【知られざるアーティストの記憶】第45話 彼の一番大切なもの
Illustration by 宮﨑英麻
*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月でマリに遺した記憶の物語*
第7章 触れあいへ
第45話 彼の一番大切なもの
マリがこの手紙を彼のポストにそっと入れたのは、2021年9月29日、愉氣を始めて二度目の水曜日の朝、気功に出かけるときであった。弟の入浴と洗濯に忙しい彼の邪魔をしないように、気功からの帰り道にそっとポストの中を確認すると、すでに手紙は無くなっていた。すると、ゴム手袋をはめたままの彼が息を弾ませて勢いよく玄関から飛び出してきて、
「ありがとうね。あなたが言っていることは、つまり『神』でしょ?ということは、『死』だよね?」
と言った。
「いいえ、母性ですよ。」
とマリは答えた。彼は納得したような顔でマリを見つめ、にっこりと笑っていた。
9月30日は、その週で唯一、朝の愉氣だけでなく昼間もゆっくり会える日だった。そのことを、マリはもちろんのこと、彼も楽しみにしてくれているように見えた。ところがそんな日に限って、マリは朝から体調があまり良くなかった。喉がうっすらと痛いことを認めたくはなかったが、体の内に感じるあの熱感と痛みは、マリの体に何者かが侵入してしまったことをマリに認めさせた。少なくても今日、愉氣はしないほうがよいと判断したマリは、橋のこちら側までマリを迎えに来た彼に正直に話した。
「今日はやめときましょう。昼もずっと休んでください。」
彼にさらりとそう言われて、マリは余計にがっかりした。
マリの体調不良は、動いているうちに良くなったので、彼に渡そうと準備していた切り干し大根の煮物と、鉄分を補うドライデーツを彼に届けに行った。彼の食生活があまりに貧相であることを知ったマリは、あまり自信のない手料理の差し入れにも踏み切っていたのだった。
「もう元気になった。」
と言うと、彼は躊躇わずにマリを部屋に上げた。愉氣はしなかったが、二人は何度も抱き合った。彼はマリのことを椅子に座らせたり、立たせたり、部屋のあちこちに連れ回した。決して強引ではない彼のリードに、マリは身を任せていた。
「こないだから抱きたくてしょうがない。」
「本当はもっと強く抱きたい。」
彼の言葉はとても正直だった。
「ずっと、こうしたかった。」
と言って彼は、立って抱き合った状態で、マリの右膝を左手でぐっと引き寄せ、二人の腰を密着させた。マリは彼にされるままに、フラミンゴのように片足で立って、開いた右脚を彼の体に巻き付けた。
10月1日の朝も、愉氣をしたあとに抱き合った。そのあと、彼は急に抱くのをやめて、いそいそと自分のスケッチブック(註1)を開いてマリに見せた。
「ほらな、嘘じゃないだろう?これは私が描いたんだよ。」
彼の絵に初めてお目にかかるマリに、彼はそう言って、自分が絵の腕前についてほら吹きじゃなかったことに同意を求めた。そこにはたくさんの動物たちと、幾人かの人間の姿が描かれていた。
「これが今描いてる原稿の登場人物のキャラクターだ。」
「へぇー。すごいね。動物たちがすごくかわいい。それに、なんとなくあなたに似てる気がする。」
「そう?じゃあ、これも見ていいよ。」
それは、彼の制作中の漫画の原稿であった。
『未来へのレクイエム』
と題する作品の、プロローグ部分とタイトルページ、そして、その展開の4ページ目までができあがっていた。緻密で美しい絵に、マリは息を飲んだ。これは彼の内面の形なのだ。それにはところどころ色がつけられていた。
「見ていーよ!」
マリを促す彼は、まるで母親に何でも見せたがる5歳の男の子のように、嬉しくてたまらない様子だった。
宇宙船から鳥や動物たちが次々に飛び出して来る。これから何かが起きようとしている、未来の物語のようだ。主人公はロボットのコスチュームを着た、よく見ると女性のようだけれど、顔が作者本人に酷似していた。
「楽しい?」
彼に感想を求められても、吹き出しにはまだネームが入っていないため、物語として読むことはできなかった。
「うん、おもしろそうだけど、字が入ってないからよくわからないけどね?」
「弟とあなたには見せてもいいと思った。」
彼は自分の一番大切なものをマリに見せてくれたのだ。
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。
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