【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第71話-梅雨が来た〜告白…そして

 1年1組の教室は音のない世界だった。しんと静まり返った放課後の教室に、今は貴志と紗霧の二人だけ。
 止まったような時の中で、その流れを感じさせてくれるのは自らの呼吸と鼓動のみ。鼓動は痛いくらいに早い。呼吸は荒く、何度も酸素を求めて息を吸い込むのに、まるで高い山の上にでもいるかのように苦しくて、満たされない。
 音のない教室で、自分の呼吸と鼓動だけが、やけにうるさく感じる。
 貴志と紗霧はお互いの席の前で立ちつくし、ただ無言で向かいあっていた。

 落ち着け…落ち着けよ、俺。いつものように声をかけるだけなんだ。これはまだ挨拶の段階なんだよ。

 深呼吸…落ち着いて、私。北村くんに息が荒いのがバレちゃう。お願い!落ち着いて!

「き、北村くん、まだ残ってたんだ」
 沈黙を先に破ったのは紗霧の方だった。どうしよう、言い方が冷たすぎやしなかったか。
「あれ?ひとり?」
 山村裕の姿はない。確か一緒に勉強すると言っていたはずだけど。
「ついさっきまでは裕もいたんだけどね」
 机を合わせて、ずっと裕が語るお尻トークに付き合っていた…なんて言えない。まして2人になってからは、その話に自分も花を咲かせていたなんてことも。
 おかげで今日は女子たちが早めに退散してくれた。

「坂木さんは個別指導だよね。いつもお疲れさま」
 進路相談室に卒業生を招いての個別指導。紗霧は週一回必ず個別指導を受けるために居残っていた。ちょうど今日はその日。
 林間学校の前は、班長の居残り仕事で個別指導帰りの紗霧と話していた。
 今は…今は特に用もなく、自習して紗霧を待っていた。
 そんな事を言えば、坂木さんは引いてしまうかな。

 山村くんが途中で帰ったのに、それでも教室に北村くんがいる。待っててくれた?そう思って、良いのかな。
「北村くんも自己学習お疲れ様」
 紗霧は貴志に向かってペコリと頭を下げてみた。
 その仕草に貴志は悩殺寸前だったが、なんとか態度には出さずにこらえきる。こらえきってしまった。そのせいで会話がまた途切れてしまう。

 再び訪れた沈黙。見つめ合う二人。お互いに言葉が、見つからない。
 音のない教室に駅からのアナウンスや、車の音、運動部員たちの声かけなどが、窓からうっすらと漏れ聞こえる。
 教室の中は…二人の心が奏でる、ハイテンポな鼓動のリズムのみが響いていた。

「あのさ…もう、遅いから、送っていくよ。暗くなると危ないから」
 いつものように。そう、いつものように貴志が、紗霧に声をかける。そのたびに断られ続けていた「送っていくよ」の一言を。
 その一言が紗霧にはもどかしい。北村貴志はいつも紳士的だった。その一言が女子全体に対する態度なのか、私に対してだけの言葉なのか…普段の彼を見れば見るほどわからなくなる。
 欲しいのはそんな言葉じゃない。だけど、今日も断ったら脈がないと思われて、二度とチャンスなんて来ないんじゃないだろうか…。それが怖くて仕方ない。
 紗霧が返事に迷っている姿を見て、貴志の心に落胆の影が落ちる。しかし今日は、退けない。今日退いてしまえば、これからずっと気持ちを伝えることなんて出来ないかも知れない。
 ごくり…。カラカラに乾いた口の中を、なけなしの唾液を飲み込んで潤す。
「送らせて欲しいんだ!坂木さんと、一緒に…帰りたい」
 振り絞った声はカスカスに乾いていたが、しかし力強く想いを吐き出すことができた。
「ん…」
 紗霧の息が止まる。首から上が熱くなるのを感じて、紗霧は呼吸を忘れていた事に気がついた。
 どくん…。一瞬止まったかの様に感じた心臓が、大きく脈打った。
「ああ…」
 ため息が漏れて、言葉がでない。
 林間学校で貴志と見上げた星空を思い出す。あの夜の様に、頭から言葉という言葉が抜け落ちて、なんと答えたらいいのかもわからない。
 長い沈黙の後に、紗霧は無言で頷いた。

 紗霧が頷いてくれるのを見て、貴志は心の中でほっと胸を撫で下ろした。しかし気を抜くのはまだ早い。肝心な一言がまだ言えていない。
 心の中で自分自身に何度も何度も「頑張れ」と声をかけ、やっとの思いで貴志は次の言葉を絞り出した。
「坂木さんのこと、好きだよ。
 俺の事を、俺個人として見てくれて、心配してくれて、頼らせてくれて…。いつもありがとう。
 そんな坂木さんが、すごく好きなんだ」
 溢れ出す想いをぶつける。膝はガクガクと震えていた。それでも目だけはブレることなく紗霧を見つめる。
 滝のように流れる汗は、背中だけに留まらず、ついには頬を伝って顎からも落ち始めた。泣いてるんじゃないか?自分でそう思うくらいに、顎から落ちる汗が止まらない。
「良かったら俺と…付き合ってくれないかな」
 言ってしまった…。ついに言うことができた。
 返事を聞くのが…怖すぎる。
 だけど、ついに言えたんだ。
 
