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Bitter chocolate【映画感想文:ウォンカとチョコレート工場のはじまり】

チャーリーとチョコレート工場を観たことがあるだろうか。私は観たことの無い人を知らない。


先日、ウォンカとチョコレート工場のはじまりを観に行ってニッコニコで帰ってきた。
私は非人間的なものも色とりどりの世界もファンタジーも大好き。ウキウキで鑑賞してきた。

前作のチャーリーとチョコレート工場は2005年に公開したそう。私が5歳の時だ。でもこの映画のあるあるだと思うが、いつが最初かなんて分からない。金曜ロードショーがこれでもかと放送しているからだ。いつが最初か、何度観たかも分からない。それくらいいつも引き込まれるのだ。
でも、どんな展開で、どんな終わり方だったか、全員が全員覚えているかといえばそうではないと思う。

前作の「チャーリーとチョコレート工場」、最新作の「ウォンカとチョコレート工場のはじまり」の2作についての感想を書こうと思う。

ネタバレになるといけないので、まだ観ていない人はここで読むのを終えて欲しい。


2作の共通点、いや、面白い作品の共通点は、何が面白いか分からないけど、様々な理由で作品に入り込んでしまうことだと思う。
内容が面白い、絵が綺麗、歌が上手い、そんな簡単なものではなくて、もっと人間の内臓が内側から温かくなるような理由が隠されていると思う。

前作を初めて観たのは子どもの頃だったから、内容なんて予告編くらいの情報しか覚えていなかった。それでも面白いと思えたのは、私の趣味が幼少期から変わっていなかったからだといえる。大人になってから見ると、結構怖い。怖いというのは、心霊写真や怖い話などの驚きや一瞬の怖さである「恐怖」ではなく、日常とは掛け離れていて自分の価値観では許容出来ない「不気味さ」という意味だ。焼け落ちていく人形、人間では無くなっていく子ども達、「両親」を口に出来ない人間。周りにはいないという不気味さがそこにはある。私は、小さい頃から今の今までそんなものがすごく好きなんだと思う。

最新作もまた、怖い人間が生きている。クリーニング屋に扮した詐欺師達、身内を酷い目にあわせる金持ち、貧乏を蹴散らす権力者。
前作とは少し違って、不気味さが感じられる所は無いかもしれない。

唯一2作の共通している不気味さは、作品の中で光る、チョコレートだ。


チョコレートが無ければ、怖くて暗くて沈んだ世界にしかならない2作。チョコレートありきの明るい工場や店内、登場人物の感情だ。

不気味さとチョコレートが上手く合わさっているから、この2作は面白いんだ。他の映画では生み出せない。物理的な甘さと、深く淀んだ黒い人間性の融合である。


この作品で表現しているものはなんだろうかと考えた。「本当に大切なものに気付くこと」なのではないか。

前作では、危険で我儘な子どもは色んなトラップに引っかかり消えていく。その後、子どもも甘やかし過ぎたと思ったり、全く反省していない子どもが出てきたりするが、それもまた人それぞれで、自分が大切なものなんて誰が注意しても自分にしか気付けないものだと教えてくれている。

だがチャーリーはどうだろう。貧乏で、チョコレートを買う余裕も無いけれど、自分にとって大切なものは家族であると映画内で一貫している。人間にとって大切なものが家族なんだと言っているのではなく、自分の大切なものに気付くことが大切なんだと語る。その為に、家族が苦手なウィリーウォンカが対比として存在しているのだと思う。

最新作でも、主人公のウィリーウォンカと、女の子のヌードルが一貫して「母親・家族」を大切なものとしている。さらに、地下に閉じ込められていたクリーニング屋の仲間達も皆大切なものを心に閉ざして仕事をしていた。大切なものに翻弄された署長や、大切なものと偽装していた偉い人達が対比となっている。


大切なものは失ってから気付くという。

一度自分の前から姿が見えなくなってから大切だと気付く時もある。だが映画や創作などは何かを追い求めることが決まっていて、それに沿って作品が出来上がるし、思い付く。
創作において、一貫して何かを伝えようとする気持ちが大切なんだと気付かされた。

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