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【知られざるアーティストの記憶】第50話 なかなか手の届かないもの

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

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※本記事には性的な表現が含まれます。
 苦手なかたはご注意ください。

第7章 触れあいへ
 第50話 なかなか手の届かないもの

彼の布団の上で、マリは彼の上に馬乗りになっていた。マリが彼を押し倒したのではない。彼が自ら横たわり、マリをその上に乗せたのだ。
「男が上になって主導権を握るのは、私には合わない。」
と彼は言う。
「セックスは女が主導権を握るものだろう?」
マリは彼の目を見つめ返しながら、そうだったのだろうかと首をかしげる。

お互いに服を身に付けていた。マリは布団に入る前に上着を脱いだ。続いて、彼と身体を寄せ合うのに邪魔になるジャンパースカートを脱ぎ捨てたところで、
「脱がなくていいんだよ。」
と彼から止められたのだった。

「もしセックスするなら、キミが上になって騎乗位でできる?」
「……できるよ?」
できる、などと答えるのもはばかられるのだけれど、そう言わないと彼が安心しないような気がして、マリは努めて自信ありげにそう答えた。

キスはまだ許されていなかった。彼の血液や免疫力の状態がそれを許すのかどうか、次の検査受診のときに主治医に訊いてみることになっていた。

突然主導権を握ることを求められたマリは、自分のことを下から見上げている彼から「お手並み」を拝見されているようなものであった。マリは彼の髪を撫でながら、額に、瞼に、頬に、耳に、首筋にキスをした。そして、彼の胸や肩、腕を指先でそっと愛撫していった。

彼の上半身を慈しむ行為は、彼に対する愛情をそのまま動きに伝えて表現すればよいので、考えなくてもいくらでも湧いてくるものであった。彼はマリのことを下からじっと見上げ、どことなくぴんと来ない顔をしていた。
(彼は性器以外は感じないのかな?)
マリは少しの焦りを感じながら、やや漲りを感じる彼の性器に、とっくに潤っている自分の性器を互いの洋服越しにこすりつけた。が、
「そんなこと、しなくていいんだよ!」
と彼に制された。

彼が何を望んでいるのか、マリにはよくわからないまま、いつも行為はマリにとって中途半端だと感じられるところで中断された。彼は、女と抱き合う感触と自らの気持ちとをじっと観察しているようにも見えた。


©Yukimi 若い頃の作品『LAGRANGE POINT JMN-003』より(年代不明)


「見せてくれる?」
立ち上がったマリの、スパッツだけを身に付けている下半身を見ながら彼が言うので、
「いいよ。」
と言ってマリはするりとパンツを下ろした。彼はしばらくの間、露になった女の陰部を静かに平らかにじっと眺めてから、
「若い女性のまんこを見るのは初めて。」
と言った。マリは彼の前で脚を開いて見せたのではなく、彼はただ、向き合って立っているマリの下半身を上から眺めたに過ぎなかったから、彼のその表現に違和感を感じた。

彼は座り込むと、今度は自分の下半身を露にし、それを自分でじっと見ていた。心の準備ができていなかったマリは息を飲んだ。彼はマリとの間に絶妙な距離と角度を保ち、マリに絶対に手を触れさせないバリアを作っていた。彼の反射神経が並外れていることはすでに認知済みである。
「ほら、完全に立ってる。」
細くまっすぐに天を指す彼のペニスは、まるで美しい灯台のようにそびえていた。それは紛れもなく、美しい彼の体の一部であった。マリは手の届かない場所から、その姿をじっと目に焼き付けた。

「はい、見せ合いっこはおしまい。」
彼の合図と共に、その麗しい光景は一瞬で片付けられてしまった。

「セックスの指南書はあるんだよ。見るかい?」
と言って彼は、本棚から『LOVE LESSON』と書かれた本を抜き取った。たいして関心を惹かれないまま、マリは手渡された本のいくつかの項をぱらぱらとめくった。そして、端から端までレトロな香りに満たされたページの中の、完全に美しい女性の体つきばかりを目で追っていた。
「セックスをするときには、キミの体をぜんぶ愛撫してあげたい。」
彼のその言葉に宿された愛を、マリはすべて拾い集めて吸い込んだ。いったいその“時”は、私たちに訪れるのだろうか。彼に全部を愛撫されたら、私はとろけてしまうのではないだろうか。

交わるところまで至らない触れあいは、それはそれで温かく楽しかったが、戯れのようであった。彼をいまいち盛り上がらせられないのは、私の仕方が至らないせいだろうか。それとも、
「キミには性的に何も感じない。」
という言葉の通り、彼にとって私は魅力に欠けるのだろうか。しかし、楽観的なマリはそんな不安を脇に押しやり、きっと彼には時間と回数をゆっくりかけることが必要なのだ、と自分に言い聞かせた。


©Yukimi 若い頃の作品『LAGRANGE POINT JMN-003』より(年代不明)


「この間の夕方、道でキミと話したとき、キミはまるですれっからしのおばさんにしか見えなかった。」
唐突な彼の言葉に、マリは脳震盪を起こした。彼は今なんと言ったのだろう?彼よりも二回り若いというマリにとっての唯一のアドバンテージは、見事に砕かれた。確かにその日の夕方は特別に疲れていたことを思い出す。そりゃあ40代も半ばですもの、疲れているときや光の当たり方によっては老けて見えることだってあるに決まっている。だけどどうしてそんな心無い言葉をかけられなければならないのか、マリにはちっともわからなかった。

さらに彼は続けた。
「この間、布団の上でキミを下から見上げていたときだって、キミはおばさんにしか見えなかった。だけどキミが朝、お米を持ってきてくれたときは、キミは少女みたいに見えた。キミは朝のほうがいい。朝のキミは少しぼけっとしていて、いちばんキミらしいよ。」

なるほど、彼は描き手としての独特の目線でマリを観たときの印象を、正直にマリに伝えたまでなのだ。当然彼には悪気もないし、むしろそういうこともマリが理解し受け止めるであろうという信頼に基づいての発言だったのだと、理解できなくもなかった。

「ふうん。」
と言ってマリは笑った。若くはない自分が、彼の目にどう映るかなどは計り知れないのだ。自分を取り繕おうとしても無駄だという諦めは、彼と共に過ごすマリから余分な力を抜いた。

彼がマリを見るときの眼差しには、女を見る男としての視点と、万物の中に美しさを見る芸術家としての視点とが交差していて、どちらかというと芸術家視点のほうが先行しているようにマリには感じられた。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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