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【知られざるアーティストの記憶】第09話 彼が愛した女性、彼とマリの共通するキーワード

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第2章 入院2クール目と3クール目の間
 第09話 彼が愛した女性、彼とマリの共通するキーワード

マリのこの質問も、唐突で不躾だったかもしれないが、もうすでに腹を割っている彼に対して遠慮する必要はないように感じられたし、何よりもそれはマリの関心事だった。

「そんなことはないよ……。」
彼はこの質問に対し、さっきまでの勢いを失した。痛いところを突いてしまったのかもしれない。語気を弱めて静かにそう答えたときの彼は、少し悲しげであった。

「私は残念ながら恋愛の機会には恵まれなかった。若い頃に愛した女性はいたよ。とてもきれいな人だったよ。彼女も思ってくれていたんだけど……。

女は違うかもしれないけど、男というのは一度愛した人のことをずいぶん長く引きずるものだよ。私は10代の時に出会った女性のことを、30代まで引きずった。」

彼は10代の終わりごろ、ジャズ喫茶で働く女性のことを一目見て愛し、それから毎日その店に通うようになった。彼女もその時に、彼を見てやさしく微笑みかけてくれた。二人は店で会話をしたが、店員と客の仲だったのだろう。愛を交わしたわけではなかったようだ。しばらくして、彼は何を思ったのか、彼女のことを愛しながらも自分から姿を消してしまう。

「バカみたいかもしれないけど、30代の時に急に『男の責任』みたいなのを感じて、彼女の住む町に会いに行ったんだよ。そうしたら彼女は、昔と同じ女友達と一緒に公園で乳母車を押していたよ。でも、彼女は髪型も顔も別人のように変わっていた。友達も同じだし、昔店でよくしていたのと同じ仕草もしていたから、彼女に間違いないんだけど。いったい私は誰を愛していたんだろうと、その時わからなくなった。」

彼が話すその女性のエピソードに対し、マリには嫉妬心が起こらなかった。過去に愛した女性なんているのが当然だし、あまりに昔の出来事であるのと、彼の愛が結ばれなかったことが、マリを嫉妬から遠ざけてもいた。マリはむしろその話をもっと聞きたいとさえ思ったし、彼女のことを愛していた彼にも、彼に愛されていた彼女にも親しみを感じた。

彼はその後も、ことあるごとに彼女のことをマリに話した。彼にとって大切な思い出であり、あまり話したくない部分も含んでいるようだったので、マリはこの話を根掘り葉掘り訊くことはせず、ただ彼の話すに任せていた。彼はその女性の名前も明かさなかった。彼にとっても昔の話だったのだろう。しかしふと話題にするのは、経験の乏しい彼にとって、彼女が女性像の基準となっていたからかもしれない。

彼の人生2番目の女性は、リサイクルショップで働く人だった。彼女のほうが彼に惚れ込み、彼もそれなりに気にはかけたようだが、自分に気を引くために突然怒りだしたりするタイプの女性で、心が通じることはなかった。

この日、彼が語った若かりし日の恋愛体験は以上のようなものだった。

結局2時間に及んだ玄関でのおしゃべりの、それはわずかな時間を占めるばかりで、この日彼がマリに生き生きと熱っぽく語ったのは、世界の、主にアメリカと日本の、文化と芸術の話だった。なにぶんマリがあまりよく理解しなかったうえに、詳しい内容をすでに忘れかけているため、彼の主張を誤って伝えてしまうことを恐れる。そこを間違えると、「そうじゃないよ」と天から静かなお叱りが聞こえてくるような気がする。どうか遠景に、ざっくりとこんなことを話していたとイメージするに留めていただきたい。

彼が話したのは例えば次のようなことだった。スタジオジブリとディズニーを例にとって、アメリカという国は国民が共通の文化的アイデンティティを持たないから、その代表するアニメ作品が表現している世界観は、文化という個性を持たずに人類にとって普遍の真理を表現している。だけどこれからの時代は宮崎駿の世界のように、個の民族の歴史文化を背景にした作品というのが求められていく、ということ。ゲームのファイナルファンタジーの映画がアメリカでなぜ失敗したのかということ。

それから、文化芸術というものは必ずその国の政治・経済と切っても切れないものであり、それをよく理解して上手に立ち回った芸術家は千利休とミケランジェロであったこと。

「こういう話は嫌いですか?」
と彼は途中でマリの様子を気遣った。
「いえ、すごく面白いですよ。」

マリは経済学部を出ていたが、在学した大学に西洋美術史の巨匠であった故若桑みどり先生がいて、あまりの面白さに当時4年生だったマリに西洋美術史への進路変更を迷わせたほどの彼女の名講義により、マリはこの分野には関心が高かった。しかし彼の話には、内外の漫画家、アニメーション作家、画家、小説家、詩人など、多岐にわたる分野の作家たちの名前が登場した。さらに彼は、世界経済の話をし始めた。
「ヨーロッパの経済が統一化していくことも、私は前からわかっていた。私が若い頃に予測したとおりに世界は動いてきているよ。」
静かに語る彼の目は鋭かった。

「東洋には思想があるけれど、西洋の哲学は思索なんだ。この思索の上に成り立つ芸術こそが最高の水準だと思っている。経済レベルが成熟していて、この思索を基にした文化が最も発達している国はフランスだと思う。」

今度は哲学と芸術の話だった。この言葉はマリにとって衝撃的だった。マリは中学生の頃に1年間フランスに住んだことがあった。それは他でもない、哲学を幼いマリに教えてくれた経済学者のマリの父が、彼と同じことを言ってフランスに留学したときに家族でついて行ったときのことだった。マリの父も、
「世界の最先端はフランスだと思う。この世界をよくするためには、経済学を学ぶことが最も近道だし、最先端に学ばなければいけない。」
と言っていた。40歳を超えたマリは、父親からはずいぶん離れたところまで来ていた気がしていたが、なんのことはない、父親にそっくりな人を好きになってしまったのか、と愕然とした。

彼の知識があまりにも詳しいので、この人はもしかすると大学の先生だったのかしら、とさえマリは思った。
「あなたはいったい、何学部を出たんですか?」
「え?大学?私はそんなところへは行ってないよ。」
と彼は口ごもった。

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