見出し画像

徒然 取るに足らない私の自信

私はどれだけ頑張れているのだろう?
みんなの方がもっと頑張っていて、評価されていて、凄いのではないか?

私なんて大したことないな。

大学に通う道中、電車内には髪色が派手な人や大きい楽器を背負っている人、デカいキャンバスを持つ人、何らかの立方体を手にしている人が溢れかえっている。
彼らはみんな同じ大学に向かっている。
だけど、学科は違う。
演奏学科に、美術学科、デザイン学科に写真学科。ダンスコースも演劇コースも工芸学科だって、幅広い。
彼らの荷物は多い。

文芸学科なんて、ノートとペンがあればいい。
それすら要らないかもしれない。パソコンか、スマートフォンで事足りる。

電車の中で、なにかの動画を見ている大学生。
そこには大学のレッスン室で踊っている映像が映っている。ああ、きっとこれをこの人も踊るのだ。覚えるために見ているのだ。

授業に出るために大学構内を歩く。
写真を撮る人がいる。
大きなキャンバスに絵を描いている人がいる。
その絵はとても上手い。
いつの間にかステージが出来上がっていて、そこで楽器を演奏する人がいる。

司書資格の授業が行われる校舎に入る。
そこはデザイン学科の校舎だ。
1階では、何らかの実習の成果発表として作品が展示されている。
ビジュアルアーツのゲーム企画書。
表紙とともに設定がまとめられたポートフォリオ的なものが置いてある。

クオリティは低くない。軽く見ただけだけど、やっぱりちゃんとしてる感じがする。
絵のうまさ、そして、魅せ方。
分かりやすく、ゲームの内容がわかるし、いい意味でわからない。期待させられる。

すごいなぁ。
いいなぁ。

みんな頑張ってて、ちゃんと作品を作っているんだなぁ。

いいな、羨ましい。
負けているかもしれない。

私は何も出来てないかもしれない。

彼らの方がずっと前に進んでいるのではないか?

そう思うと恐ろしくなってくる。
私は何も出来ていない。
もしかしたら、時間を無駄にしているのではないか。

すぐに自己批判を始めてしまう。

だけど、考えてみろよ、私。
今年1年で本を作って60冊売りきった。
noteは365日毎日投稿がもうすぐ完了する。あと一週間程度だろう?
Twitterのフォロワーも2000人を突破した。
ファンになってくれた人も多い。

色々できてるよ、大丈夫。

自分にそう言い聞かせる。
家族にも「凄いよ」と言われる。
D先生にも「そんなにやってる学生いないよ」と言われる。

でも、でも!
同期には3万フォロワーいる人もいるし、
学内の賞だろうが受賞してる人もいる。
商業の依頼を受けてる人だっているし、
公募に投稿してる人だっている。

私なんて何も出来てないじゃないか。

本を作るのなんてみんなしてる。
売ってるだろうし、サークルの合同誌に毎回寄稿してる人も多い。

友達がみんな多い。
一緒に遊びに行く人がみんないる。
みんな、みんな。

私は無数のみんなと戦っている。

コピーライトの授業、匿名で講評をしている。
私は私の作品だとわかってる。
だけど、それ以外の50個は誰かで、全員ライバルだ。
誰かは『誰か』で、『私以外』は1人のように認知してしまう。だから、私の作品が褒められるより、『誰か』が褒められることの方が多い。
毎回褒めてもらっているけれど、それより褒められてる人がいる。
1番に選ばれているのは毎回違う人だと思う。
だけど、私にとって『誰か』でしかないから、私は常にその人に負けていると考えてしまう。

馬鹿だと思う。

この授業だけじゃない。他の授業や日常生活でも同じように考えてしまう。

私に無いものを見てしまい、辛くなる。

馬鹿でしかない。

私は私が出来ていることは当たり前でしかないからそれを褒めることはない。
毎日noteを書くのも、毎日色んなことを観察するのも、技巧について考えるのも、大衆が求めるものが何かを考えるのも、料理をするのも、覚えるのも、元気に友達に声をかけるのも、1人でご飯を食べるのも、全部当たり前なんだ。

意識して出来るようにしているけど、出来ることはしなきゃいけないこと。

人間は、自分の出来ることを凄いと思わない。

他人からしたらその行動がすごいのに、と思われていても、自分の出来ないことをしてる他者の方が偉く思えて悲しくなる。

そういうものらしい。

知ってる。
知ってるんだけど、やっぱりそれでも、それを理由に私が努力を怠っていいわけじゃない。

でも、体はひとつで。

私はずっと戦っている。
戦っていないといけないって思い込んでいるんだ。
小学生の時からずっと、ずっと、気を張っている。

私は完璧でなければならない。
1番進んでないと行けない。
そうじゃないと、誰も助けてくれないから。
誰も私の言葉を聞こうとはしないから。
非があれば、全部だめだと言われるから。

あの頃の記憶が私の全てを支配している。

そして、私は全員を見下しているんだろう。
劣っている人だと思っているのかもしれない。
私が1番でありたい。それは、みんなが私の下であって欲しいと思っていることと紙一重である気がする。

高校の時の演劇部の同期。
彼女は部活の時になんの仕事もしてくれなかった。全部の指示をしてお願いして、教えないと何もしてくれなかった。
照明もほとんどしてなかったのに、
彼女は私と同じ大学の舞台芸術学科で照明の勉強をしている。
私が部長の仕事で部活の問題を解決するために奔走してらもう無理ってなった時、助けてなどくれなかった。それどころか、「とかげが悪い」と言った。

そんな人が、文化祭のなにかの発表で1人で照明をしたと聞いた。
それに対して、私は「私の方が劣っているのではないか?」と不安になった。
私は文化祭で何も出来ていない。
大学に入る前は演劇サークルを作ってやるつもりだったけど、コロナで無理があったから辞めた。
だから、私の方が負けなんじゃないか。

私はあの子を下に見ていたのだろう。
それは確実だ。見下していた。恨んでいるし、顔も見たくないと思っている。
だけど、それは本当にあの子が悪かったのか?
私は私の方が優位であろうとしたのだろうか。

辛くなる。

私は何も出来ていない。
何もやってない。
もっと全部やりたかったのに。
大学生として、何も出来てないじゃないか。

そうやって追い詰めるのは私だけ。

いや、来年になれば就活をしなければならないらしい。

そう思うとこの2年がコロナによって潰れたことは本当に損失だと思う。

そもそも、大学の3年生になった時点で就活をしなきゃならない世の中がおかしいのではないか。
苦しい。何も出来てない。

ずっと20歳で死ぬって思っていたのに、
何も残せてないじゃないか。

20歳で死んで、「惜しい人を亡くした」って、夭折したことを悲しんでもらって人の心に残りたかった。傷をつけたかった。

なのに、20歳をすぎもうすぐ成人式だ。

私は、何を残せるのだろうか。

みんなの方が進んでいる。
私は何も出来ていない。
早く進まないと、何も出来ないままになってしまう。

即時承認を求むっ!!!

この記事が参加している募集

#振り返りnote

85,359件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?