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3メートル先を照らしながら歩いていく

私と「はたらく」の初めての出会いは、1メートル四方の試着室の中だった。

社会に出て働きたいなんて一度も思ったことはなかったが、大学3年生の時に、ついにリクルートスーツを買った。

正確には親に買ってもらった。これから就職活動をする私のために、正月の休みを使ってスーツを選んでもらった。

「試着してみなよ」

と言う親の声に、全く気乗りしない声で面倒臭そうに答えて試着室へ向かう。

「サイズが合わなければお声がけください! 」

店員が餌を見つけたかのような声で、試着室のカーテン越しに話しかけてくる。かろうじて最後に見た店員の顔の目の奥は笑っていなかった。

試着室に入り、鏡をみる。ああ、俺は何をしているんだろう。と鏡越しに映る顔を見ながら思う。期待に疲れた顔は、通学中の満員電車で見かけた社会人と同じ色をしていた。

***

どうしても社会人になりたくなかった。

大学は職業訓練の場だと誰かが言う。いい仕事につくために。いい給料をもらうために。いい大学を目指す。

私は高校の時からやりたいことなんて一つもなかった。クラスという枠組みの中で閉じ込められている感覚が怖かった。みんなで同じものを目指す。みんなで共感しあう。場を乱す人間は空気が読めない。そんな場が大嫌いであった。

友人もおらず、リア充とは程遠い学生生活を過ごした私は、浪人したのち、高校の同級生が集まる地元の大学を避け、地方の大学へ進学した。

大学では、30人という狭い枠組みのクラスから離れ、自分の好きなことを好きなだけする。好きな時に海外に行き、視野を広げる。朝まで友人と飲んで語り合う。ちょっとやる気がなかったら授業をサボり、夕方に起きて朝ごはんを食べる。

そんな自由な日々が好きだった。

英語学科にいた私は、英語の勉強の一環で、海外のニュースを読んだりすることが好きだった。その中で「ギャップイヤー」という単語を見つけた。就職する前に休学をして、海外に行ったりインターンをしたりしながら、自分がしたいことを突き詰めていく。そんな自由さに憧れ、大学を休学し、1年間東南アジアを巡ったこともあった。

***

なんというか、働くっていうことが怖かったのだ。

社会人は時間がない。社会人は疲れる。働きがい。ブラック企業。残業。人生の可能性を狭め、窮屈な時間を送ること。理不尽に怒られ、疲れて疲弊して帰ってくる単調な毎日。

そしてなにより、「社会人」という枠にはまることが本当に怖かった。無個性。無味無臭。会社の歯車。引かれたレール。家と会社の往復の日々。

そんな言葉を聞くたびに、社会に出ることが一層怖かったのだ。

「なんでそんな無駄なことをするの?」

ギャップイヤーに影響され休学を決めた時に、かつての同級生に言われた言葉だ。無駄とはなんだ。なんでお前に無駄と言われなければいけないんだ。心の中で激昂しつつ、前の見えない自分の道を進んだ。

怖かったのだ。深さのわからないプールに足を入れるかのごとく、水温や深さを調べることは、私にとって人よりも時間がかかることであった。

先の見えないことは怖い。働いた経験がなかった私は、見えたり聞こえてきた範囲でしか物事を判断できなかった。働くことなんて、特にそうだ。

だから、手を替え品を替え、視点を変えて働くこの先を先延ばしにしながら、どうにかこの先のことを想像しようとした。でも、できなかった。経験のないことは想像できない。

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よし、働こう。と思ったのは、同級生が働き始めてから2年後のことであった。決して前向きな理由ではない。周りの目が怖くなったのだ。

働かずに何もしていない自分。いつまでも自分探しをしている自分が、世間からどう思われるかが怖かった。

「御社を志望する理由は3つあります」

無個性なリクルートスーツに身を包み、無理やり捻り出した志望動機を口に出し受かった会社は、イベント会社だった。激務、と言われていたイベント会社ではあったが、大学で自分でイベントを開いたりしていたこともあり、どうせ働くなら今までの経験が生きそうなことをやってみたかった。

