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永遠のいのちに生きよう「金持ちとラザロのたとえ」

イエスのたとえ話シリーズ No.9
「金持ちとラザロのたとえ」

2024年7月21日

ルカによる福音書16:19-31

16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

タイトル画像:ch1310によるPixabayからの画像


はじめに


私たちは今、変革の時期を迎えています。人生の意味と目的を深く問い直す時代に生きています。物質的な豊かさと精神的な充実の間で揺れ動き、社会の急激な変化に戸惑いを感じることも少なくありません。そんな中で、2000年以上前に語られたイエス・キリストのたとえ話が、驚くほど現代的な響きを持って私たちに語りかけてきます。

「金持ちとラザロ」のたとえ話は、単なる昔話ではありません。それは、私たちの価値観、生き方、そして社会との関わり方に鋭い問いを投げかける、生きた教えなのです。この物語は、富と貧困、成功と失敗、この世の価値と永遠の価値という、普遍的なテーマを扱っています。

しかし、このたとえ話の真の力は、それが私たち一人一人の心に直接語りかけ、自己吟味と変革への扉を開くところにあります。それは、私たちが何を本当に大切にしているのか、どのように他者と関わるべきか、そして人生の究極的な目的は何かを考えさせてくれます。

共に学び、共に成長しましょう。この古くて新しいたとえ話が、私たちの人生に新たな光を投げかけ、より深い意味と目的をもたらしてくれることを信じています。

物 語


「金持ちとラザロ」のたとえ話は、豪奢な暮らしをする裕福な男性と、その家の門前で飢えに苦しむラザロという貧しい男性を対比的に描いています。生前、金持ちは贅沢な生活を送る一方、重い皮膚病に苦しむラザロは、金持ちの残飯さえ欲しがっていました。
両者が死んだ後、状況は劇的に逆転し、ラザロは天使たちによってアブラハムのふところに運ばれ安らぎを得る一方、金持ちは地獄(ハデス)で苦しむことになります。苦痛の中、金持ちはアブラハムに助けを求めますが、両者の間には越えられない深い溝があることを告げられます。
さらに金持ちは、自分の兄弟たちに警告を与えるためにラザロを地上に送ってほしいと頼みますが、アブラハムは彼らにはすでにモーセと預言者の教えがあると答えます。最後に、たとえ死人が生き返っても信じない者は、モーセと預言者の言葉も聞き入れないだろうという厳しい結論で締めくくられます。
このたとえ話は、現世での行動と永遠の結果の関係、富の適切な使用、貧しい人々への配慮の重要性、そして神の言葉に耳を傾けることの必要性を鋭く指摘し、同時に死後の世界観を紹介し、神の前に悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信じなければならないという緊急性についても深い洞察を提供しています。

このたとえの対象は誰に対して

ルカによる福音書
16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

「金持ちとラザロ」のたとえ話の主題は、金持ちとラザロの対比によって、救いは富や名誉によって得られるのではないということを教えていると多くのクリスチャンは聞いていることでしょう。

果たしてそうなのかと、仔細にその内容を見ていきますと、どうもそうではないようです。イエスは誰に向けてこのメッセージを語ったのかというポイントに焦点を当てて見ていきますと、それだけではないということが浮き彫りになります。では一体誰に向けてイエスは語ったのでしょうか。

それはイエスが語った時の聴衆、特にパリサイ人たちに向けられていました。当時のパリサイ人の中には、金銭や贅沢な生活を愛する者たちがいました。

マタイによる福音書
23:2 こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
23:3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
23:4 また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
23:5 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
23:6 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
23:7 広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

「不正な管理人」のたとえを聞いたパリサイ人

イエスは、「金持ちとラザロ」のたとえを語る前に「不正な管理人のたとえ」を群衆を前に語っていました。つまり、「金持ちとラザロ」とは対になるたとえ話になります。

このたとえは、ルカによる福音書16章1-13節に記されている、イエスが語ったたとえ話です。これは、ある金持ちの主人に雇われた管理人が、主人の財産を無駄遣いしていたために解雇されそうになる場面から始まります。解雇の知らせを受けた管理人は、将来の生活を心配し、賢明な対策を講じることにします。

