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明〜ジャノメ姫と金色の黒狼〜第9話 汚泥(5)

 アケの泣き叫ぶ声が響き渡る10分程前に遡る。
 ツキは、混沌に散らかった状態の居間のテーブルで冷めてしまった粉だらけのコーヒーを口にしていた。
 ざらつく食感が果てしなく気持ち悪いがそんなことは些細なことだ。
 ツキの脳裏に浮かぶは今朝から現在に掛けて妻の様子。
 明らかにおかしい。
 昨日の怒涛の出来事と、よくは分からない"大人の階段を登る勉強会"を差し引いてもアケがあそこまで取り乱す、いや錯乱と言ってもいいような状態になるとは思えない。
 いや、決してない訳ではない。
 アケは、育ってきた環境のせいで精神面に大きな凸凹がある。普段は明るくて利発的だが、何かのきっかけでボタンがかけ違うと途端に崩れてしまう。そんな場面を一緒に暮らし始めた半年でたくさん見てきた。
 そしてその度に少しずつ成長していく様も。
 ジャノメ姫と蔑まれた少女からアケと言う1人の女性へと変化をしていく。
 しかし、今回のはそんなものとは違う。
 ここまでの精神の不安定は見たことがない。
(いや、1度だけあるか・・・)
 ツキは、コーヒーを口にしながらその時の事を思い出そうとする。
「邪魔するぞ」
 高い声と共に杯がツキの前に置かれる。
 ツキは、視線だけを動かすと左側に青色の長い髪を流した美しき女性、青猿が立っていた。
 手にはツキの前に置いた杯と同じものを持っている。
 ツキは、黄金の双眸を細める。
「まだ、いたのか」
「白兎と言い、お前らは私を追い出したいのか?」
 青猿は、眉を顰めて杯に口を付ける。
「竜魚達が盛り上がってるからな。生臭くてお前だって出られないだろう?」
 窓の外では竜魚達が黒い雲の海の中で激しくのたうち回っている。その為、剥がれ落ちた鱗や血が空間を充満し、決して出れない訳ではないが鼻は確実に効かなくなるだろう。
 青猿は、近くにあった椅子を引いて座る。
「・・お前の妻・・アケを私の娘にした」
 青猿は、唐突に告げる。
「そうか」
 ツキは、短く答え、粉だらけのコーヒーに口を付ける。
「驚かないのか?」
「アケと話して合意した上でだろう。あいつが自分で決めたのなら俺が何か言うことはない」
「クールだねえ」
 青猿は、愉快そうに笑い、杯に口を付ける。
「飲まないのか?」
 ツキは、目の前に置かれた杯を見る。
 ツンっと言う強くて甘い匂いが漂う。
 酒だ。
「下戸じゃなかったよな?」
「まだ、コーヒーが残ってるからな。飲み終わったら頂く」
「そうかい」
 青猿は、楽しそうに言う。が、その笑みは消える。
「・・・アケのこと・・白兎に聞いた」
 ツキのコーヒーを飲む手が止まり、黄金の双眸が青猿に向く。
「何を聞いた?」
「あの娘がここに来てからのことと、ここに来る前の事だ」
「・・・どう思った?」
 ツキの質問に青猿の深緑の双眸が怒りに揺れ、形の良い唇が歪む。
「今回のことを抜きにしても3度あの国を滅ぼしても飽き足らない!」
 怒りのあまり、手に持った杯にヒビが走る。
 アヤメが怒るな、とツキは胸中で呟く。
「ジャノメ姫の噂は私の国にも届いていた。百の手の巨人ヘカトンケイルに目を奪われた哀れな姫としてな。それがまさかそこまで酷い扱いを受けてたなんて思わなかった。国を上げて少女1人をイジメ抜くとはどう言うつもりだ!誰も味方する奴はいなかったのか⁉︎」
「1人だけいる。あの国の近衛大将だ」
「じゃあ、そいつだけは生かしてやる。というか白蛇の奴は何をしてたんだ!」
 青猿は、憤りの声を上げる。
「・・アケが言うには知らなかったらしい」
「それでも王か!」
 青猿は、深緑の双眸を震わせ、テーブルを叩きつける。
 食器類が全て床に落ち、丸太を半分にして作られた強固なテーブルがガラスのようにひび割れる。
「それを聞いた時、俺も同じことを思ったよ」
 ツキは、コーヒーをゆっくりと啜る。
 粉が底の方に少しずつ溜まっていく。
「それでお前は何が言いたい?」
 青猿は、怒る肩と息を押さえてツキに深緑の双眸を向ける。
「あの娘をうちの国で引き取りたい」
 ツキの黄金の双眸が揺れる。
「なんだと?」
「勘違いするなよ。別にお前達と引き離そうと思ってる訳じゃない。あの娘にとってここは初めて心の安寧を得られた場所だろうからな」
 青猿は、自分を落ち着けるように杯に口を付ける。
「しかし、あの娘にはもっと経験が必要だ。人との触れ合いが必要だ。それこそ同じ人間同士のな」
 ツキは、何も言わずにじっと青猿を見る。
