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【知られざるアーティストの記憶】第30話 長男の旅とマサちゃんと庭の野菜

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第5章 入院4クール目
 第30話 長男の旅とマサちゃんと庭の野菜

わかっているんです
あなたは この家にはいません
からっぽです
なのに ふしぎ
あなたは圧倒的な存在感を持っています
あなたが日々整えている
空間がそこにあるからでしょうか
あなたの家の
壁にも窓にもカーテンにも
木々にも草にも土にも作物にも
あなたが宿っています

(中略)

ああ あなたの作物は
どうしてあんなにも見事にたわわに実っているのでしょう

「マリの言葉」ノート『恋』より

2021/7/21「恋24」

あなたは美しく 麗しい
あなたの美しさに焼かれる

「マリの言葉」ノート『恋』より
2021/7/22「恋25」

彼の4度目の入院中に、マリはアルゼンチンタンゴ、フラダンス、アフリカンダンスのクラスの体験に行き、そのうち最もマリに勢いを与えたアフリカンダンスを習いに行くようになった。それまでの人生では、自分には縁がないとダンスになど見向きもしなかったマリが、にわかに踊りたい衝動に駆られての行動だった。それは、気功によってインナーマッスルが鍛えられ、踊りたくなる体になったという身体的な要請と、熱く激しく燃える恋のエネルギーを昇華させたい精神的な要請が見事に合致した結果のようだった。やがて、アフリカンダンスから派生して、ガーナの太鼓も習い始めた。

加えて、今回の彼の入院中には、マリの17歳の長男が自宅から約500キロ離れた京都まで自転車旅に出かけるという大イベントもあった。
「動機は何かすごいことをしてネタを作りたかった」
と言う17歳は、明らかに大人に向けて殻を破ろうとしていた。周りの先輩方に助けられながら自ら荷造りをする長男の成長の姿を感慨深く眺めながら、送り出すことと出迎えることだけがマリの役割だった。旅の間、長男とは常にスマホで連絡を取り合っていたが、精神的にこの息子の子育てを手放し終えていたマリは、この無謀な旅に大きな心配を抱くこともなく、立ちはだかる困難をもどこか安心の境地から眺め、気楽な声援を送った。

マリからその話を聞いたイクミさんの弟のマサちゃんは、思いのほか長男の旅を気にかけ、
「関西は今日からずっと雨だよ。」
などと、息子の行く先々の天気予報をスマホで調べては毎朝マリに教えてくれた。長男のその日の到達地点を確認して天気の心配をすることに、張り合いを感じてでもいるようだった。

歳の割に派手な色合いのスポーティーなTシャツを着こなすマサちゃんは、画面の大きなピカピカのiPhoneを片手に、颯爽と自転車でよく出かけていた。兄は黒電話なのに、弟はiPhoneなのね、とマリはこの兄弟の正反対を見つけて楽しんだ。

彼が入院してから、彼の家庭菜園のミニトマトとキュウリとナスは最盛期を迎えた。
「兄ちゃんからトマトをあげるようにって言われてるんだよ。」
と言ってマサちゃんは、庭で採れた野菜をせっせとマリに持たせてくれた。マリはそれをありがたく受け取り、家族で味わった。ミニトマトは見た目だけでなく味も素晴らしかった。ナスは時折苦かったり、ピーマンは固くなりすぎていることもあった。


ぴかぴかの野菜と
鮮やかな水色のアラジンパンツ(第19話に既出)

マサちゃんは市内のパン屋さん情報にも案外詳しくて、パン好きのマリと話が合った。この頃のマサちゃんはマリの記憶の中で最も生き生きとして見えた。マサちゃんが求職中であるということを、このときのマリはまだ知らなかったように思う。

長男が真っ黒に日焼けして、見違えるほど引き締まった顔に満面の笑みを浮かべて帰ってきたのは、2021年8月15日の夜だった。マリは彼の退院する日を正確には知らなかったが、その日は彼の退院の前夜であった。

つづく

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