【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第51話-春、修学旅行3日目〜男子部屋の朝

 朝が来た。目覚めは良いとは言えなかった。標高800メートルの河口湖で夜風に当たり、すっかり湯冷めした体が悲鳴を上げている。加えて和室の薄い布団に裕の寝相の悪さ。
 貴志は目を覚ますと腹部の重みに身をよじった。裕がなぜか自分と交差するようにうつ伏せで寝ていて、二人で十字を形作っていた。
「裕…頼むから人の腹の上で寝るのは止めてくれ」
 ごもっともな意見だ。叩き起こされた裕が貴志にあくび混じりの謝罪をして、二人の1日が始まる。
 時計は朝の四時半を示していた。
「貴志…頼むから、オレを布団代わりに使うのは止めてくれ」
 いや…乗ったのはお前だろう。
 裕は大きく伸びをした。薄い布団で凝り固まった筋肉を、柔軟体操でほぐしていく。
「よし…行くか」
 朝食は7時半から。それまでは自由に過ごせる。2時間程度は時間が取れるだろう。
 二人は水を片手に表に出た。
 北に向って走り出す。朝のランニングが始まった。

 しばらくして隼人が目を覚ました時、隣の布団はすでに空になっていた。
 置いて行かれた!俺も…ランニング誘われていたよな…?

「あ、隼人忘れた!」
 奥河口湖のホテルから、かなりの距離を走り、裕が叫び声を上げた。すでに河口湖大橋の麓までやってきている。ちなみに南原隼人は物ではない。
「もう…どうしようもないな」
 貴志も過ちに気がついた。
 しかし今さら何も出来ることは残されていない。折り返し地点まで来てしまったのだ。迎えに行くということは、すなわちゴール。
 通話で叩き起こして待とうにも、その間に自分たちが宿まで帰れてしまう。
「まあ、アレだ!こうならないために、オレはお前に跨って寝てたわけだ」
 そんなわけなかろう!
 ひとまず二人は隼人をあきらめた。

 夜明け前の薄暗い闇の向こうに、うっすらと富士山の輪郭が見える。
 まだ稜線や、冠雪までは見えないものの、確かに圧倒的なその存在を感じることができた。
「ふーじーはーにっーぽん、いーちーのーやまー」
 湖に向って裕が歌い始める。
 止めてくれ…もう人が歩き始めてる。貴志は目頭を押さえた。
 元々の予定では河口湖大橋を渡って戻るつもりだったが、二人共息は弾む程度でまだまだ余裕があった。
 隼人がいない分、ペースも早い。
 結局二人は近道をすることなく、河口湖の外周18キロメートルをしっかり走り切るのだった。

 道の駅かつやまを通り過ぎた辺りから宿までの間、富士山は見えなくなる。
 それが合図だった。
 それまではハイペースなジョギング程度だったのに…。最後は二人して、お互いをダッシュで彼方後方まで置き去りにしようと、競り合っていた。数キロメートルに渡り全力ダッシュを繰り返す二人の体力お化け。
 全身を専用のウェアで固めた自転車乗りが、二人を追い抜いた。その後も何回か振り返る。スポーツ自転車でもしばらく視界から消しされないハイペース。
 自転車乗りはプライドがずたずたになった。

 ぜえぜえ…。ぜえぜえ…。
 ホテルに着く頃には貴志も裕も虫の息だった。いや喘鳴が激しすぎて虫の息という言葉はそぐわないのかも知れない。
 ぜえぜえ…。
 湖面からの静かな波音などあっさりとかき消してしまう位の喘鳴。
 勝ったのは裕だった。入口の前で膝をつく。
「勝ったあ!そもそも勝負なんかしてなかったけどな!」
 苦しそうな顔と声。それでも奥からにじみ出てくる満面の笑み。
「お前なら絶対に仕掛けてくると思ってたんだ」
 先にダッシュ合戦を始めたのは裕だった。しかし最初の仕掛けに貴志も一瞬で反応した。
 勝負は僅差だった。
 貴志も腰をおろして息が整うのを待つ。膝はガクガクと震え、立っていられない。
「高島さんに現抜かしてる今なら、なんなく勝てると思ったんだけどなあ。意外と食いつかれた」
 喘鳴の隙間からとんでもない発言が投げつけられた。
「見てたのか?」
 やぶ蛇…。裕は修学旅行中ずっと二人の距離感が近かったことをからかったつもりだったが…。貴志からは予想外の反応が返ってきた。
「貴志く〜ん。なんか楽しいこと、あったみたいだねえ」
 しまった。貴志は己のミスを嘆きながら、頭を押さえた。