彼は主人の債務者たちを呼び寄せ、それぞれの負債を減額します。例えば、100樽のオリーブ油を借りている者には50樽に、100袋の小麦を借りている者には80袋に減らしました。この行動により、管理人は債務者たちの好意を得ることができ、将来自分が困ったときに助けてもらえるよう計らったのです。

興味深いことに、主人はこの不正な管理人の賢明な行動を称賛します。イエスはこのたとえを通じて、「この世の子らは自分たちの世代に対しては、光の子らよりも賢い」と述べ、世俗的な知恵の使い方について教えています。

さらにイエスは、このたとえを用いて「不正な富」(マモン)の使い方について教えを展開します。彼は弟子たちに、この世の富を用いて天に宝を積むこと、つまり永遠の友を作ることを勧めています。最後に、イエスは神と富(マモン)の両方に仕えることはできないと強調し、私たちの究極的な忠誠は神にあるべきだと教えています。

たとえを聞いてあざけるパリサイ人たち

ところが、この「不正な管理人」のたとえを聞いたパリサイ人たちはイエスを嘲笑しました。なぜかといえば、その内容が、他でもない金持ちである自分たちに対する皮肉であると感じたからです。

ルカによる福音書
16:14 さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

ルカによる福音書16章14節は、イエスとパリサイ人たちの間の複雑な関係性と、イエスの教えに対する彼らの反応を浮き彫りにしています。

まず、この節は「貪欲なパリサイ人たちもこれらすべてのことを聞いて、イエスをあざ笑っていた。」と述べています。ここで重要なのは、パリサイ人はどういう人たちであったのかということです。

まずは、パリサイ人は「貪欲」でした。この貪欲とは、金銭への執着を指しており、イエスの教えと彼らとの間に価値観の相違がありました。

また、彼らは「あざ笑った」(ギリシャ語:エクミクテリゾー)とあります。これは単なる笑いではなく、軽蔑や嘲りを含んだ反応を意味します。具体的には、鼻で笑ったり、唇を嘲笑的に曲げたりするような表情を指しており、誰かを全く無価値な存在として拒絶することや、悪質な個人攻撃を加えて、相手に恥をかかせることを指すと解釈されています。彼らは、おそらく、嘲笑した時に次のように思っていたのではないでしょうか。

「こんなくだらない取るに足らない人間たちが何を言っても無駄だ。富は神が与えた祝福だ。見るからに汚らしいお前らが上だと。おこがましいにも程がある。我々こそが神に選ばれた者だ。律法を守り、社会的地位を得た我々が正しいのは明らかではないか。この乞食同然の男が何を知っているというのだ。イエスの言う”神の国”など笑止千万。本当の神の国は、我々のような敬虔で裕福な者たちのためにあるのだ。お前らの言う”貧しさ”は単なる怠惰の結果に過ぎない。神は律法に忠実かつ勤勉な者を祝福し、怠け者を罰するのだ。このイエスという男は民衆を惑わすだけだ。彼の教えは社会の秩序を乱し、我々の立場を脅かす危険な思想だ。早くこの男を黙らせねばならない。」

あざ笑った背景には、パリサイ人たちの傲慢さ、自己正当化が表面化したとも言えるでしょう。自分たちの立場が民衆よりも上であり、上級国民という自負。また一方で、彼らが持っていた可能性のある恐れや不安をも指し示しています。多くの群衆を前にして、彼らの世界観や価値観がイエスの教えによって根本から覆されることへの焦りと抵抗感が、この「あざ笑う」という言葉の中に感じられます。また、自分たちの社会的地位や宗教的権威が脅かされることへの危機感も垣間見えます。