大学でも、いわゆる学生団体でたくさん友人とイベントを開催してきたし、なんとかなるだろう。むしろ活躍できるだろう。そう思っていた。

しかし、結果は毎日先輩やクライアントから怒られる日々。しまいには徹夜でイベントの設営をしたり、企画書を書いたり。深夜まで働く上司よりも先に帰ることが怖く、わからないことがあっても、これを聞いても大丈夫かなと不安な気持ちも多く、毎日が憂鬱だった。

社会人一年目のある日、深夜12時に自宅についたものの、疲れ切ってしまい、家に入る前に玄関の前で初めて買ったタバコで一服した。ふと夜空を見上げると、雲がかった月と、雲の切間から見える星が薄らと見えた。

「なんでこんな辛い思いをしながら働いているんだっけ?」

残業代のおかげで同世代よりも少しだけお金をもらえている。けど使う時間がない。大学の友人とも話す時間も減ってきた。気づけば、卒業してから季節も変わってもう葉っぱが色づいている。こんな景色に気づかないほど熱中するものなのか。働くことに楽しみを見出せなかった。それからしばらくは、仕事を覚えるための辛い日々が続いた。

それから夜になるたびに家の外に出て空を見ながらタバコを吸うことが習慣となった。雲の切れ間から、「ほらみたことか」と、学生時代の自分が声をかけてくる。

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この時の私の「働くということ」は、人に迷惑をかけないことであった。一緒に働く人に怒られないために。働く時間を増やさないために。とにかく必死で仕事を覚えて、言われたことはなんでもやる。そんなガムシャラで、先の見えない働き方をしていたと思う。いずれにしても、働くことが怖かった。

***

社会人2年目のある日、朝の喫煙所で上司から 「最近調子いいじゃん」と声をかけられた。全く自覚はなかったが、眠い目を擦りながら「ありがとうございます」と返した。

2年目になり、少しづつ以前と比べてスケールの大きい仕事をさせて貰えるようになった。

日に1000名も参加者がくるイベントの統括を通じ、大きな物事は一人では動かせないことを学んだ。100人のスタッフを動かすには、一人一人の性格に合わせ、指示の伝え方を変えた方がうまくいくことも学んだ。そして、イベントを終える中で、達成感を味わえるようになった。

それから徐々に、働くことに達成感を見出すことができるようになった。依頼されているクライアントを喜ばせるにはどういう提案ができるだろうか。必死に仕事を終わらせる残業から、どうやったらいい提案になるかを必死に考える残業に変わった。

働いた先に、結果がどんな人たちに影響されていくのか。仕事は相変わらず辛かったが、はたらいた先が見えるようになったことで、辛い質が変わった。そして、「はたらくこと」に追われるから、「はたらくこと」を追うようになった。

自分に足りないことは何か。得られるスキルと経験から逆算し、上司にアピールして仕事にアサインしてもらえるように交渉した。そしてその年、富山などの国内出張を始め、台湾、フィリピンに海外出張に行った。海外のクライアントと仕事の話を英語でした時、ようやく学生時代に学んだ英語が活きているようで感動したのを覚えている。

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それから、社会人4年目の年に転職した。イベントを企画するよりも、イベントの認知を広めることがしたく、PR会社に入った。そこで一から知識をつけて働く。第二新卒ではあったが所詮は中途入社。運良く面倒見の良い先輩の下に付くことができ、沢山のことを学ぶことができた。また、曲がりなりにも3年間働いたビジネスの基礎が生きたと思う瞬間があった。

1日でも早く即戦力となるために、一からPRについて勉強をし、クライアントのニュースを全て読み込んだ。

一方で、副業が許されるPR会社であったため、イベントを趣味レベルで続けることにした。同じようにキャリアを積んだ仲間たちと共に一般社団法人を立ち上げ、「ライフステージのどの場面でも戻ってこれる」をコンセプトにMeetup イベントを実施したり、オンライン空間で文化交流を企画してみた。

