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靴と鴨スープ(4)

それは1年前、李人が母からの連絡を受けてイタリアから緊急帰国をした時のことだった。

 お爺ちゃんが危篤。直ぐに帰ってきて!

 20歳で調理師学校を卒業してから単身イタリアに渡り、10年間一度帰国しないまま、SNSだけで家族と連絡を取り合っていた李人は母方の祖父がそんな状態になっているなんて思いもよらず、慌てて飛行機のチケットを取って緊急帰国した。コロナの隔離期間が緩和されて本当に良かった。それじゃなかったら死に目にも会えなかったかもしれない。
 祖父は、病院ではなく自宅にいた。
 コロナで病床が逼迫して入院出来なかったこともあるが家族が自宅で看取ることを選んだからだ。
 自宅に戻った李人は思わず絶句する。
 祖父は、介護保険で借りたベッドで横になっていた。
 李人が絶句したのは祖父の容態や状態が酷いからではない。
 むしろ祖父は想像していたよりもずっと綺麗だった。
 母や紹介された訪問看護師さん、年配の女性ケアマネジャーのケアがとても適切なのだろう、目を閉じた表情は穏やかで清潔だ。匂いだって病人特有の生っぽい匂いではなく、李人の記憶にある祖父の匂いだ。点滴が痛々しいがそれ以外はただ静かに寝ているだけに見えた。
 しかし、李人は絶句した。
 なぜならこの穏やかな空間には似つかわしくないものを祖父は胸に抱いていたからだ。

 それは見るからに痛んだボロボロの革靴だった。

 その話しを聞いたリサは、驚き口に手を当てる。
「どういうことですか?」
「驚きますよね」
 李人も苦笑し、近くにいた店員に蕎麦湯を注文する。
「僕も同じようなリアクションをしましたよ。どういうことなのかって」
 店員は直ぐに蕎麦湯の入った木製の急須と湯呑みを持ってきた。
 李人は、リサに蕎麦湯を飲むか確認する。
 リサは、「はい」と頷くと李人は2つの湯呑みに蕎麦湯を注ぐ。
 雲のような穏やかな白い液体が湯呑みを満たす。
「本当は出汁の上から注ぐのですがすいません。好みで足してください」
 そう言うと自分は出汁を出さずに蕎麦湯だけで飲む。
 リサもそれに習って蕎麦湯だけで飲む。
 とろりとした蕎麦の風味を残した液体が食道を通って胃の中に流れ込む。
 重湯なんかよりも遥かに味わい深くて美味い。
 今度、これを使った健康レシピを考えようかと思うほどに。
 李人は、一息付いてから湯呑みを置き、話しを続ける。

 李人は、祖父が胸に抱いている靴について母に尋ねた。
 母も少し困惑したように、どのように説明したら伝わるのか、言葉を組み立てながら話し出す。
 祖父が認知症を患ったのは李人がイタリアに旅立ってから3年くらいしてからだったと言う。
 5分前のことを忘れたり、随分昔に亡くなった祖母や愛犬と散歩に行くと言ったり可笑しな言動、行動が見られるようになり、かかりつけ医に相談したら、大きな病院に行って検査した方がいいと勧められて検査したところ、アルツハイマー型認知症と診断された。
 当然、父も、実の娘である母もショックを受けた。
 祖父は、穏やかではあったが、厳格を絵に描いたようような仕事人で家では本や新聞を読んで過ごし、亡くなった愛犬の散歩を1分も狂いなくルーティン通りにこなすような真面目を通り越してしまったような人だった。当然、冗談も言わない。しかし、決して他者に意地悪するようでも嫌味を言ったりすることもなく、むしろ人がこの時、どう思っているかなんかも考えながら動くので同居している父も居心地良く過ごしていた。
 そんな祖父がよく言えば陽気に、悪く言えば馬鹿みたいに大声で笑い、下らないこと言いながらちょっかいを出すような人格の変化が見られ、身の回りのことが出来なくなって行くのを間近で見て、母は隠れて泣いていたそうだ。
 そんな時、祖父の担当に付いてくれたケアマネジャーが穏やかに微笑みながら「今まで頑張ってこられたから、その分楽しまれてるんでしょうね」と優しく言ってくれた。捉え方によってはクレームにも繋がりかねない台詞だが母は、その言葉で少し救われたという。
 そのケアマネジャーは40代後半くらいのとても若い男性の人だったと言う。ジャケットにノーネクタイのシャツを着て、上品な洒落た作り革靴がとても特徴的
だったと言う。
 そして素人の母から見てもその腕前は見事だったらしい。

「認知症の進行の予防に必要なのはお薬での治療も大事ですが何よりも外に出て、人と関わりを持って刺激を与えることです」

 そう言って認知症対応通所介護という所を紹介してもらい、週に3回ほどだが通うようになると少しずつであるが祖父も落ち着いてきて、気になるような行動も減ってきたと言う。昔のように戻ったわけではないが、穏やかに日々を過ごすことが出来るようになったと言う。

 その話しぶりからして母がそのケアマネジャーを信頼していたことがとても良く分かった。
 そして祖父もそのケアマネジャー認識していたかは分からないが信頼していたことだろう、彼が訪れると大きな声で笑って昔のことを話し、ケアマネジャーも楽しそうに相槌を打っていたと言う。
 分かっただけに疑問だった。
 なぜなら先程、「お父さんのケアマネさんよ」と紹介されたのは年配の女性だったから。
 それを聞くと母の顔に翳りが差す。
 そして告げる。
「そのケアマネさん、亡くなったの」

                つづく
#短編小説
#ケアマネ
#蕎麦湯
#鴨南蛮

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