サマータイムと「いま、ここ」
みなさんは「サマータイム」を経験されたことがあるでしょうか。
欧州や米国ではサマータイム制度が導入されていて、夏と冬で時間が1時間ずれる。
春や秋のある日の夜中に、国の中の全ての時間を1時間ずらす。それによって、夏は日の入りが1時間遅くなって、そのぶん朝は日の出が遅くなる。逆に冬は、早く陽が沈んでしまうけれども、そのぶん朝の日の出は早くなる。
欧州のサマータイム制度は廃止の方向
ただ欧州でいえば、このサマータイム制度の廃止を望む声があり、2019年に2年後に廃止する法案が欧州議会で可決された。そして廃止された場合、通年で夏時間を採用するか、または冬時間を採用するかは、各国が決めることになった。
*ただしパンデミックの影響で、廃止に向けた具体的な動きは停止中。
なぜ、廃止が望まれたのか?
日頃、ドイツ人同僚たちとの間でサマータイムが話題に挙がることはほぼ無かったけど、チラホラと以下のような意見は聞いていた。
①正直、サマータイムにはそれほど興味がなくて強い意見は持っていない。
②でも聞かれたなら、年に2回、時間を変えること自体には賛成しかねる。なぜなら子どもが時差に適応するまで手がかかるから。
そう、ある日を境に時間が1時間ずれるので、子どもたちがそれに適応するのがなかなか難しい、という愚痴は聞く。2週間くらいは子どもの生活が乱れがちになるらしい。
つまり、時間をずらす制度をやめることはウェルカム、ということだった。
夏時間と冬時間、どちらに合わせる?
ではサマータイムを廃止する場合は、通年をどちらの時間帯に合わせる方を好むのか。これは、僕の予想では「夏時間」に合わせることを好む人が多いのでは、と予想している。
その理由は、生活文化と密接に関係している。
ドイツ人の多くは、仕事を終えて17~19時頃には家に帰宅している。そのあと天気が良ければ、夏場は21~22時過ぎ頃まで空が明るい。そしてヨーロッパの夏は一般的に気候がカラッとしているから、ベランダで過ごしたり、家の窓を開け放っておくと、非常に気持ちが良い。
みなさんはその間の時間に、スポーツしたり散歩したり、ベランダや庭でビールでも飲みながらのんびり過ごす。友だちやご近所と一緒にその時間を楽しむ人も多い。前回の記事で書いたように、ドイツではご近所から見える場所は美しく保たれているから、明るくて周囲が見える方が気分が良い。
更にいえば、食事文化の違い。ドイツ人は夕食をパン・ハム・チーズなど冷たい食事で終わらせることが多いので、夕方から夜の時間が食事作りや食べることに追われる家庭は少ない。そう、まさに「のんびりと過ごす数時間」になっている。
もし冬時間を通年採用すると、この明るい時間帯の「お楽しみの時間」が1時間短くなってしまう。どちらかと言えば、そのお楽しみの時間が短くなることが受け入れがたい人の方が多い、というのが僕の予想。
その代償として、冬の朝が9~10時まで暗い、という状況が発生するけれども、どっちを取るかと言えば、夏の黄昏時を失いたくない人数の方が勝るように思う。
夏の黄昏時という「いま、ここ」
いまドイツ生活の頃を思い出してみると、この夏の夕方にベランダで家族と過ごした時間が、次々と脳裏に浮かんでくる。
といっても、特別なことをしていたわけではない。
ただ、カラッとした夏のドイツの清々しい黄昏の時間を、ビールを飲みながら、緑と花で溢れるご近所の美しい庭を眺めたり。
家の隣の公園で、熱心にエクササイズや筋トレに励む若いドイツ人の男女たちをなんとなく眺めたり。
友人たちで集まって、楽器を弾いたりゲームをしたり、自分たちで工夫して思い思いに時間を過ごす人たちを眺めたり。
そんな人たちや風景を眺めながら、僕たちは家族でただのんびりと取り留めもない話をする。
そこでは、未来も過去もなく、ただその場所、その時を、無心で過ごす自分たちがいる。それだけで満ち足りた気持ちになる。
そんな時間が、そんな日常が。たぶん自分にとってかけがえの無い記憶として、脳に、そして体の五感に刻み込まれているんだと思う。
そんな満ち足りた「いま、ここ」を過ごす文化。それがドイツに文化として根付いているから、夏の明るい夕方を楽しめる時間帯を継続してほしいな~、と僕は思う。
「いま、ここ」=豊かさ
人の豊かさとは、突き詰めると、どれだけ「いま、ここ」を楽しむことができるかどうか、ではないだろうか。
僕の経験上では、先々の「いつかくるであろう楽しい日」や「今よりも良いはずの未来」を待ち望む日々に、豊かさはない。
それよりも、その場所、その瞬間をきっちりと味わって楽しむ。そんな「いま、ここ」をどれだけたくさん過ごせるか。それが豊かさを意味していると思う。
ちなみに、僕がイメージする「いま、ここ」の時間は、ビジュアルで一つ明確なイメージがある。
それは「トムとジェリー」の一場面。今から10年以上前の息子がまだ小さかった時期。彼が見ていたビデオを遠目にみながら、目を引いた場面があった。
夜になって、ジェリー(ネズミの方)がソファーの上で、上向きに寝っ転がりながら、それはそれはおいしそうに穴あきチーズを頬張りながら食べているシーン。
ジェリーは、ただ大好きなチーズを頬張って、その場、その夜の瞬間を全身で楽しんでいる(ように見えた)。
別に、高価なものが必要なわけではない。何日間も休暇をとって飛行機でどこかへ出かける必要があるわけでもない。特別なものは何も必要としないけれども、ジェリーは夜のソファーの上で、その場、その瞬間だけを楽しんでいる。この時間こそが幸せや豊かさを示している、と直感的に感じた。
「僕は、ジェリーのように『いま、ここ』を楽しんでいるだろうか?」
それから折に触れて、僕は自分に問いかけるようになった。
ついつい、「今ではないいつかの日」の方向に自分の意識が向かってやしないだろうか。その「いつか」とは、決して来ることがないことを僕は知っているにも関わらず。今ではないいつかに意識が奪われて、僕はいま自分が生きている瞬間を意味なく消費していないだろうか。
ドイツで発見した「いま、ここ」
結局、日本で生活している間は、自分の生活の中で「いま、ここ」を楽しめている実感を得られることはなかった。けれど、その後でドイツで何年も生活する中で、この夏の黄昏時の時間こそが、「いま、ここ」を体現した時間なんじゃないかと思うようになった。
家族と一緒に、または友人たちと、ただ他愛もないお喋りをしながら気持ち良い時間を過ごす。
そこに特別なものは必要ない。ただ、身近な大事な人たちと、その場、その時だけに集中して、なんとなく楽しむ。または、身近な自然の木々や花、鳥の鳴き声を、目で、耳で、楽しむ。
それ以上に豊かなことがあるだろうか?
いや、それ以上の豊かさを僕は知らない。
by 世界の人に聞いてみた
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