「入学した頃はこんな事想像すらしなかったな」
 紗霧は俯いて言葉を絞り出した。その声は低い。
「だって、北村くんの周りにはいつも女子がいっぱいいて、ずっとキャーキャーうるさくて…。
 正直、嫌な席になったな〜って思ってたんだ」
 思い起こせば拷問のような日々だった。だけど避難するように中庭のベンチで読書を始めたら、思いの外快適に過ごすことができた。北村貴志の周りが不快な空間でなければ、外の読書という贅沢はずっと知らないままだったかも知れない。
「でもね、班長になってみんなのために遅くまで頑張ってる北村くんを見て思ったんだ。
 周りのことをすごく見てて、みんなの事をすごく考えてて…。
 この人は自分の事をちゃんと大事にできてるのかな?って」
 言葉にすると変に納得してしまう。そうか、私は北村くんの事が心配だったんだ。
 今更ながらの気付きに、紗霧の声のトーンが少しずつ上っていく。それは紗霧が貴志に抱いた気持ちと同じように、少しずつ、少しずつ。
「北村くんが疲れてしまわないか、すごく心配だった。一人で頑張ってる姿を見て、力になれたらって思ったんだ」
 人に頼ることが苦手な北村貴志。その理由を知ると、なおさら彼の負担を減らしたいと思った。
 内科医の母の代わりに家事をこなしながら、成績は常に上位。見えない努力をコツコツと積み上げている人なんだと思った。
 忙しい母に負担をかけないように、何でも自分でこなそうとするあまり、人に上手に頼れなくなってしまった。そんな貴志を…。
「みんな王子様なんて呼んで、北村くんを特別扱いするけど、都合の良いイメージばかりで、誰も北村くん自身の事なんて考えてもなかった」
 それなのに、貴志は周りを突っぱねることはせず、ただ期待に応えようと頑張っていた。頑張る必要なんてないのに。
「遅くなった時に、北村くんが送ろうかって声をかけてくれるの…嬉しかったよ」
 嬉しかったのは本音だ。だけど応えられなかった。
「でもね皆に優しい北村くんの言葉が怖かった。だって…だって」
 紗霧は言葉を区切ると胸ポケットからハンカチを取り出した。

 白いハンカチを両手で優しく包んだ紗霧が、貴志に向けてそれを差し出した。
「私のお守りなんだ」
 ハンカチを開くと、中からでてきたのは林間学校で貴志が作ったフクロウの木工細工だった。
「私、北村くんの事好きだよ。気づいたら好きになってたの」
 紗霧の肩が震える。よく見ると膝も震えていた。
「だから皆と同じように北村くんから優しくされるのが怖かった。
 すごく、すごく好きなのに、この気持ちが私の一方通行だったらって、いつも怖かった。
 誘ってもらっても、それが女子だからかけてもらってる言葉なのか、私にだけかけてくれる言葉なのかわからなかったから…」
 だって北村くんはいつもみんなの王子様だったから。
 ポロポロと紗霧の頬を伝う雫。雫は徐々に大きくなって、つながり、涙の川を作った。
 涙はとめどなく出てくるのに、胸の内は瞳から流れ出るばかりで声にならない。
 紡ぎたいはずの言葉の続きは、震えた吐息とともに宙に消えていく。

 貴志は膝の震えを抑え込んで、一歩前に出た。紗霧が木工細工をお守りにしてくれていた事が嬉しくて仕方ない。
 しかも胸ポケットに入れてくれていた。左胸…すなわち心に一番近い場所に。
 ふくろうを持つ紗霧の手を、両手で包み込むように握る。緊張で肩が震えた。
「坂木さんの気持ち、すごく嬉しい。
 もう一回聞いていい?俺と、付き合ってくれるかな?」
 声が上ずってしまわないように細心の注意を払いながら、貴志は言葉を紡ぎ出した。
 女子の手に意識して触れたのはこれが初めて。気を強く持たないと頭が真っ白になりそうだ。
 息が荒くならないように、静かに深呼吸を繰り返す。3回くらい深呼吸したあたりで、いつもの涼しい笑顔を見せることができた。

 北村貴志の笑顔に、緊張が、心が溶けそうになる。こんなにも心が安らぐ笑顔が、この世にあったのか…。
 両親以外で初めて得た安心感に、紗霧は思わずそのまま貴志の胸に飛び込みたい衝動に駆られた。
 なんとか踏みとどまって、ようやく紗霧は頭に言葉が戻ってくるのを感じていた。
 紗霧は貴志に頷いて、「私で良かったら」と返事をした。
 貴志は天にも昇るような気持ちで、ついつい紗霧の手を握る力が強くなる。
 紗霧がバランスを崩して、貴志の胸に飛び込んでしまった。その肩を慌てて抱いて、紗霧を支える貴志。
 貴志に体を預けたまま、紗霧は貴志の目を見て言った。
「ひとつだけお願いしても良い?」
 それは恋人としての初めてのお願いだった。
「みんなの…じゃなくて、私だけの王子様でいてください」
 貴志は静かに「喜んで」と返した。

 二人は人目を避けて緑地公園で待ち合わせた。それから二人は紗霧の家までの道のりを並んで歩いた。歩きながらどちらからともなく手をつなぐ。緊張しすぎてお互いに手汗が酷かったが、なぜか気にはならなかった。
 紗霧の家の前で連絡先を交換し、お互いをどう呼ぶか論争を、日が変わるまで、繰り広げた。
 そして名前で呼び合うことを決めて、眠りについた。
「おやすみなさい、坂木さん」
「おやすみなさい、北村くん」
 最後にお互いに交わしたメッセージは、結局苗字のままだった。

 二人の交際が始まったこの日は6月13日。この日、天気予報では高らかに梅雨入りが宣言されたのだった。

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