【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第47話-春、修学旅行2日目〜理美③

 貴志の涼し気な笑顔を見たのは、いつぶりだろう。無理して作っている表情なのは、潤んだ目元が教えてくれている。

 貴志の表情が消えて、激しい憎悪の目線を向けられ、しばらく無言の時間がやってきた。髪を振り乱し、頭を抱えた貴志の声にならない悲鳴は、しかし耳に、心に確かに聞こえていた。
 思えば貴志が取り乱す姿なんて、ほとんど見たことがなかった。坂木紗霧を傷つけた。それ以外の理由で貴志が、我を忘れる程怒ることなどなかったからだ。
 紗霧の傷。そこに触れる発言をした。その後で向けられた涼し気な笑顔。
 それが自然な笑顔であるはずは、ない。
 ピチャリ…。静かな湖面で何かが跳ねた音がした。

 理美は震える声で再び話し始めた。
「みんなが貴志くんに、きゃあきゃあ言ってたとき、私はあんまり興味がなかったの」
 紗霧と同じだ。周りで女子たちが延々と騒ぎ立てるので、紗霧は呆れ返り白い目を貴志に向けていた。それは間違っても「好き」なんて感情は生まれないだろう、そう思わせる冷たい目線だった。
「隣のクラスでもね、ずっと貴志くんを呼ぶ声が聞こえてたんだ。
 興味のない私にとっては騒音だよね」
 しかし理美にもその時がやってきた。林間学校の班長会議で貴志の隣の席になったのだ。
「初めて話した貴志くんは、全然イメージと違って、紳士で真摯だった」
 隣でノートいっぱいにメモをとる貴志に、一生懸命な理由を聞いてみた。班のみんなと過ごす初めての行事を、トラブルなくみんなに楽しんで欲しいと答えた貴志。その涼しい笑顔に、胸が高鳴った。
「班長会議で顔を合わせるたびに、この人の笑顔が見たいって、思うようになったんだ。
 貴志くんは私の憧れになった。坂木さんより先に、私は、貴志くんのことが好きだったんだよ」
 それなのに。プリントの確認に貴志を訪ねた時、貴志の目はすでに紗霧を見ていた。涼しい目ではなく、どこか余裕のない、それでも確かに好意がこもった目だと思った。
「ああ…この人は坂木さんが好きなんだ。
 そう気づいて、胸が苦しくて。でも…それで気持ちが消えるくらいなら、最初から好きになんてならない」
 坂木紗霧が、憎かった。恨めしかった。貴志を好きなのは自分なのに。貴志を見ていない彼女のことを、貴志は見ていたのだ。
 
 諦めきれないまま林間学校の日がやってきて、班長としての役割を全うしてしまうと、貴志との接点もまた終わりを迎えた。
 そのうちに貴志と紗霧の交際が噂された。
「ずるいよね…坂木さんより先に好きだった私より、坂木さんの方が貴志くんのそばにいるなんて。
 だから、憎かった。坂木さんさえいなければって思ったよ」
 そして恨めしい目で見ている間に「あの事件」が起きたのだった。坂木紗霧は学校からいなくなった。
「坂木さんがいなくなったって聞いた時は、嬉しかったんだ…。貴志くんに気持ちを伝えて良いんだって、私にもチャンスができたんだって。
 でも…彼女の身に何が起こったのか、それを知って怖くなったの」
 怖いのは自分の心。嫉妬がいかに自分の醜さを見えにくくするのか。それが恋なんだと言われてしまえば、一生恋なんてしたくない。そう思えるくらいに、自分自身が怖かった。
「坂木さんがどれだけ傷ついたのかなんて、考えもしなかった。きっと彼女は貴志くんを好きなまま、貴志くんから離れることになったのに。
 好きなのにそばにいられない辛さは、私も知っていたはずなのに。いくら貴志くんを好きでも届かない。そんな自分が知らないはずがないのに」
 
