【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第15話-春、修学旅行前夜〜貴志①

 あれから一ヶ月が経過し、無事に5月の実力テストも終了した。次のテストまで一ヶ月の猶予を与えられた生徒たちは、開放感と共に修学旅行の準備に追われていた。
 貴志の家で行われるミーティングと評したお茶会は、毎週金曜日の定例となっていた。
「瑞穂の持ってきたお菓子、うめえ!」
 裕が満面の笑みでチーズスフレを頬張っている。
「オーホッホ!お神戸の会社から取り寄せたハイソなお菓子でしてよ!
 心して食べなさい…って裕!一人で食べちゃダメよ」
 顔面の半分が口になったかのような笑い方から一変、瑞穂の口調が慌て始める。裕が同じく、顔面の半分くらいまでの大きさに口を開いてお菓子を食べようとしていたからだ。もちろん、フリだけである。
 すでに二人は呼び捨てで名前を呼び合うくらいに親しくなっていた。傍目に似た者同士だなと思う。
「お前らコーヒー入れる間くらい待てないのか…本当に動物だな」
 貴志はため息交じりにキッチンでハンドドリップでコーヒーを淹れていた。その片手間に晩御飯の準備も進めている。
 それももはや定番となりつつある。貴志のコーヒーとお茶菓子目当てで入り浸っていると言っても過言ではない。いや、過言でないにも程がある。
 修学旅行のしおりも出来上がり、自由行動もコースは決まっている。もはや彼らが集まってやるべきことは、荷物整理くらい。すでに集まる意味はなく、今日はただのお茶会となっていた。
 目の前のじゃれ合いに、理美と隼人は苦笑いを浮かべている。特に隼人ときたら友達と呼べる相手がこの部屋にしかいないわけで、その目の前でこうもいちゃいちゃされると…
「お前ら…もう付き合っちまえよ」
 免疫不足が過ぎて、呆れたように口走る。けして的はずれな事は言っていない。少なくとも裕は、それを望んでいるのだから。
「な、な、な、何を言っておられやがるのかしら?」
 瑞穂の声が上ずっている。顔が赤い。手足をバタバタとさせて否定している。
 その姿に微笑む理美。なぜか胸に棘が刺さったように感じる貴志。そして普段止まることのない口が完全にフリーズしてしまった裕。矢嶋はいないため、誰も突っ込む人がいない。しばらくの間、慌てふためく瑞穂を全員で鑑賞する時間が続くのだった。

 漂うコーヒーの香りが今日の瑞穂観察日記を中断させる。丁寧にドリップされたコーヒーをポットに並々と淹れ、傍らに人肌まで温めたミルクを添え、ダイニングテーブルの中央に置く。それを理美が注いで分けて…
 瑞穂と裕が悪ふざけを疑うレベルの砂糖を入れる。ミルクもこの二人のためのもので、理美も隼人もブラックで香りを嗜んでいる。
 もはやそれも見慣れた光景と化していた。学校では相変わらず無口朴念仁、たまに口を開くと冷酷無比の貴志だったが、この空気感の中ではその姿は鳴りを潜めている。
 自嘲気味な苦笑いを浮かべて、ブラックコーヒーを口に流し込む。一人の時はストロング系のとにかく苦いコーヒーを嗜む貴志だが、このメンバーの時に飲むコーヒーは少し違っている。苦いのが苦手な裕に合わせてブレンドを変えているため、苦みはマイルドで鼻から抜ける香りは甘さすら感じさせる。
 いや…ブレンドを変えただけではない。実際にこのお茶会の時だけは、苦くないコーヒーを心地よいと感じ始めていたのだ。
 もちろんそれを態度に出すような貴志ではない。
「お前ら…そんなに砂糖入れたら香りが飛ぶだろうが…」
 すでに言い飽きた文句をため息交じりに放ち、お茶会が始まった。

 日が暮れるのは日に日に遅くなっているが、解散はいつも茜色が紫がかる頃だった。瑞穂を家まで送っていくのは裕の役目となっていた。そうすると理美は隼人が…
「良かった間に合った!理美さん、送るよ!」
 悟志の帰宅により理美の帰路は恋人たちの時間となっていった。一人残される隼人。
 彼はまだ女子と二人で歩くという経験を、人生で一度も積んでいないのであった。
 相手に恋人がいて、それを祝福していて、ましてその恋人が送っていく以上は、自分に入り込む余地などないのだが。ないのだが…それでも女子と並んで歩くくらいの出来事くらいあってもいいじゃないか!とは叫べず、取り残された隼人の肩をポンと叩く貴志。
「まあこれでも食べて元気出せ」
 差し出された肉巻きモッツァレラチーズを頬張る隼人が感嘆の声を漏らす。両親の帰りが遅い隼人のために、晩御飯のおかずから味見名目でおすそ分けをすることも定番化しつつある。
「隼人も気を付けて帰れよ」
 他のメンバーには言わない一言を告げて、貴志は南原隼人を見送った。すでに友と認めた呼び方に変わっている。
 裕の悪ふざけ。これは昔から変わらない。二人の時はそれでよく笑いあったものだった。
 そこに瑞穂が入り込んで、同じようにふざけ始めて、最近ではコントを始めるようにいつまでも二人で話している。それを見守る理美と、羨ましそうに見つめる隼人。貴志を取り巻く環境はこの一ヶ月で目まぐるしく変わっていた。
 このメンバーで集まる事も心地よく感じ始めてはいる。それは今日のコーヒーの味わいにも反映されていた。以前のような苦いだけのコーヒーを淹れなくなりつつある。
 貴志自身にとっても意外な事だったが、どうやら彼自身も変わってきているようだった。それでも変わらない事もある。変えたくないこともある。

 みんなを見送って、一人に戻った時、弟が帰るまでの束の間の孤独な時間を、貴志は自室にこもって過ごしていた。
 賑やかな時間は日が落ちて終わり、街が夜に包まれる。心が孤独の闇に最も深く染められる時間だ。そして心地の良い時間を過ごした罪悪感が彼の心を侵食し始める。
「ごめん」
 自然とこぼれる言葉が虚空へと消えていく。謝罪の相手にその言葉は届かない。両手で顔を覆う。その姿は頭を抱えているようにも見えた。
「紗霧…」
 一人になって思い出すのは決まって彼女のことだった。やるせない思いに髪を掻きむしる。
 この時期だった。
 貴志が紗霧への思いを抱き始めたのは、ちょうど2年前のこの時期だったのだった。
 気候が、空気が否応なしに記憶を呼び覚ます。とても幸せな気分に包まれていた記憶。振り返れば苦しい、苦しすぎる記憶を貴志はたどり始めるのだった。


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