「なるほどな…。高島さんも苦しんでたんだな」
 貴志から顛末を聞いた裕は、腕を組んでうんうんと頷いた。2年生の時に理美が貴志に告白をして、見事に散っているのは知っている。
 悟志と付き合っていると知った時、確かに二人の気持ちが繋がっているように見えたのだが。まだ貴志に気持ちが残っていたとは…。
「罪づくりな男だね〜貴志くんは」
 高島さんをそうさせたのは、悟志だろうな。あいつ、貴志に憧れ過ぎなんだよ。悟志は悟志のスタンスで、高島さんに愛情表現できてたら、彼女も少しは楽だっただろうに。
 裕はため息をついた。貴志を諦めようとしている理美に、貴志のように愛情をぶつける悟志を想像して、苦笑いが浮かぶ。
「結局貴志が、高島さんをもてあそんだって解釈だよな〜うん」
 呼吸はまだまだ整わない。裕はいたずらっぽい目線で貴志を見つめている。
「茶化すなよ…あと、このことは…」
 わかってるよ。裕は無言で頷いた。隼人を忘れてきて、良かったのかも知れない。こんな話を聞かされても、気を使うだけだろう。
 二人の呼吸がようやく整った。

 貴志と裕が部屋に戻った。カーテンの閉め切られた部屋はまだ暗い。その中で椎茸の形に光るものがあった。
 隼人がこちらを睨みつけてさめざめと涙を流していた。
「な、泣くなよ〜」
 裕がたしなめるものの、隼人は、
「おまえら、おまえら…」
 涙が止まる様子はない。
 傷ついた彼を風呂に誘って、三人は朝風呂へと向かった。

 露天風呂に出るとじゃれ合う声が聞こえてきた。
 聞き覚えのある声。瑞穂と理美だ。
 断片的に聞こえてくる声に三人の耳はダンボになる。どうやら、激しいボディタッチの応酬をしているらしい。そんな事をしている以上は女風呂には二人しかいないのだろう。
「あいつら…」
 貴志は深いため息をつくと、大きく息を吸い込んだ。貴志とて健康な男子中学生。これ以上艶っぽい声にさらされると心身の健康に悪い。
 まして相手は昨日抱きしめて、そして決定的な失恋を与えた相手なのだ。気まずい。
「お前ら、男風呂に筒抜けだぞ!」
 大声を張り上げる。
 壁の向こうから慌てた様子で水の跳ねる音が聞こえた。恐らくどちらかが胸元を隠した音だろう。どちらか、ではなく…どちらもか。
「あら貴志くん?良かったらこっちに入る?」
 大声で返してきたのは理美。完全に冗談で終わると思っているから言える言葉だろう。
「じゃあ、ワタクシが!」
 裕が手を挙げて飛び跳ねた。
 その声に再び水の跳ねる音がした。今度は間違いなく瑞穂だろう。
 恐らく目の高さまで湯に浸かったに違いない。
「ちょ…裕もいるなら先に言ってよ。一緒に入っていいわけないじゃん!」
 見えてはいないのに、本当に壁の向こうでそうなっているのが凄い。
 ちなみに女風呂からは飛び跳ねている裕の手のひらが見えている。

 誰も何も言わなかったから、別にいいけど…。貴志だけなら女風呂に乱入しても良かったのか?瑞穂さん。

 静かなはずの朝風呂は、まさかのドタバタ劇に見舞われた。修学旅行は出発してからずっと何かに振り回されている気がする。
 これまでの2日間で、どうしてこんなにも物事が集中して起こるのか。誰かが何かを仕込んでる?
 髪を乾かしながら考え込んでいた貴志に、確かに耳の奥で聞こえた気がした。ぎくり…と。

 先に上がって髪を乾かしていた隼人が二人に声をかける。
「俺、先に部屋戻るわ」
 裕が「おう!」と軽く返事をすると、隼人は背を向けたまま手を振った。
「あいつ…オレたちに二人の時間作ろうとしてるな」
 鏡の前でパンツ一丁の裕が、自身の筋肉を眺めながらポーズをとっている。中学生にしては引き締まったしなやかな筋肉を確認しながらも、真面目な顔つきを貴志に向けた。
「とりあえず服着ろよ」
 呆れながらも貴志だって上半身は裸のままだ。ようやく汗が引いてきた。
「紗霧の…ことなんだけど」
 制服に身を包みながら、貴志は重々しく口を開いた。
 そしてスマートフォンを取り出してメッセージアプリを開く。
 裕にメッセージを見せて、送信した旨を伝える。
「まだ紗霧は見ていないようだけど、アカウントが生きてるのは確認できてる」
 そのメッセージに目を通して、裕は苦痛に顔を歪めた。
「良いのかよ…。読まれてないなら、まだ取り消せるんだぞ」
 その一言に、貴志は静かに頷いた。
「俺が紗霧のためにできることは、もうこれしかないんだって気づいたから」
 それでいいんだと、貴志は寂しそうに笑った。
 二人の間を扇風機の風が吹き抜ける。風呂場には扇風機の音だけが響いていた。

 修学旅行3日目。男子部屋の朝はこうして始まった。 

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