春の住処
たとえばわたしが鳥だったとしてあの顔ができるだろうか。愛され方しかわかっていないあの鳥の、くるりと一周まわった水鏡のような瞳。水浴びをする白文鳥をじっと見つめる。春の午後。
わたしが100%わたしであった時代を思い返す。それはフライ返しみたいにへにゃんとしていて、輪郭がやわらかくひしゃげている。わからない、とは言えないが、スフレにフォークを押し付けるみたいに少し痛む。結局全て忘れてしまうから、なんて言いたくはなくて、だけど夕暮れは止まらない。
その頃、わたしは自我というものと乖離しておらず、わたしはわたしとして樹立しているつもりであった。つまり、考えていない頃がわたしであった。それは揺れる草のように頼りなく、恋の舌触りのように冷たい。日向でふくらんだチュニックをあたまからかぶったみたいに今は愛おしく思う。
さわらないと虫ってわからなかった。
味わわないと苦いってわからなかった。
人生はスローシャッターの連続で、わたしに任された傘の内側で生きている。
平らな地面、遥かな空、遠くの国で生まれる音楽。
行ったり来たりのなかに夜中がぐんぐん重なって、あるときわたしは落ちてしまった。
そこが春だと知らず眠っていた。
クリームイエローの家の、木製の家具の匂い。
わたしの体がくっきりしていて、そのあと震えてくる。
ひとりぼっちは、鋭いものだ。
食べたり、起きたり、話したり眠ったり、わたしがわたしとして動くたび、内側のわたしがどんどん潜っていく。それは春の水辺だったり、樹のうろだったり、亀の背中だったり、ままならない魂が流れ出していく。
春の住処はずっと前からあったのだ。そのことに気づくことが、かなしみだと、大人はいう。
嘘の海にながされて、大きなカモメを見送って、ここは私だけの国。
さよならが相応しい季節になった。
24.0405
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