彼らの反応の背景には、イエスの教えが自分たちを批判していると感じたことがあります。特に、自分たちが不正な管理人に例えられ、神の財産を無駄遣いしていると示唆されたことへの反発が強かったと考えられます。

心理的には、パリサイ人たちのあざ笑ったことには、イエスの批判を強く意識しながらも、それを受け入れることを拒否し、むしろ嘲笑によってその影響力を減じようとする試みだと解釈できます。

ところで、パリサイ人とはいかなる人々であったか

パリサイ人の貪欲さについては、聖書や歴史的資料から様々な見解があります。断片的ではありますが、パリサイ人は、「貪欲」でした。(ルカによる福音書16:14)また、マタイによる福音書23:25では、パリサイ人をイエスが「強奪と放縦で満ちている」と非難しています。

ところが、パリサイ人は一般的に、律法に忠実で敬虔な生活を送ることを重視していました。しかし、彼らの中には宗教的地位を利用して個人的な利益を得る者もいたとされています。

ここで、「貪欲」という描写がパリサイ人全体に当てはまるのか、それとも一部の指導者に限定されるのかは議論の余地がありますが、イエスの批判は、彼らの外面的な敬虔さと内面的な欲望の矛盾を指摘している可能性があると考える説もあります。

他方、ヨセフスなどの同時代の歴史家は、パリサイ人の中に腐敗した指導者がいたことを示唆していますが、例えばヨハネによる福音書3:1に登場するニコデモを見ると、全てのパリサイ人が貪欲だったという一般化は避けるべきだという意見もあります。

結論として、パリサイ人の貪欲さについては、聖書の記述や歴史的文脈から示唆されるものの、全てのパリサイ人に般化、適用することは適切ではありません。この問題は、とりわけ宗教指導者の権力と富の関係、外面的敬虔さと内面的動機の矛盾など、より広い文脈で考察する必要があることです。

贅沢を享受していたパリサイ人

さて、話をもとに戻しますと、

ルカによる福音書
16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

この笑っていた人物とは、ヘロデ・アンティパスの宮廷に仕えていた書記官たちや、彼らと同様の高い生活水準を享受していたパリサイ人たちを念頭に置いていたと考えられております。
金持ちの描写には、ヘロデ・アンティパス自身を想起させる要素が含まれています。例えば、高価な紫の衣や上質の亜麻布、豪華な宴会などは、ヘロデの生活を彷彿とさせます。

このたとえ話が単なる一般的な描写ではなく、当時の特定の社会的・政治的状況を反映していると見ています。書記官たちが本来持つべき義の教師としての役割を忘れ、このような贅沢な生活を理想として追求していたことへの批判が込められています。また、この解釈は、パリサイ人が金に執着する姿と直前の離婚に関する教えとの関連性も示唆しています(ルカによる福音書16:18)。

さらに、ヘロデ・アンティパスの書記官たちの緩い道徳観が、主君の不倫や近親相姦的な行為を容認することにつながったという文脈をも示されています。

最後に、「ぜいたくに遊び暮らしていた。」という表現は、本文では εὐφραινόμενος καθ' ἡμέραν λαμπρῶς.(ユーフレノメノス カス ヘーメラン ランプロース)直訳は「毎日が、光り輝いて勝利の感覚を感じるので、明るい心の状態でいた。」という意味です。わかりやすくいえば、「毎日がお祭り騒ぎであった。」ということです。

筆者には、新改訳の意味とギリシャ語本文での意味は異なると思います。本文の意味は、堕落していても、堕落しているとは感じもせず、内面的な心の晴れやかさや爽快感、勝利に酔っている姿を示唆していることです。

現代への適用について

現代を生きる私たちへの警句として、イエスの「金持ちとラザロ」のたとえ話は、時代を超えて輝きを放ち続けています。

原典のギリシャ語が描く金持ちの姿は、単なる贅沢な生活ではなく、内なる勝利感に酔いしれ、日々を祝祭のごとく過ごす者の姿です。この描写は、自らの正義に陶酔するパリサイ人たちへの痛烈な皮肉として響きます。