この頃から、プライベートの趣味に仕事のスキルが生きることに気付き始めた。各分野で仕事をしている人たちと組んで、お互いの強みを仕事外で活かす。できないことを相互に補完していく。そういうことを繰り返すことで、一つの大きなことができるようになる。「はたらくこと」を頑張ることで、趣味の幅が広がり、深まる。

「はたらく」を追いながら、「はたらく」を広げていくこと。そして他の人とプライベートを楽しむため、はたらきスキルをつけようと、今の仕事を頑張ろうと思った。

***

そして30歳になった年に3度目の転職をした。

PRとイベントを頑張ってきたが、別々に仕事をするのではなく、両方のスキルが活かせる場がないかと探したところ、IT企業にイベントプロデューサーとしての募集の枠があり、採用していただいた。

今は、これまでの「はたらく」の積み重ねを活かしながら、自分の好きなことを軸に働けていると思う。

「はたらくってなんだっけ?」

これは、時とともに変わる価値観であると思う。学生の時は、はたらくことは本当に怖かった。まだ見ぬ生活に恐れ、先に進めないこともあった。でも、今思えばそれでよかったんじゃないかと思う。ギャップイヤーを使い、なんとなく「この仕事だったら多少辛くてもいいや」という分野にたどり着くことができた。だから、偉そうにいうけれど、もし働くことに不安を感じる人は、働く必要ができるまで待つのもいいかもしれない。

間違いなく言えるのは、学生時代に人生の100%の正解を見つけることができない。所詮、今生きている範囲の3メートル程度先しか人生は見えないから、そのときに好きなことをすればいいのだ、と今なら言える。

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生きていくことは、懐中電灯を持って3メートルくらい先のことを照らしながら歩いていくようなものだと思う。もちろん例えであるが、今の場所にいるだけであれば、先のことはわからない。想像し切ることは難しい。けれども、歩く中で、先に進む中で徐々に照らせる範囲が広がり、わかる景色もある。そして、後ろに道が創られていく。

働く前は、働くこと自体が得体も知れず怖かった。そして、いざ働いてみた社会人1年目は本当に辛かったが、日々をガムシャラに頑張り結果を出すことで、道がどんどん広がっていった。その時の自分の「納得感」は、生きているステージの中で意味合いが変化していった。だから納得感に正解を見出そうとせず、その時その時の自分の納得感を探せばいいんだな、ってことを、歳をとるたびに確信していく。

転職して分かったことは、始めるに遅いことはないこと。道を途中で切り替えることができることだ。そして、切り替えたからといって経験がリセットされるわけでもなく、積み重ねの上に立って見える景色が広がっていくということだ。

仕事のスキルは趣味にも活きることを知る。仕事とプライベートのメリハリを、と誰かが言うけれど、なんとなく地続きなところもあると思う。仕事で培ったものは、日常でも活きることがある。そう気づいたら、仕事を頑張ることで日常を楽しむことができ、日常の充実が仕事にも反映される。

私にとって「はたらく」は、時間と経験を積み重ねることで出会う、自分の中の新しい価値観と変化を楽しむ手段だ。

「はたらく」ってなんだろう。はたらくを積み重ねていく中で、そして生きていく中で意味合いが変わっていくのだろう。きっと、また来年は別のことを言っているのだろう。でも、そういう変化を楽しみたい。変化のきっかけに気付きたい。そんなことを学生時代の自分に言っても、きっと「知るかよ」って言われると思うけど、それでいい。

働くことの意味を考えていく中で、これからどんな道があり、どんな答えを出すのか。3メートル先の未来を照らしながら、働くことに向き合っていきたい。

暗闇の中、3メートル先を照らしながら前に進むのは怖い。けど、暗い話ばかりではきっとない。

懐中電灯で先を照らしながら、道なき道を歩いていく。

この働いた道の先に、まだ何が待っているのかは見えてこない。けど、きっと明るい出来事も待っているのではないかと、今なら言えそうだ。

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