薄いビジネスバックしかない。

 身に付けて常用する鞄で物がそれなりに多く入り、両手が塞がらないものを持っていないことにこの時点で気づいた。
 仕方なく畳んで戸棚の隅に押し込んでいたイケアの真っ青で大きく頑丈なショッピングバックを引っ張り出し、それを使おうと決めた。若干心持たない。

 懐中電灯の類もない。停電時や暗い物置の隅を探すときには、もはやスマホのライトで事足りるという文明の発展ぶりをここで再認識したが、なんだか"冒険"の雰囲気が出ないなと一人で少し拗ねた。

 カセットコンロもなければ、キャンプ用の調理器具はおろか寝袋やテントももちろんない。

 いろいろな男と付き合い、カメレオン女として多種多様な趣味を自身にインストールしていたアヤカだったが、アウトドア趣味の男とは付き合わなかったし、もう何年も起こるといわれていた大災害に備えようという気もないわけではなかったが、ついにここまで防災の準備を全くせず世界の終わりを迎えている。

 ただ移動の大半はローンがまだずいぶん残っているスズキ・ラパンになるので、荷物はそれに押し込んでしまって寝泊りは車中泊で構わないと思った。ガソリンも世界の終わりまでは充分あるし、ローンももう払う必要がないのも幸いだった。

 その日はワクワク気分で深夜3時近くまで準備をしていたが、途中で力尽き化粧を落とさずに寝てしまった。この化粧も翌朝落して、それが最後の化粧になった。

 睡眠時間は短かったが朝早く起きたアヤカはシャワーを浴び、身を整えて、いまある物だけでどうにか旅の準部を終え「善は急げ!タイム イズ マネーよ!」と心で勇んでアパートの玄関ドアを開けた。

 玄関を開けながら「マネーってなんだよ、もう金いらねーじゃん!」と自分に突っ込みを入れ、笑みを浮かべて部屋を出た。世界の終わりにひとりでヘラヘラ顔をしているアラサー女だと自分を卑下しつつもその状況のおかしさにまた笑った。

 つい日常の癖で玄関のドアにカギを刺し、施錠しようとした瞬間「もうここに帰ることはない、鍵なんて閉めなくていい」と思い返した。なんならいっそドアを開けたまま家のカギをこの四階から投げ捨ててしまえ!と決意し、勢いよくカギを空へ放った。

 勢いよく投げ出されたカギは宙を舞って見えなくり、はるか下界から金属が硬いの地面を跳ねる音だけが聴こえてきた。アヤカにはそれが人生最後の自由時間のスタート合図のような気がして嬉しかった。

 駐車場におり、ラパンに荷物を詰め込んで乗り込むアヤカ。エンジンを掛けようとしたその刹那、嫌な予感がよぎった。

 こんな世界での女一人旅は本当はもの凄く危険なのではないか、私という存在は暴漢やならず者たちから格好の獲物になりはしないだろうか。そんな不安が一気に押し寄せ、車を出て施錠されていない自分の部屋まで急いで戻った。「何か武器になるものはないだろうか」

 部屋をいろいろと物色して、結局頼れそうなのは包丁ぐらいだった。だがこの包丁は金属製ではない。錆を心配しなくてもいいステンレス製でもない、まっ白い刃で強度も戦うには心細く、子供でも安全に扱え、足元に落しても怪我のない強化プラスチック製の包丁だ。

 「こんな物しかないけど、ないよりはマシよね」と思いプラスチック包丁を正面から見えないようにデニムの後ろ腰に差した。その重みの全く感じなさに役に立つのか心配になる。

 車に戻りエンジンを掛けようとすると、スマホはチーンとなって着信があったことを知らせてきた。上司から最後の電話だった。

 「いままでありがとう、良い最期を」と上司から震える声で最後の留守電が吹き込まれていた。この状況で電話に出ないということはバックレたか、死んだかだと上司は思うだろうが、それでも留守電に言葉を吹き込むような最後まで律儀な人だ。

 アヤカは仕事を無断で退職した、彼女は自由への一歩を歩みだしたのだ。

ーーーカメレオンの最期:前編 【了】ーーー

最後まで読んでいただいてありがとうございます。
後編はこちらです。

note短編小説|カメレオンの最期:後編https://note.com/da_bun_takebtz/n/n1b99130aa575



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