豪奢な邸宅の門外には、全身が爛れたラザロが横たわっています。医師ルカの筆は、その悲惨な状況を克明に描き出します。ここに、私たちは人間社会の深い亀裂を見ることができるのです。

死後の世界で逆転する両者の運命は、現世の価値観への鋭い問いかけとなります。富や地位が永遠の命に直結しないこと、そして社会の最も弱い立場にある人々への配慮の重要性が、ここに如実に示されているのです。

「モーセと預言者に耳を傾けよ」というアブラハムの言葉は、聖書の真の理解と実践への呼びかけです。現代社会において、ともすれば感性や一時的な感動に流されがちな私たちに、御言葉の本質を深く掘り下げる重要性を説いています。

このたとえ話は、私たち一人一人に深い自省を促します。富や地位への執着が、真の霊的価値を見失わせ、社会的弱者への無関心を生む危険性を警告しているのです。

イエスの教えは、この世の価値観ではなく、神の国の価値観に基づいて生きることの大切さを説きます。それは、単なる来世の救いではなく、今この瞬間から始まる生き方の根本的な変革を求めているのです。

この永遠の真理に向き合うとき、私たちは自らの生き方を見つめ直し、真の悔い改めへと導かれます。それは、社会の歪みに気づき、弱者に手を差し伸べ、神の愛を実践する人生への転換点となるでしょう。

イエスのたとえ話は、2000年の時を超え、今なお私たちの心に鋭く突き刺さります。その言葉に真摯に耳を傾け、日々の生活の中で実践していくことこそ、現代を生きる私たちに課された使命なのです。

適 用


  1. 物質主義に陥らないように注意し、真の豊かさを追い求めよう
    現代社会では、物質的な成功や社会的地位が幸福の尺度として扱われがちです。しかし、イエスは、そうした価値観の危険性を指摘しています。私たちは、物質的な豊かさよりも、霊的な豊かさを追求すべきです。これは、他者への思いやり、愛、正義の実践などを通じて達成されます。日々の生活の中で、「何を本当に価値あるものとするか」を問い直し、永遠の視点から自分の行動や決断を見直す習慣を身につけることが重要です。

  2. 社会的責任を果たし、弱者への配慮を忘れないようにしよう
    このたとえ話では、社会の中で最も弱い立場にある人々への無関心さを厳しく批判しています。現代においても、貧困、差別、社会的排除など、多くの問題が存在します。私たちには、自分の周りにいる「ラザロ」に気づき、実際的な援助の手を差し伸べる責任があります。これは個人レベルでの行動だけでなく、社会システムの改革にも及びます。教会や地域社会において、弱者支援のプログラムに積極的に参加したり、社会正義のための活動に関わったりすることを求めていきましょう。

  3. 聖書への理解を深め、その理解に基づいた実践を行うようにしよう
    パリサイ人たちのように、聖書を表面的に解釈したり、自分の価値観に合わせて歪めて理解したりする危険性は、現代にも存在します。このたとえ話は、「モーセと預言者に耳を傾ける」こと、つまり聖書の真の意味を理解し、それを日常生活で実践することの重要性を強調しています。これは、個人的な聖書研究やデボーションの習慣を持つこと、教会での学びに積極的に参加すること、そして学んだことを具体的な行動に移すことを意味します。同時に、自分の解釈や理解を常に吟味し、他者との対話を通じてより深い洞察を得る姿勢(謙遜さ)も重要です。

これらの適用は、私たちの日常生活、社会との関わり、そして信仰生活全体に及ぶ包括的な変革を求めています。「金持ちとラザロ」のたとえ話は、単なる道徳的教訓ではなく、私たちの人生観と世界観を根本から変える力を持っているのです。