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かもしれない、そう

 シャガールが好きだが、シャガールの絵を見続けていると心がここから離れていくかんじがあってあまり見ないようにしている。
 それにやっぱり美術館で見るのが好きだ。ポストカードや本で見たってやっぱりそれでは力はなくて、大きくしずかな絵画を目にした時にだけ伝わる感情がたしかにある。それを求めに何度も美術館に行くのだろうと思う。

 シャガールの青は濃く、つめたく、激情的で、愛である。いつかのわたしは目を本当に皿のようにして、見つめていた。時間を忘れて見つめていた。そのときの心が忘れられない。
 シャガールだけが特別好きなわけでもなく、意外となんでも絵は好きだ。苦手なものもあるけれど。そういえば原色のパッチワークのような絵はかなり苦手だった。苦手なものの話をしてもしかたがないのだけれど。

 日記というほど毎日かけない。3日も続かない。毎日何が起こるかといえば、私が起きて、私が生きて、私が眠ってるだけだ。誰と関わり、何が起こり、どう思って、そんなことは些細なことで、ただ毎日がなだらかに続いてゆく。

 さみどりの日々のなかで、わたしはやっぱりゆるやかに息絶えてゆく。夜があんまり綺麗だから、朝を壊してしまったみたいに、明るさの中へ向かうのにはもう今更かなり強い意志がいる。

 はやく絶えてしまいたい。桃の匂いがする。玄関からする。夕日かもしれない。夕日は桃の匂いがするのかもしれない。それは風に編まれて私を覆うのかもしれない。それはわたしを繭のように閉じ込めるかもしれない。そうなったらわたし、ずっと眠っていられるかもしれない。ここから逃げられないまま逃げ延びるかもしれない。かもしれないから生きていけるかもしれない。 

未来がこわい




24.0816

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