「あの娘に必要なのは人としての喜び、人としての生活、そして人としての生き方だ。あの娘が本来得るはずだった人生を再び得ることだ。それは猫の額ここでは得られない。お前だって分かってるだろう?」
 ツキは、青猿から目を離す。
 人としての生き方・・。
 確かにここではアケが本来、歩んでいくはずではあった人生は得られない。
 ツキ達は、調理をして食することはない。
 自然のものを自然のままに食べるのが本来の生き方だ。
 ツキ達は、入浴をすることはない。
 水に浴びることさえ出来ればそれで満足だ。
 寝る場所だって草の絨毯でも岩に寄りかかっても構わない。
 本来なら彼女と自分たちの生活が、生き方が触れ合うことなんてない。
 ない・・・はずだ。
 しかし・・・。
「アケは・・・」
 ツキが口を開きかけたその時だ。
 叫び声が聞こえた。
 悲痛な、この世を全てに絶望するような泣き声が。
 そして身体の軽い何かが走り、思い切り扉を開ける音。
「奥様あぁぁぁぁ!」
 アヤメの叫び声が聞こえる。
 ツキと青猿は、双眸を見合わせ、声の方へと走っていく。
 正面玄関が弾かれるように大きく開き、外気と竜魚の体臭と血の匂いを部屋の中に取り込む。
 正面玄関の前にはアヤメが立っており、右手を玄関の外に出る一歩手前まで伸ばし、足を踠くように動かしている。
「何があった⁉︎」
 ツキは、アヤメに近寄り問いただす。
 アヤメは、今まで見たことがないくらいに狼狽した表情を浮かべる。
「奥様が・・取り乱したまま外に飛び出して・・アズキが追いかけてますが・・ああっ王、どうしましょう⁉︎」
「落ち着けアヤメ」
 ツキは、彼女の肩を優しく叩く。
 騒ぎを聞きつけたオモチとカワセミもやってくる。
 そして最後に顔面蒼白になったウグイスも。
 ツキは、黄金の双眸をウグイスに向ける。
「ウグイス・・何があった?」
 ツキの言葉にウグイスは、ツキがそこにいる事に初めて気づいたようにびくっと身体を震わせる。
「嘘偽りなく全て話せ。誤魔化すことは許さん」
 黄金の双眸がウグイスを視界に収め、波ように揺らめく。
 ウグイスは、身体を小さく震わせる。
 しかし、それはツキに怯えたのではなく、違う意味での震えであった。
「アケが・・・」
 ウグイスは、震える声で昨夜から現在にかけてまでのことを全て話す。
 ツキの黄金の双眸が釣り上がり、唇が大きく歪む。
「この愚か者が!」
 ツキは、吠えるように怒りの声を上げる。
 ウグイスは、大きく身体を震わせ、それ以外の者達も萎縮し、青猿ですら表情を固め、小さく汗を垂らした。
 しかし、ツキはそれ以上ウグイスを責めることはしなかった。
 ツキは、踵を返すと正面玄関を飛び出す。
 身体の輪郭が歪み、黄金の輝きに包まれ、巨大な黒狼の姿に変化するとそのまま屋敷の柵を越え、森の中に消えていく。
「お前は、友達失格だ。ウグイス」
 甲高い声でオモチが言う。
 ウグイスの黄緑色の瞳が動揺に揺れる。
「いつも1番近くにいながらお前はアケ様の何を見てきたのだ?」
「えっ?」
 アケの何を見てきた。
「私は、アケの・・・」
 明るくて可愛らしいアケ。
 いつも自分以外の他の誰かを気にかける優しいアケ。
 楽しそうに料理を作るアケ。
 傷つき、打ちのめされそうになりながらも真っ直ぐに向かい合う芯の強いアケ・・。
「それだけアケ様を見ていながら何故、アケ様が最も恐れていることに気付けない?見れない?」
 オモチの赤い瞳が燃えるようにウグイスを射抜く。
(アケの恐れるもの?)
 ウグイスは、胸中で呟き「あっ」と口に出す。

"このままじゃ王に嫌われちゃうよ"

「誰からも、実の親からも嫌われ、蔑まれ、死を求めてやってきたアケ様の全てを受け止め、愛したのが王だ。王の存在はアケ様の全て。その王から嫌われているなんてそんな残酷なことをどうして言えた⁉︎」
 ウグイスの表情に絶望が走る。
「あっあっあっ・・」
 ウグイスは、大きく蹌踉ける。
「うわああああっ!」
 ウグイスは、身が裂ける程に叫び声を上げ、玄関を飛び出すと黄緑色の翼を大きく広げて飛び立とうとする。
 それに気づいたカワセミが彼女の足を掴んで止める。
「離して兄様!」
「馬鹿!竜魚がいる空を飛ぶなんて無謀だ!」
 そういうと緑色の魔法陣を展開する。
 その瞬間、ウグイスの周りを風が包み込む。
「風の鎧だ。多少の衝撃なら守ってくれる」
 そう言ってカワセミは、ウグイスの足を離す。
「ちゃんと謝って一緒に帰ってこい」
 カワセミは、口の端を釣り上げる。
 ウグイスは、大きく頷くと竜魚の暴れる空へと飛び立った。

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