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白白パンダ、白黒パンダ

せとかを剥く。
柑橘の匂いが指にからまりつく。春の朝のひかりは気温は低いのにとても柔らかく差し込んでくる。それはもう既にまどろみに近い。半分にわって、それから皮を剥がす。一気に果実から果物へと変貌を遂げたようなそれと、あたりにきらきらひかるジューシーな香り。ひとつぶ、口に運ぶと思った以上に甘い、あまい味が広がって、おいしい、に結びつく感じ。
一人でこれらをやっている朝の、お供として音楽をかける。

 人と付き合う、ということに向いていないのではないか。薄々気づいていたものの、昨日完全にそう思った。人に話を聞いてもらって、そう感じた。わたしはわたしだけが大切で、それにこの感性がふくまれていて、感性ってなんの役にもたたないし、それなのに自分の根幹にあって、抜き取られたらわたしはわたしじゃなくなるような感覚もあって、で、なんだっけつまりはほとんど感覚の話で、わたしはわたしの大事に思う部分をうまく説明できないのに、それを共有できないと途端に悲しくなってしまうようだった。それって自己中。自己中の極みのようです。

 たとえばわたしのパンダが白と白でできていたとしても、相手は白黒パンダの話をしていることがわかっている。わかっているけれど白白パンダはじゃあどうなってしまうんだろう。わたしだけか存在するだろうって思うものって現実的にあるものの見方を変えているだけだったり、存在しなかったり、そういうあやふやなものだけど、それってつまり桜をみて綺麗だというようなもので、そういうのって大事じゃないけど大事やん? 
 でもそんなこんなは面倒くさい。面倒くさい内面ごと愛してくれる人がいたとして、それは愛じゃない。共有できないことがちょっと悲しくなってしまって、でもそれって上限があるね、なんて話をした。たしかにそう。
 最初から分かり合える人なんていなくて、でも少しずつ知っていけば分かり合える人がほんの稀にいる。ただその土台がぜんぜん伴わないタイプだとそれが良くも悪くも分かり合える上限を下げたりしてしまって、諦めてきな風向きになり、それが寂寥感につながり、なんとなく孤独。個々の中の孤独より集団の中の孤独の方が、響くように、分かり合えるはずの人がいるのに分かり合えない方が孤独。そんなわがままを考えていた。
 じゃああなたはしっかり相手のことを理解してあげられるのってそれはもう本当にその通りで遠くの岸辺で背の高い花が揺れている。

 風が家の中で吹いている。薄いカーテンがはらはらゆれて、影とひかりがまんべんなく散る。音楽がそれにのって泳ぐ。ひとりきりのへやが、完成されてゆく。わたしの指が何かを書く。その際、わたしの脳はまたどこかで泳いでいる。ひとりきりの感情が、完成されてゆく。
 またどこかで、それとも永遠にご無事で。





24.0318 

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