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038.“ものづくりする神”がおわす国

 こうした自然に対する感覚や美意識には日本に独特のものがありますが、働くということに対しても、私たちは神話の時代から独特の感覚を持っていたというのは、元東京大学教授の小室直樹です。
 法学博士でありながら、工学・数学・経済学・社会学・民俗学・史学・・・など多様な領域で独自の研究を進め多くの弟子を育ててきた異才ですが、彼は独自の視点から日本は神話の時代から「労働を尊び、神様までがものづくりに親しんでいた国」だと主張しています。
 
  「日本の最高神である天照大神は、機織りをしていらっしゃる。つまり
  働いておられる。機織りしているところに、弟の須佐之男命が裸の馬を
  投げ込んできたので大いに怒られた。」
  (⑨『日本人のための宗教原論』小室直樹、徳間書店)
 
 これは古事記/日本書紀で紹介されているエピソードです。
 古事記/日本書紀は両方を合わせて記紀と称されていますが、神々の誕生と日本の国の創成にまつわる歴史を記述したもので、『古事記』は712年、『日本書紀』は720年にまとめられたものです。
 どちらもなかなかの大部(古事記は上巻~下巻の3巻、日本書紀は巻第1~巻第30)です。教科書などでも部分的に紹介されているので、知っている人も多いでしょう。
 なかでもよく知られているのが、天照大御神が天の石屋戸の向こうに引っ込んでしまい、光を失った高天原が真っ暗になってしまうという故事です。困った神々が何とか天の石屋戸の戸を開けさせて天照大御神を誘い出そうと知恵を絞り、アメノウズメノミコトの踊りで誘い出すことに成功して高天原に光が戻った、という物語です。
 いったいなぜ天照大御神は天の石屋戸の裏に引っ込んでしまったのでしょうか。そのきっかけとなる出来事は教科書でもあまり紹介されていません。その原因の一つが、小室直樹が紹介している機織りの場面での須佐之男命の行為です。
 神様の行いとしてはあまり芳しくないので、省略されることが多いのですが、例えば以下のような、弟スサノオノミコト(須佐之男命/素戔嗚尊)の暴虐な行為です。
 その場面を、古事記はこう記しています。
 
  天照大御神、坐忌服屋而、令織神御衣之時、穿其服屋之頂、逆剥天斑馬
  剝而、所隋入時、天服織女見驚而、於梭衝陰上而死。
  (天照大御神、忌服屋に坐して、神御衣織らしめたまふし時、その服屋 
  の頂を穿ち、天斑馬を逆ぎに剝ぎて堕し入るる時に天の服織り女見驚き
  て、梭に陰上を衝き死にき。)
  (⑩『古事記』倉野憲司校注、岩波文庫)
 
 前者が原文、後者が読み下し文です。現代文にすれば、ある日、天照大御神が、忌服屋という御殿で神に献上する衣を織らせていた時、須佐之男命はその御殿の屋根に上って穴をあけ、斑色の馬の皮を剝いだ死骸を織物場に投げ落としました。これを見て驚いた織女の一人が、誤って織機の梭(ひ:機織りで横糸にくぐらせる縦糸をまいたシャトル)で自分の陰処を衝き、死んでしまいました・・・といったところでしょう。
 日本書紀でも、この場面は、同じように、
 
  「又見天照大神、方織神衣、居齋服殿、則剥天斑駒、穿殿甍而投納。是
  時、天照大神、驚動、以梭傷身、由此發慍、乃入于天石窟、閉磐戸而幽
  居焉。
  (また天照大神の、みざかりに神衣を織りつつ、齋服殿に居しますを見
  て、則ち天斑駒を逆剥ぎて、殿の甍を穿ちて投げ納る。是の時に、天照
  大神、驚道たまひて、梭を以て身を傷ましむ。)」
  (⑪『日本書紀』(一)、大野晋ほか校注、岩波文庫)
 
 と書いています。
 こちらでは、天照大神自身が齋服殿で神衣を織っていて、剥がれた馬の死骸が投げ込まれたことに驚いて梭で傷ついたとなっています。
 スサノオノミコトはそれまでも、姉である天照大御神が稲を育てている田の畔を壊したり、新嘗をいただく神聖な御殿に糞をまき散らしたりと狼藉を繰り返す神様、いまふうにいえばワルガキ弟?でしたが、さすがの天照大御神も、そうした弟のたび重なる無謀な行動にあきれ、憤慨して天の石屋戸の中に身を隠してしまったというわけです。
 この後、残された神々は太陽の光を取り戻し、世の中を明るくするために天照大御神が岩戸を開けて出てくるように知恵を絞って試行錯誤するのですが、その顛末はともかくとして、小室直樹が着目したのは、そもそも主神ともいえる存在の天照大御神自身が、蚕を育て、服を織る労働に携わっていたということです。
 世界中に宗教があり、創成の物語が残されていますが、多くの宗教では、その主神ともいうべき存在が労働などという卑しい行為をするものはほとんどありません。
 「ヨーロッパ人にとって多神教の最高神であるデウスが労働をしているなどという話は 聞いたことがないどころか、ゼウスが怒った時には、罰として『額に汗して働け』という刑罰を与えている。かれらの世界では働くことは懲罰だった。神話時代には神様は働かないし、労働はいやしい人間のすることで、働かない人間がエライ、というのが基本的な考えだった。それにくらべて、日本ではもともと働くことは価値があり意味のある行為であって、神様自らも労働に従事している」と小室直樹は講演などでも話しています。
 
  「農業に対してもその作業を重要視しており、いまだに天皇陛下は自ら
  田植えをなさる」(前掲⑨『日本人のための宗教原論』)
 
 というのが神話の時代からの基本姿勢であると小室直樹はいいます。
 そうした考えは気づかないうちに現代にも受け継がれていて、たとえば、日本人は、会社に勤めていて、窓際族になることを嫌がります。給料をもらって、働かなくていいから会社に来ておれ、という立場になるのを日本人嫌がりますが、逆に欧米人は「給料もらって働かなくていい万歳!」と窓際族になることを喜びます。かれらがそれを嫌がるとすれば、それは出世から遅れるからですが、出世してどうしたいかと言えば、働かずに収入を得るようになりたい、というわけです。
 また、日本人は定年になることを悲しみますね。働かなくていいと言われたら、生活には支障がなくても、何をしたらいいのかわからなくなり困惑する人が多いようです。それに対して、プロテスタントは「労働は価値がある」といいますが、多くの欧米人は働かなくてよい立場になることを喜びます。
 日本は神話の時代から、主神自らよく働きます。しかしキリスト教の立場は、強制される労働をやめられる立場になることを喜びます。これは宗教的な価値観の違いだ、というのが小室直樹の意見です。
 働くことに価値があり、人のために役に立つ労働をすることに価値を認めるのは神話の時代から受け継がれた日本人の特徴のようです。労働という行為に対するそうした意識が文化としてそのまま労働の結果=作り上げたものへの思いにつながっているのかもしれません。

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