 それから貴志は髪を伸ばし、周りと距離を取り始めた。そしてあの日、貴志の誕生日がやってきた。貴志は女子からもらったプレゼントを壁に投げつけて捨てたのだ。
 そして気がついた。傷ついたのは坂木紗霧だけじゃない。好きな人と離れざるを得なかったのも、坂木紗霧だけじゃない。
 紗霧がいなくなって、喜んでいた事を、理美は心の底から後悔した。
「私はきっと貴志くんを好きな気持ちしか見えてなかったの。
 坂木さんがいなくなった事で、貴志くんが傷つくことなんて事、考えもしなかったの」
 だから私には…。
「私には貴志くんを好きでいる資格がなかったんだよ。貴志くんの不幸を、チャンスだって思ってしまった私には、貴志くんを幸せにする事なんてできないんだから」
 涙が溢れてくる。あの頃貴志に抱いていた気持ちは、結局自分のためのものでしかなかった。貴志のため…と向けていた気持ちなんてなかったのだ。

 貴志は黙って理美の独白に耳を傾けていた。2年分の懺悔を静かに受け止める。
 二人の手を温めてくれていた飲み物は、すでに冷めていた。涼しいと言うには少し夜風が冷たい。
 それでも理美の肩が、声が震えているのは、寒さのせいではないだろう。
 彼女はずっと、紗霧への嫉妬を悔やんでいたのだ。
 その罪悪感に縛られて、それでもずっと自分を想い続けてくれていたのだ。

「貴志くんに告白したのも、他の子達と同じように、こっぴどく振られて、罵られて、それで私の初恋を終わらせようと思ったんだ。
 それが罰なんだって」
 しかし貴志は優しかった。他の女子たちとは違う態度で丁重にお断りの言葉をくれたのだ。
「紗霧がいなくなって、喜んで飛びついてきた女子たちとは違う。
 そう思ったから、俺は高島さんだけはひどい断り方をしないようにって思ったんだ」
 貴志が口を挟んだ。
 それが理美にとって辛い結果になるなんて、貴志には想像もできないことだった。
 理美は心に大きな嘘を抱えてしまった。
「坂木さんがいなくなって、喜んでしまったのは私も同じ。
 それが伝わらないまま、私は貴志くんに許されてしまった。
 貴志くんを好きじゃなくなる事が出来なくなってしまったの」

 貴志を想わないようにすればするほど、紗霧への罪悪感が理美を縛り付けた。貴志への想いが断ち切れなくて、苦しい。
 苦しさから逃げるように、理美は悟志からの告白を受け入れた。
「私が貴志くんへの気持ちを飲み込めるまで、隣にいたいんだ…。悟志くんはそう言ってくれた。
 私、あんなに真っ直ぐな人を、自分の心を埋めるために傷つけてるんだ」
 どこまでも勝手で、どこまでも残酷な私なんかの、一体どこが良いって言うんだろう。
 冷たい夜風がうつむいた理美の髪を撫でる。
「悟志くんとちゃんと向き合いたい。胸を張って彼に好きだって言いたい。
 だから貴志くんへの気持ちを縛る、この罪悪感を吐き出してしまいたかった」
 それも勝手な話。自分だけの都合で、貴志の心をかき乱してしまった。
「坂木さんに叩かれるの、当然だよね。
 結局私は私のためにしか、誰かを好きになっていないんだから。」
 貴志くんは坂木さんのために一生懸命だった。坂木さんは貴志くんに頼られようと頑張っていた。
 好きな相手のために…。私は全部、私のためだった。坂木さんに敵うわけがなかったんだ。

「それでも、紗霧を探してくれていた時は俺たちのために走ってくれただろう」
 貴志の言葉に、うつむいた理美が顔を上げる。貴志は落ち着いた笑顔で、理美を見つめていた。
「紗霧がいなくなって、俺は俺のために周りを遠ざけた。
 紗霧のためなんかじゃないよ。もうそばにいない紗霧に俺ができることなんて、何もないんだから」
 誰かのため。そんな尊い精神で行動できる者などこの世にどれだけいるだろうか。
 世の中のほとんどの人間関係は利害でできている。その中で自分を捨ててまで尽くしたい、そう思える相手に出会えることなど、それこそ奇跡。
 その奇跡が、貴志にとっては紗霧だった。
 今はその「誰かのため」を、理美に向けるべき時だろう。彼女は貴志に罰せられることを望んでいる。
 貴志は静かに理美を見つめている。
 ちゃぷん。また湖面で何かが跳ねた音がした。 
 

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